真冬の必然 1
2月。
いくら都会と言えども寒い季節だ。
3日程前から関東周辺を襲った寒波は過ぎ去る気配もなく、街を行きかう人々の足取りもどこか急いていた。
先程宿直の先輩警官と番を交代した米村は小さく欠伸を漏らしながら、意味もなく紙をペラペラと捲っていた。
昨日だけで既に18件もの落し物が届けられ、その重要性は異なるが中には本革の財布なども含まれていたようで、持ち主の心境を思えば少しばかり心が痛んだ。
駅の近くに位置するこの駐在所は、住宅地周辺の所に比べて頻繁に問題が持ち込まれる。
落し物などもそうだが、痴漢や路上駐車など毎日のように何かしらの事件が起こる。
正直、くだらないと思ってしまうような事でもきちんと対処しなければならないため、日々の心労はなかなかのものだ。
チラリと正面の掛け時計に見目向けた米村は、「今日も来たか・・・」と溜息を漏らしながら静かに外の景色を眺めた。
しばらくの間頬杖をついてボーッとしていると、この日し最初の案件が転がり込んで来た。
「すみません。先程の電車で痴漢がありまして、僕はただの付き添いなんですが、この男です。」
「分かりました。とりあえず詳しい話を聞きたいので、中へ入って下さい。君も恐いと思うけど、今女の警察官が居ないから私の隣でも大丈夫ですか?」
被害者と思われる少女は俯いたままではあったが、小さく頷いたのが見えたので奥の席へと促した。
この時間帯になると毎日のように痴漢の被害が報告されてくる。
朝のラッシュに加え、近くの最寄り駅は共学や女子校も含めた女学生の多くが利用しており、満員電車の混み具合に乗じて彼女達に悪戯をする輩が居るのだ。
平日の今日は特に人が多く、目の前の脂汗を流す男もそういった類の奴なのだろう。
「それではまず、皆さんのお名前にご住所、電話番号など枠線で囲まれている部分の項目を紙に記入して下さい。」
それぞれに紙とペンを渡すと、加害者の男は一瞬迷ったものの素直に指示に従った。
3人共が書き終えた段階でその紙に目を通す。
特にこれと言って気になる点は見つからなかったが、被害者の女の子の職業欄の学生の部分に印はなく、無記入となっていた。
ただ歳は17歳となっていた為、「中卒か」くらいの面持ちでさして気にすることなく紙から視線を外す。
「では、これから痴漢にあった時の状況を確認していきたいと思いますが、更科ユキさん、無理のない範囲で良いので説明して頂けますか?」
自分の隣りに座る細い肩が少し揺れ、俯かせていた彼女の顔が恐る恐るといった感じで上がる。
「あの、私、この方を起訴とか・・・その、あまり大事には・・・」
「大丈夫ですよ。君が訴訟を起こさない限り裁判沙汰になる事はないし、君に迷惑がかかることもない。ただ、この人にはそれなりに対処しなければいけないから、出来れば話を聞かせてもらえると嬉しい。」
「あ、そうなんですね・・・すみません、変な事を言ってしまって。その、さっきのち、痴漢のこときちんとお話します。」
あまり気が強い方ではないのだろう、米村が大事にはしないと言えば、どこかほっとしたように話を始めた。
「──それで、困っていたらそこの男性の方が代わりに捕まえてくれて。警察に行った方が良いと言われたので、付き添いで来て頂いたんです。」
話を聞けば、電車内の痴漢に有りがちな臀部を揉まれたというものだった。
本人はくるぶし程まである丈の長いスカートを身に付けていたお陰か、直に肌を触れられたという理由でもなく、最初こそオドオドしていたものの話し終わることには落ち着いていた。
「状況は大方のところ把握しました。新井さんも今の更科さんの説明で間違いはありませんか?」
「はい。彼女がドア側の手すりの方に追いやらて動けなくなって居るのが目に入って、何だか様子がおかしいと思って近くまで行ったら痴漢にあって居るのが見えたので、その男を捕まえてここまで。」
付き添いで来たと言う新井という男は爽やかな好青年という感じで、スーツを着てはいるものの社会人成り立てという初々しさがあった。
実際の年齢も自分より若いくらいでやはりといった感じだった。
「分かりました。では、栗原さん。話を聞いていたと思いますが、今朝更科ユキさんに猥褻な行為をしたのは貴方ですね?」
「・・・はい。」
「分かりました。この件はきちんと本部に連絡させて頂きますので、本日は自宅待機をしていて下さい。」
「・・・はい。」
「それと、今回は更科さんも特に訴訟を起こす事はしないと言って居ますので、迷惑防止条例違反で罰金が課せられるだけかと思いますが、罰金刑であっても立派な犯罪ですから前科になります。それを一生背負っていくことをきちんと理解してください。また、それらの事についても後日警察から連絡があると思いますので、その指示に従って下さい。」
「・・・はい。本当にすみませんでした。」
きつい口調で脅せば、青ざめた表情で頭を下げる栗原。
これと言ってぱっとしない見た目の彼だが、これからは生きずらくなるだろう。
自業自得と言ってしまえばそれまでだが、自分の経歴に痴漢の前科が載るというのは言うほど軽いものではない。
勤め先やそこでの人間関係、親戚や家族、友人付き合いにも影響があるし、何より社会から向けられる目線が彼を追い詰めていくだろう。
栗原を擁護するわけでは無いが、目の前の縮こまる中年の男に米村は少しばかり同情した。
一通りのやり取りを終え、新井にはもしかしたら警察から連絡が行く可能性があるかもしれないと伝えてから、帰ってもらった。
20分程経ったくらいに車が到着したので、栗原を自宅まで搬送するように伝える。
本来ならば被害者である更科を先に送り届けるところなのだが、家には誰も居ないからもう少し落ち着くまで此処に居たいと言うので、インスタントの緑茶を淹れ差し出す。
猫舌なのかフーフーと息をかける彼女は先程の大人びた口調と比べやはりまだ幼かさがあった。
「少し落ち着きましたか?」
「え、あっはい。すみません、お茶まで頂いてしまって・・・」
「いえ、本来なら婦人警官に付き添いをして貰った方が気も楽だったと思いますし、こちらもあまり配慮が出来ずに申し訳ありませんでした。」
「え、あ、謝らないで下さい!本当にもう大丈夫なんです。その、此処に残ったのは別の理由で...」
「・・・別の理由ですか?」
慌てたようにそう言った彼女は、視線を迷わせるようにしてから申し訳なさそうに眉を下げた。
「あの、実は・・・両親に連絡をして欲しく無くて。それで、いつ言おうか迷ってたらついあんな事を・・・すみません。」
家出中なのか、両親を心配させたくないのかは定かではないが、親へ連絡される事を何処か恐れているようにそう告げた少女。
「それはどうしてですか?親御さんもきっと心配なさっていると思いますよ。」
「理由は、その、えっと・・・どうしても言わないとダメです、よね・・・」
何故か悲しそうな顔をした少女に、米村は困惑した。
両親に心配させたくないというだけならば、こちらが連絡した方が良いとゴリ押せば大丈夫だし、家出ならば焦った表情を見せるもので悲愴な顔になどなるだろうか。
何故彼女が親と連絡を取りたがらないのか、その表情からは全く読み取ることができず、眉間に皺がよる。
だが、少女のどこか弱々しい態度に同調してしまった為か気付いたらこんな事を口走っていた。
「分かりました、ご両親には連絡しません。後1時間程で交代なのでその後私が直接家までお送ります。」
驚きを表情に浮かべた彼女は遠慮がちに「大丈夫なんですか?」と聞いてきた。
規則に従えば全く大丈夫とは言い難いが、言ってしまった手前今更駄目だとも言えず、結局彼女のお願いを了承してしまった。
そんな自分の返答にホッとした表情を浮かべた彼女を奥の部屋へと促し、自分の担当時間が終わるまでの間そこで大人しくしているようにと伝える。
その後終業時間まで他にも何件か痴漢や落し物、小さい暴動の類など休む暇もなく対処に追われた。
何とか午前の任務を終え、控え室へと戻る。
「お待たせしました。」と窓際のパイプ椅子に座る少女に声を掛けると、暇潰しに読んでいたのだろうか、分厚い文庫本から顔を上げて「お疲れ様です。」と呟いたのが聞こえた。
彼女から労りの言葉が発せられたことに少なからず驚いた。
ごく自然にされたそのやり取りに違和感は無く、しかしそれがまた不思議でもあった。
「着替えたら送りますので、外で待ってもらって居ても大丈夫ですか?」
「はい。あの・・・」
何かを言い淀む更科。
その姿はやはりどこか小動物的で、大きなフレームの枠から覗く瞳は緊張の為か少し潤んでいた。
そのオドオドとした姿は同年代の女子高生に比べ儚さがあり、米村は素直に可愛いらしい娘だと思った。
「どうかされましたか?」
そう優しく聞き返せば、更科は下げていた目線を上げた。
「本当にありがとうございます。お巡りさんもお仕事なのに無理を言ってしまって・・・あの、本当にありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた彼女は少し震えていた。
「そんなに頭を下げないで下さい。今回は刑事事件というわけでもありませんし、こういう場合は親御さんに伝えたくないという方も結構いるんです。連絡も強制ではありませんから貴女はしっかりと休んで、今日の事は早く忘れると良い。」
目線を合わせるようにかがみ、諭すようにそう言えばまた深々とお礼をされ、少し笑ってしまった。
「おや?米村と・・・そちらの方は?」
和やかな雰囲気の中に突然扉の開く音が響いた。
誰かと思って振り向くと、次番の浜田さんが唖然とした目をこちらに向けていた。
「すみません浜田さん。この方は更科さんと言って今日電車で痴漢の被害に遭ってしまったんです。私はもう上がりなのでついでに家までお送りするところです。」
「そうなんですね。すみません立ち入った事を聞いてしまって・・・米村は信頼出来る奴ですから、安心して送られてやって下さい。」
浜田さんはこの駐在所の所長で、米村が研修時代からお世話になっているベテランだ。
ポカンとしていた少女もハッと意識を戻したかと思うと、先程同様またしても頭を下げていた。
「はは!お嬢さん、そんなに頭を下げなくても大丈夫ですよ。我々警察官は市民を守ってなんぼのもんです。今日はゆっくり体を休めて下さいね。」
そう豪快な笑いを零した浜田さんは、自分の肩を勢い良く叩くとそそくさと表へ戻って行った。
あのおっさん、相変わらず容赦ねぇな・・・
じんじんと痛む肩を擦りながら、もう一度彼女に声を掛けるとやはり小さくお礼を言って控え室を後にしていった。
「お待たせしました。」
着替えを手早く終わらせて彼女の元へと向えば、途中またしても浜田さんに捕まり「後で報告するように!」と悪い笑みを浮かべながらそう言われ、今週末の飲み会への強制参加が決まった。
外で地面に視線を落としている更科に声をかければ、「よろしくお願いします。」と柔らかな笑みを向けられた。
「住所はさっきの紙で一応確認しできたんですが、細かい場所までは分からいので案内をお願い出来ますか?」
「はい、ここからは近くなので歩いて20分位だと思います。」
「ええ。実は私もこの辺に住んでいるので更科さんとは割と家が近いんです。自分の帰るついでみたいなものなので本当に気にしないで下さいね。」
米村がそう告げると少女は「そうなんですね!」と驚いたような反応を見せながら家の方へと歩き出した。
時たま、さっきはどんな本を読んでいたのかなど自分から質問する時もあれば、相手から質問が来る時もあった。
途切れ途切れの会話ではあったが、特に気まずさを感じることもなかった。
それはこの少女の雰囲気にあるのかもしれないと米村は思った。
静かに流れる穏やかな時間に心地よささえ感じ、不思議な子だと改めて思った。
彼女の家は米村の住んでいるマンションから少し離れた所にある、古いアパートだった。
そこは主に一人暮らしの大学生やフリーターが住むような場所で、とても家族と一緒に住めるような場所では無かった。
一刻前の彼女の家族への連絡を頑なに拒む態度を思い出してみても、流石に何かあるのではないかと疑問が膨らみ、アパートに入ろうとする彼女を勢いで呼び止める。
「こういう場合聞いた方が良いのか分からないけど、君ご家族の方とは暮らして居ないの?」
核心を突いたようなその質問に彼女は少し目線を落としてから、小さく頷いた。
「高校にも行っていないみたいだし、ご両親とはきちんと連絡取れてるの?」
ただのお節介だという事も、聞いたところで何かしてやれる訳では無いという事も頭では充分理解していた。
だが、そう声をかけずには居られなかったのだ。
「えっと、連絡は週に1回程度取っています。高校にはお金が無くて行っていませんが、ば、バイトをして何とかやりくりしているので・・・」
「そう・・・でも金銭面が苦しいのならご両親と一緒に暮らした方が良いんじゃ──」
そこまで口にした時、米村はしまったと思った。
悲しそうに、どこか自嘲気味に笑みを零す少女のその表情が全てを物語っているようで、自分は彼女の問題に首を突っ込みすぎたと後悔の念が襲った。
「・・・ごめんね、少し出しゃばり過ぎた。これ渡しておくから、何かあった時は連絡してくれれば出来る限り力になる。今日は疲れているだろうからゆっくり休んでね。」
頼りなさげな弱々しい表情を浮かべた彼女に自分の名刺を渡し、米村は逃げるようにしてその場から去った。
後ろから「ありがとうございました。」と聞こえてきた声には振り返らなかった。
しばらくは無心で歩みを進めていたが、途中公園の中よ自販機に目が付きコーヒーを買ってベンチに座った。
嫌でも思い出す彼女の表情に、我ながら最低な別れ方をしたと苦笑いがこぼれた。
人のプライベートな部分にズケズケと入り込み、欲しいとも言われていない自分の名刺を押し付け、挙句まるで逃げるようにしてここまで来てしまった。
米村は所内で随一の冷静さと評され「駐在所の鷹」などとダサいあだ名をつけられた程の沈着な男だった。
「はっ、鷹が聞いて呆れるな・・・」
珈琲の苦味が口の中に広がり、呑口から立つ湯気を見つめる。
「こりゃ、浜田さんに相当弄られんな・・・」
週末の飲み会が更に憂鬱なものとなりただただ溜め息がこぼれた。