召使、情報収集す
これから少しシリアスな雰囲気が続きます。
そこは、平凡で地味な居酒屋だった。
若者向けの小洒落た雰囲気も無く、大手のチェーン店でも無い。
昔ながらの、良く言えば赴き深い、悪く言えば古臭い店内に今居るのは、着物姿の男が一人。
やや白髪混じりの様子はある程度齢を重ねたように見受けられるが、顔はまだ若年と言っても良い。身に纏う空気はどこか枯れた、老人のような雰囲気を匂わせ、割りかし整った表情は常に物事を達観したような微笑。
男を形作る全てが、彼が生きて来た年月を曖昧にさせる印象を放つ。
彼は今、カウンター下の棚にある酒瓶や、漬け物の在庫を確認していた。
「えーと、これと、これがそろそろ無いですね……あれ、この間買い足さなかったかな?」
落ち着いた印象の声でぶつぶつと呟きながら、以外と奥行きのある棚を覗き込む。
その時突然、男の動きが止まった。
屈んだまま一切の動きを停止し、驚く程鋭い視線だけを後方へ飛ばす。
「やれやれ、まだ開店していないんですけどね」
視界の隅に映った人影を見て、男が苦笑して言った。
先程の一瞬垣間見えた厳しい視線など、まるで無かったかのように男の声には親しみが込められている。
男の言葉に反応してか、後ろに潜んでいた人影がゆっくりとその姿を晒した。
「おや、また随分重装備じゃないですか。恭一君」
立ち上がり、振り向いた男が僅かに目を見開き、驚いた表情を見せる。
男の前には、黒いロングコートを羽織った恭一が自然な体勢で立っていた。
見た限りでは重装備と言うような物の類は映らない。
「ああ。聞きたい事がある」
軽く返答した恭一が早速本題を切り出した。
「……随分余裕が無いようですね。内容は?」
普段なら酒の一杯でも交わしながら話す二人だが、今日はそう悠長にしている暇は無いようだ。
普段店に来る時より幾分か厳しい恭一の様子に、男は出しかけていたグラスを元に戻す。
「近頃戸澤に対し怪しい動きを見せていた組織。規模は問わない。それとクズ共のたまり場。誘拐を容認する程度のランク。範囲は県内。ただし、一流か最低かのどっちかだ」
淡々と語る恭一を見ていた男が、若干考えるような仕種を取った。
「ふむ、そうですねえ」
右手を額に当て、目をつぶる男。
数秒の間そうして黙考していた彼が右手を降ろすと、そこには先程の親しみを込めた笑顔は無く、商売人の笑顔が浮かんでいた。
「該当は、三件ですね」
指を立てて柔和な笑顔を晒す男。
彼の笑顔が何を催促しているのか、恭一は長い付き合いで良く分かっていた。言わないと彼はこれ以上一言たりとも喋らないであろう事も。
「報酬は言い値を出す。そのかわり」
「はいはい、出し惜しみは致しません。」
恭一の言葉を打ち切り、後を続ける男。
彼は優秀な情報屋であると同時に、有能な商売人でもあった。足元は見れるだけ見る。
故に、具体的な金額を提示すれば、出し惜しみ追加要求をするか、更に値段を吊り上げるかのどちらかだ。
その分、出鱈目な情報は決して無い。また、叩いて出て来ない情報も、決して無い。だからこそ、彼の存在はこの上無い価値を持つ。
彼の事は、戸澤の誰にも教えてはいない。恭一の隠し手の一つだ。
「さて、では一番の有力株から行きましょうか」
相変わらずの微笑を浮かべながら、男が腕を組んで話し始める。
「先ずは火天の下部組織、士熱ですね。動きが活発になったのは先週から、武装は一級、ただし狙撃系はありません。人数は――」
一体どうやっているのか、この男にかかれば国家機密から路地裏の喧嘩、定期試験の問題まで、あらゆる情報が入って来る。
組織と場所だけを聞いた筈が、装備、人員の規模、戦闘の熟練度に至るまで情報が得られた。相変わらずの手腕に、毎度の事ながら恭一は内心舌を巻く。
「――と、こんな所ですか。ああ、そうそう」
不意に思い出したように男が終わりかけていた話を再び紡いだ。
「柳水がこそこそ動いていますから、恐らく何かを嗅ぎ付けて取り入るつもりじゃないでしょうか。身持ちは固くした方が懸命ですね」
最後におどけるようにそう忠告を入れ、一通り話し終えた男は組んだ腕を解き、息をついた。
「それにしても、甘いですね。相変わらず」
柔らかい口調で言った男の顔は、既に友人のそれ。
穏やかだが、内心を透かされているような微笑に、恭一は視線を男から僅かにずらす。
「何の事だよ?」
呻くように、まるで何も読み取られまいと必死に内心を隠しているかの如く呟いた恭一に、男は微笑を苦笑に変えた。
「やれやれ、それでは認めたようなものでしょうに」
言って、男は細めていた目を微かに開く。
漆黒の、見た物を貫き通すかのような威圧を持った瞳が、男が何か大事な、上辺だけではない言葉を発しようとしている事を表していた。
「今回の事、関われば二度と抜けられないんじゃないですか?」
視線を逸らしたにも関わらず、ごまかしの効かない迫力が恭一に突き刺さる。
「分かってる。けど」
「貴方は、十分尽くして来たと思いますよ」
何かを言わんとした恭一を遮る男。
彼の目には、利害も駆け引きも無い、ただ純粋に友人として恭一を気遣う意志だけが宿っていた。
「確かに貴方は戸澤家に救われた。それは事実です。でも、それでも貴方が潰して来た陰は十や二十ではきかない筈です。せっかく自由になったのに、わざわざ自分から檻に戻るのですか? 待つのは終わりの無い従属、いや、隷属と言っても良い。本当にそれで納得しているのですか?」
男の言葉に、恭一は沈黙したまま何も言わない。恭一の様子を見て、更に彼は続ける。
「ここまで来れば、後は戸澤家ご自慢の警備部に任せても問題無いでしょう。先程の情報があれば、十分対処出来る筈です」
未だ俯き、微動だにしない恭一を真っ直ぐに見つめながら、彼の話は結論へと辿り着く。
「もう、良いんじゃないですか? 普通の生活にしろこっち側の生活にしろ、戸澤から解放されても」
彼はずっと見て来た。掛け替えの無い恩人であり、友人でもある恭一がどれだけ戸澤家に尽くして来たのか。私生活に及ぶ程の様々な制約、にも関わらず待っているのは罵倒と戦場。文句を言いこそすれ、彼の仕事に手抜かりは一切無い。十年間、彼は驚く程誠実に戸澤を護り続けた。
だからこそ、一使用人などではなく彼の仕事に相応しい立場をと、男は常々思っていた。
血反吐を吐いて守り抜いた対象に乏しめられると言うのは、生半可に堪えられる事ではない。
恭一は、今でこそ端から見れば一流の護衛だが、根底はとても甘い人間である事を男は知っている。そう、捨て駒を自身の命と天秤にかけてまでわざわざ助けるような、およそ信じ難い甘さを。
思わず過去に耽り、一瞬意識が別の所に行ってしまった男が恭一に視線を戻すと、丁度彼の口が開いた所だった。
「警備部の奴らだけだと心許ない。探索には使えるが、相手次第では下手を打つ可能性があるからな。それに、俺以上の腕がある奴が居る筈も無いし」
恭一の口から出た言葉は口調こそ彼らしいものだが、酷く事務的で、感情の見えないものだった。
「やっぱり、聞いてはくれませんか」
諦めたように軽く、酷く哀しい笑顔を浮かべて、男は近くの棚からグラスを出す。
「本当に貴方は、人にはずかずか干渉する癖に」
笑っているが、どこか拗ねたような口ぶりで男はグラスを恭一に放った。
「そういう性分だしな。悪い、蒼馬」
受け取ったグラスを顔の位置まで持ち上げた恭一の顔に、ここへ来て初めて笑顔と呼べるものが見られた。ほんの些細な、口元だけの笑みだったが。
それを見た男、蒼馬はやれやれと息を吐く。
恭一とて何も考えていない訳では無い。問題は、それを他人に見せない事だ。
彼は崩れない、彼は倒れない、彼は、頼らない。周りが心配する度に、彼はいつも格好つけて一人で何とかしようとする。実際に一人で何とかなってしまうので、余計に性質が悪いと蒼馬は思う。今回の辞職も、何か理由が有るのだろう。当然、彼が言う筈も無いが。
蒼馬が恭一に現状打破を言い渡したのは初めての事ではない。今までにも何度か提案してはいた。
結果がどうであるかは、恭一の現状を見れば一目瞭然だろう。そして、この度もまた、説得失敗である。
「良いですよ。まあ、損をするのは貴方ですからね」
言って、酒が入っている棚とは違う棚を開けた。
入っていたのは、和で統一されたこの店内にそぐわない洋酒。ラベルの色が褪せた古臭いものから新品同様の物まで多種多様な瓶がずらりと並ぶ様は、かなり異質な光景である。
これらは店主秘蔵の酒達であり、価値の高低ではなく純粋に味の良さを評価され集められた品々だ。
以前、何故洋酒が多いのかと恭一が聞いたところ。
「僕、日本酒より海外のお酒の方が好きなんですよ」
との事らしい。
だったら居酒屋でなくバーの方が向いてるのでは、と恭一は思ったが、下手に追求する理由も興味も無かったのでそれで話を打ち切ったのだった。
「いつ見ても、違和感出しまくりだな」
お気に入りの一本をグラスに注いでいる蒼馬に言うと、彼はにこやかに笑い。
「今更ですね」
恭一に瓶を放った。
本当なら時間の猶予など無いのだが、酒の一杯に掛かる時間などたかが知れている。
話をはぐらかした詫びと気遣いの礼がわりにと、恭一は自分のグラスを満たした。
「……乾杯」
静かな蒼馬の声を合図に、二人は同時にグラスを上に掲げた。
恭一は一気にグラスを煽ると、半分程中身を残している蒼馬に向けてグラスと瓶を投げ、何も言わずに来た方向へと身を翻す。
「愚痴ならいつでも聞きますよ」
投げられた二つを片手で受け取った蒼馬が言うと、恭一は振り返らずに軽く右手を上げたまま、蒼馬の視界から消えた。
恭一の気配が店から消えたのを確認すると、蒼馬は残っていた中身を飲み干し、また注ぐ。
「無駄に格好つける所は、今も昔も変わりませんか」
誰に言うでも無く呟いて、蒼馬はグラスでゆらゆらと揺れる水面に目を落とす。
蒼馬は恭一に出会い、変わった。
友を知り、生きる事を知った彼が最初に感じたのが、恭一の危うさだった。自分を助けてくれた人物には、自分より危険な場所に居るにも関わらず助けてくれる人は居ない。
蒼馬は恭一の周りを知った時、助けたいと思った。なんとか彼の負担を減らしたいと思った。いや、それは今でも変わら無いし、これからも変わる事は無いだろう。
恭一は蒼馬の友であり、恩人であり、家族だった。あの時から、ずっと。
たまには過去に浸るのも悪くないだろうかと考えながら、彼は既に去った男に向け、再び言葉を紡いだ。
「無知なお姫様と格好つけな騎士に、乾杯」
蒼馬のグラスと、持ち主の居ないグラスが、キィンと澄んだ音を立てた。
蒼馬くんの情報屋は恭一くんしか知りません。さて、お嬢様は一体何処におられるのでしょうか?