遠足の日
「ねえねえ、知ってる? 小学校の頃、遠足に行った遊園地。あれ、取り壊されるらしいよー」
その言葉が、私の耳に入ったのは、偶然だった。
いや、奇跡かもしれない。
誰とも話さない、テレビも新聞も見られない私が、その情報を手に入れられたことは。
同時に、それは、微かな希望すら消えてしまうということと、同義だったのだ。
抜け出すのは、体育の授業がいい。
いつもみんなに見張られてはいるけど、教室の机がぽつんと空いているのよりは判りづらいだろう。保健室に行くこともあるから、今回もそうだと思って貰えるかも。
少し離れたショッピングセンターで、私服に着替える。
流石に制服姿でうろうろしてたら、目立つだろう。家に連絡されるのは、嫌だ。
運賃は、こつこつと集めた小銭で何とか足りる。
上手くいけば、帰りは問題ない。
上手くいかなければ。
その時は、もうここには戻ってこないと、決意した。
私は、自分の世界に帰るんだ。
あれは、三年前。私がまだ小学生の頃だった。
学校の遠足で、遊園地に行ったのだ。
平日だったからか、他の客も少なく、班ごとに別れた私たちは存分に遊ぶことができた。
メリーゴーランド、ジェットコースター、観覧車、ホラーハウス……。
最後に入ったのが、ミラーハウスだった。
全体的に薄暗い照明で、周囲の様子は判りづらい。そこに、暗い赤のカーテンで仕切られた道を、私たちは怖々歩いた。
どれぐらい進んだのか、自分たちの鏡像にも少し慣れてきた頃、私はふいに蹴躓いた。
目の前に、自分の驚いた顔が、迫る。
鏡にぶつかる、と思って、ぎゅっと目を閉じた。
「きゃあ!」
悲鳴を上げて、私は床に倒れこむ。
……床?
ちょっと涙目になりながら、回りを見渡した。背後には、薄暗い通路が進んでいる。
正面に鏡があった、というのは、私の気のせいだったのか。ひょっとしたら、そう見える仕掛けがしてあったのかもしれない。
深く考えず、私は立ち上がった。
一緒にいた友達の姿が見えないのだ。
転んだ音も、悲鳴も聞こえていただろうに、ひどい。
私は心細さ半分、苛立ち半分の気持ちで、出口に急いだ。
だが、出口付近には、同じ班の友達の姿はなかった。
「かなちゃん? まやちゃん? せっちゃん?」
私はしばらく皆を探して周辺をうろうろした。
しかし、足が痛くなってきたこと、集合時間が迫ってきたことで、とぼとぼと駐車場へと向かう。
バスが並ぶ場所から少し離れて、児童や先生は集まっていた。
だが、そこにも友達はいない。
心配し、心細くて泣き出しそうになった時。
遠くに、その姿が見えた。
思わず、駆け寄っていく。
「かなちゃん!」
自分に気づいたか、足を止めた。
「もぅ、ミラーハウス出たらいなかったんだもん。びっくりしたよ。どこ行ってたの? あ、お土産買ったんだ。一緒に行きたかったなぁ。待っててくれればよかったのに」
三人が手にしていた紙袋に目を止め、話す。
安堵から、一気に喋ってしまい、口が挟めなかったのかと思った。
だが。
「何なの、あんた」
冷たい声をかけられて、目を見張った。
「え?」
「話しかけないでって言ってるでしょ。ウザい」
「今日だって、ついて来るなって言ってるのに、こそこそ後をついてきてさ」
「ほんとに、いちいちつまんなくなるからやめてよね」
憎々しげな表情で、投げつけられる言葉。
声が、出なかった。
そんな私から視線を逸らし、行こ、と言い合って、三人はバスに向かう。
混乱して、私はしばらくそこに立ち尽くしていた。
ずっと、仲良しだった、友達。
今日も一緒にアトラクションに乗って。
お弁当を笑いながら食べて。
お菓子を分け合って。
一体、何があったのか、全く判らなかった。
のろのろとバスに乗りこんだ私は、そこでまた驚愕することになる。
バスの座席は二人がけだ。四人の班なら、当然二人づつ座ることになる。
だけど、空いているはずの席には、荷物が積まれていたのだ。
「あの……、かなちゃん、空けて貰っていい?」
少しばかり臆しながらも、私はそう頼んだ。
「は?」
私の一番の友達は、ものすごく嫌そうな顔で見上げてきた。
「あの……座席……」
「やめてよ。人が足りないから、班に入れてあげただけなのに、勘違いしないでくれる?」
くすくすと、周りから含み笑いが漏れる。
あちこちから。
クラスのみんなが、私を笑っている。
羞恥のあまり、俯く。
頬が熱いのに、身体の芯が冷えていく、感覚。
「行きみたいに、前の席に座りなさいよ」
そう言うと、彼女はぷい、と顔を背けて、窓の外を見た。
無言で、私は最前列の、予備に空けてある席に座る。
やがて、最後のクラスメイトと一緒にバスに乗りこんできた先生は、私が前の席にいることに、何も言わなかった。
足を引きずるようにして、家路を進む。
周りは、遠足の興奮が冷めやらぬ子どもたちで溢れていた。
いつも一緒に帰っていた友達は、いない。
涙がこぼれそうになるのを我慢して歩いていく。学校から家までは、さほど遠くはない。
マンションの廊下を進んで、自宅の玄関ドアの前に立つ。手を延ばして、インターフォンを鳴らした。
母は、いつも家にいる。すぐに扉が開いて、笑顔でおかえり、と言ってくれる筈だ。
うちに入ったら、話を聞いて貰おう。
唇を引き結んで、待つ。
だけど、扉は開かなかった。
首を傾げて、もう一度押す。
それでも、開かない。
しばらく待ったり連打したりして、ようやく母が留守だということに納得する。
買物にでも行っているのかもしれない。滅多にないことではあったが。
私は、背中を壁につけて立ち、母を待った。
「は? なんでお前こんなとこにいるの」
怒りを含んだ声に、意識が浮上する。
頭上から、蛍光灯の光が目を刺した。
あの後、ずっと母は帰って来なくて、心細さにうずくまって泣いていたのだ。
そして、泣き疲れて眠ってしまった。
「ママ……!」
安堵に、またも泣きそうになって顔を上げる。
母が、そこにいた。
落ち着いた黒髪をむらのある金髪に染め、見たことのない派手なTシャツを着て、苦々しげな顔で見下ろす、母が。
「部屋に入ってりゃいいでしょ。鍵があるんだから」
「鍵……?」
もう、全てが判らなくて、告げられた言葉をまた繰り返す。
それを聞いて、母の顔がかっと怒りに染まった。
「お前、また、鍵を無くしたんじゃないだろうね!」
怒鳴り声に、身を竦める。
「ち……、ちが……」
「違うなら、なんでここにいるの! 無くしたからでしょうが!」
甲高い怒声が響く。
「無くして、ない。貰ってないもの」
「は? 渡したでしょ! この間、無くしてきたから、合鍵わざわざ作ったんだからね! そんな言い訳で、自分が悪くないなんて言うんじゃないよ!」
がっ、と衝撃を受けて、反射的に目を閉じた。
母が、サンダルを履いた足で脇腹を蹴ったのだ、と気づいたのは、鍵を開けて部屋の中に消えてからだ。
母に、怒られたことがないわけではない。
ぶたれたことだって、少ないながらもあった。
だけど、その後、こんな風に自分を放って行ってしまうなんてことはなくて。
いつだって、ずっと傍にいてくれたのだ。
そっと、玄関を開く。
微かな異臭が、鼻を衝いた。
玄関には、何足もの靴が散乱している。続く廊下には、買い物袋があちこちに置かれていた。
そっとリビングを覗くと、母は缶ビールを手に、テレビを見ていた。
「ママ……」
「あ? さっさと寝な」
視線も向けずに、そう告げられる。
「でもあの、ご飯……」
夕方に帰ってきて、今はもう零時前だ。こんな時間まで起きていたことなんて、大晦日ぐらいしかない。
当然、空腹はもう耐えがたいほどになっていた。
「うるさいなぁ。いつもみたいに、適当に何か食べなさいよ」
適当に。
適当に、あしらわれて。
「……なんで……!」
生まれて初めて、母親にそう怒鳴っていた。
「なんで、そんなこと言うの! かなちゃんたちも、ママも、どうしてあたしに酷いことするの……!」
「は?」
見たこともないほど、酷く顔を歪めた母親は。
「親の言うことを聞けないっていうなら、こっから出ていきな!」
私の首を掴み、乱雑な廊下を引きずって、玄関から放り出したのだ。