裏返しの日々
ゆっくりと目を開けた。
視界に入ったのは、見慣れた寝室の天井。
ふぅ、と息をつく。
ああ、変な夢見ちゃったなぁ。
かなちゃんたちは酷いこと言うし、ママは訳のわからないことで怒るし。
でも夢だったんだ……。よかったぁ……。
ごろん、と寝返りをうつ。
そして、隣の布団で寝ている金髪の人間に、目を見張った。
……ママ。
数秒間息を詰めて、そして長々と吐き出した。
夢じゃ、なかったんだ。
昨夜怒られて、部屋の外に出されて、泣き喚いてそのまま眠っちゃったんだ。
だけど今布団の中にいるってことは、その後で中に入れてくれたのだろう。
ママは、優しいママだから。
視線を枕元の目覚まし時計に向ける。
そして、鋭く息を吸った。
「九時二十三分!?」
間違いなく遅刻だ。
大遅刻だ。
がば、と起き上がり、四つん這いになって壁際の箪笥に這い寄る。
「うるさいなぁ……。静かにしなさいよ」
寝ぼけているような、力ない声がかけられた。
「だって遅刻しちゃう! どうして起こしてくれなかったの?」
服を探しながら、そう返す。
「いいじゃん別に。サボっちゃえばぁ……?」
「サボる……?」
真面目なママが、そんなことを言うなんて。
信じられない気持ちで、私は背後のママを見つめた。
まるで、本当に人が変わってしまったみたいな……。
でも、今は着替えを探さないと。
焦る私の前に、服はなかなか見つからない。
「ママ! オレンジのTシャツ、知らない?」
「さあ。洗面所じゃない?」
うるさそうに、それでも教えてくれる。
慌てたまま、廊下の荷物に躓きそうになりつつ、洗面所に急いだ。
扉を開けて、立ち竦む。
そこにあったのは、衣類の山だった。
脱ぎ捨てたまま、積み上げたような。
こんなに洗濯物を溜めるなんて、今までなかったことだ。
恐る恐る、それをかき分けて服を探す。
下の方から見つけたそれは、ちょっと、湿っていた。
学校に着いたのは、二時間目が終わる頃だった。
教室の後ろの扉をそっと開けて、おずおずと足を踏み入れる。
それが先生に見つからないなどという訳もなく、すぐに大きな声で名前を呼ばれた。
「あなたは本当にいつもいつも……」
呆れた顔で、怒られる。
だけど、私は、普段は遅刻なんてまずしない。病院に行ったりして遅くなったことがあるが、それはこの学年のことじゃなかった。
先生は、何か勘違いしている。
休み時間になると、男子たちに嫌味を言われ、女子には無視をされた。
特に、昨日の遠足で同じ班だった三人は、徹底的に私を避けた。
給食の時間も、掃除の時間も。
針の筵だった一日が終わり、自宅に帰る。
昨日のことを考えて、期待薄だと思いながらインターフォンを押した。
「遅かったじゃないの」
むっつりとした顔だったが、部屋の中から母親が出てきて、ぽかんとする。
「ほら。合鍵。今度は無くさないでよ」
無造作に渡された鍵を、慌てて両手で受け取った。
「じゃあ、ママ、また出かけるから。適当にご飯食べて寝てなさい」
「え、ママ、どこ行くの?」
ちょっとだけ、元の母に戻ったような気持ちでいたのに、またないがしろにされそうで、声を上げる。
「どこって、いつものところよ」
もう、廊下に出てしまった母親は、呆れた顔で告げる。
「駅前の、ダイヤパレス」
それから数日が経った放課後、私は、そのダイヤパレスの前に立っていた。
食事は母親が適当に買ってきていた菓子パンやおにぎり、お菓子などを食べていたが、その朝で尽きてしまったのだ。
ダイヤパレスとは、パチンコ屋だった。
こんなところ、入るに入れない。誰かに見られたらまた揶揄されるし、下手をすれば補導ものだ。
前の道路をうろうろして、母が気づいてくれないか、あわよくば出てきてくれないか、と願う。
だが、毎日閉店まで籠もっている母が、そうそう出てくることはない。
陽もくれかけて、どうしようかと思っていた時に。
自動ドアが開いて、店員の制服を着た男の人が出てきた。
怒られる、と反射的に思って、踵を返しかけたが、名前で呼び止められた。
「お母さんに会いに来たの?」
無言で頷く。
その人は、一緒に行こう、と先に立って中に戻った。ドアの内側で待っているのに、覚悟を決めてついていく。
大きな音のなる店内を、パチンコの機械と高い椅子の立ち並ぶ間を通っていく。
すぐに、母の横顔が見えた。
「ママ!」
大声で呼びかけると、ちらりとこっちに視線を向けた。
だが、それはすぐに目の前の機械に吸い寄せられる。
「なによ、こんなとこに来て」
「あの、夕ご飯が、なくて」
機嫌が悪い。そう察して、私はおどおどと口を開く。
「うるさいね。勝って何か持って帰るから、待ってな!」
でも、母が帰ってくるのは、深夜だ。
「お腹空いたよ、ママ……」
ぎろり、と、鋭く睨みつけられる。
叩かれる、と思って、ぎゅっと目を閉じた。
「……早めに帰るから」
しかし、そう告げただけで、あとは見向きもしなかった。
隣に立つ店員のおじさんが、困った顔でこっちにおいで、と手招きした。
店の奥の扉の前で数分待たされた後、チョコレートやビスケットを幾つか渡してくれた。
「貰えません」
戸惑って返そうとすると、お母さんにはお世話になっているから、とまた押しつけられた。
「お菓子しかなくてごめんね。お母さんのこと、悪く思わないでいてあげてね」
人のよさそうな顔で、そう言ってくる。
それが、いいカモだから、という意味だと言うのが判ったのは、一年は経ってからだ。
母親は、家事をしない。
私はじきに、自分で洗濯や掃除をし始めた。
学校での罵倒は、汚い、不潔、というものが主で、まあ、この環境では無理もないところもあった。
私はこうなるまで、滅多に家の手伝いはしなかった。専業主婦の母が、全て完璧にこなしていたから。
それでも学校で掃除はしていたし、何となく手順は判る。洗剤のパッケージを見て、洗濯もできるようになった。
最初のうちは、あてつけがましい、とぶつぶつ言っていた母も、そのうち黙った。
ゴミ出しを間違えてマンションのおばさんに怒られたり、おしゃれ着洗いを普通に洗ってしまって母に怒られたりもしたが。
だけど、学校での扱われ方は、変わらなかった。
原因は、母親だ。
毎日ふらふらして、パチンコ屋に入り浸る人間は、周囲から白い目で見られるに決まっている。
クラスメイトどころか、ほぼ学校全体の保護者から、あの親の子供には関わるな、と言われていることに気づくのには、そう時間がかからなかった。
そして、清潔であることは、多少の努力で何とかなったが、お金がないことは私一人ではどうしようもない。
給食費の滞納はしばしばあり、文房具も買っては貰えない。
買ってくれ、と頼んでは叩かれ、放り出されて、私は段々と学習する。
鉛筆や消しゴムなど、消えてなくなってしまうものは、落とし物箱から拝借する。
ノートは一冊使い終わったら、消しゴムをかけて、また使い始める。
後で見返すことができなくなるため、予習復習をしっかりして、授業内容をできるだけ早く覚えてしまうことにした。
幸い、時間はある。
テレビは、酔った母親が暴れて壊して以来、新しいものは買えていない。まして、友達と遊ぶことも、漫画を読むことも、ゲームをすることも、ないのだから。
テストの点数などは徐々に上がったが、私は孤立を深めていった。
父親がいない、ということも、いじめの原因ではあった。
あの日以前の日常では、父は時々遅くなっても毎日帰宅していた。休みの日にはうちにいて、家族で出かけることも多かった。
なのに、ぱったりと姿が見えなくなったのだ。
一度、不機嫌ではない時の母に尋ねてみた。
「覚えてるの? あんたが生まれて二年くらいで帰ってこなくなったのに」
そんな筈はない。一緒に遊園地に行ったこともある。
そう主張すると、母は少し寂しげに笑った。
「何言ってるの。あんた、この間の遠足で行った遊園地が生まれて初めてで、あんなに楽しみにして行ったじゃない」
これが、決定的に、私がおかしいと確信した出来事だ。
ここは、私が今まで生きてきた世界じゃない。
戻りたい。優しい両親がいて、仲良しの友達と一緒だった、元の世界に。
悪意は、エスカレートする。
家庭で、学校で、地域で、無視され、罵倒され、貶められ、体中に、額にすら消えない傷を負い、がりがりに痩せてしまった三年間、私はずっとそれを願って、それに縋って生きてきたのだ。