「抱いて」
まどろみのひと時が終わって、それから時間を空けては様子を見に部屋へ行く。起きてるか寝てるか、二分の一の確率にすこし胸ときめかせながら往復する廊下は、はっきり言って心地の良いものではなかった。なんというか大事な試験の帰り道に近いような。どうにかいい方に確率が、運命が傾いていてほしいと願うような帰り道に似ている。
もはや晩御飯も食べ終わってしまった頃になってしまったけど、今もまたこうやって私は廊下を歩いていた。職員の人と時々すれ違っては挨拶をしたり、すこし世間話をしたり。肩の様子はどう?なんて聞かれるから、もうバッチリ!なんていうこのやり取りはこの短い時間だけで3回こなした。
「起きてるー?...って寝てるよね。」
その言葉がフラグになってくれないかななんて思って、呟きながらそっと扉を開ける。フラグ...現実ではそううまくいかないものだけれど、だけど今回はそれをしっかり回収できた。
「...」
私の声にやっと反応したのかな。薄っすらと差し込む外の光しかない暗闇のベッドの上に、オルがのっそり起き上がったのを確認した。
「よく眠れた?部屋、明るくするね。」
パチン、なんていう軽い音をさせて、部屋の明かりをつける。いきなり眩しいものを見ると目がくらむよね、だから小さな明かりだけつけた。それでもオルは目を瞬かせてるけど。
ベッドのそばに椅子を出して、目をこすりながらキョトンとするオルのそばに座る。こうして改めて見ると幼い顔つきをしてるなあ。そりゃそうか。
「...や...やな?」
「そう、ヤナだよ。覚えてくれたんだね。」
思わず私はこの子の頭を撫でようとして、手を差し出してしまう。そしてハッとする。ただでさえよく分からない人にいきなり頭に手を向けられると怖いのに、加えてこの子は人が怖いんだった。
「ごめんね。」
慌てて、でもそっと腕を戻して苦笑いまじりに謝る私を、オルは黙って見つめる。いったいその黒い瞳は何を考えてるのだろう。もしかしたら...何も考えてないのかもしれない。
「...」
「...」
沈黙。きっと何を聞いても分からないの一点張りだろうから、いったい何を話ししたらいいのか分からない。時折オルは私の顔を見ては目をそらすことをして、もしかしてめちゃくちゃ様子を伺われてるのかな、と思うとこの子の疑り深さにほとほと感心してしまう。疑われるという行為ははっきり言って、相手がどんな人であってもスッキリはしない。私が、その落ち着けない沈黙の空気に根負けしてしまって切り出した。
「オルは今何を考えてるの?」
「...わからない。」
やっぱり、今日も分からないの一点張りかな。何も分からない。これじゃ進展しないしラチがあかない。
「本当に?お腹空いたとか、遊びたいとか何もない?」
「...。」
ギンみたいにうなることもなく、無言でもう一度考え直し始める、んだけど...悩んでる時のオルの表情は大して普段と変わることがなくて、はっきり言って常に無の状態だ。このポーカーフェイスは何もない空を一身に見つめていた。
「...」
まただ。また私をチラッと見てはまつげを下にする。白くて長いまつげは、肌の色とか光の色に溶け込んでよく見ないと見えない。その見えないまつ毛が見える時が、そうしてうつむきながら黒い瞳を私に向ける時だ。
「まあ、何もないなら別にいいんだけど...」
「や、ヤナ...」
「うん?」
言い終わるか否かの寸前で、オルが動きを見せた。
「どうしたの?」
「ヤナは...ほんとに、なにもしない?」
震える唇から、絞り出すように小さくなっていく声。やっぱりまだ疑ってたんだなー、なんていうちょっとした衝撃と、まあまだやっぱり疑うよね、なんていう合理が混ざって絡み合った。
私は何もしない。無害である、それをどうこの子に証明すればいいのだろう。
例えば、ひたすら無害を主張する?でも口ではなんとでも言える、不信を重ねる人は、言葉が最も嘘つきで有害って身をもって知ってるよね。じゃあ裸になってみるとか。...いや、普通に考えてダメだよね。圧倒的に無し。
...そうだ、本人に確認してもらうのはどうだろう。それなら一番手っ取り早いし。
「試してみる?」
少し腕を広げて。本人の悩みを解決する一番わかりやすい手段だと思うんだよね。自分で試すって。
その方法に乗ったようで、オルは少し長めの髪をかすかに揺らして頷いた。
さて、方法が決まればあとは実行するだけ。ベッドの端に脚をぶら下げたオルのそばに寄って、身をまかせることにした。そーっとオルの指が私をつつく。ひんやりとして相変わらず低い体温のままの彼女は、しきりに腕をつついては顔を覗き込んで無変を確認していた。
「...」
たまによく聞き取れないけど何か呟くものの、基本的に無口なオルは私の腕、お腹、それから顔を一通り突き終わって、ため息をついた。そのため息は満足でいいの?この問いに、ううん、満足してない。そう答えるようにオルは再び私の手をとった。
「手が気になるの?」
そう聞いても相槌すら打ってくれない。その代わりに私の左手と右手の匂いをしきりに、子犬のように満足いくまで嗅いだ後、右の人差し指を舐めて...そして咥えた。
「ひゃっ、」
脊髄が驚きを隠せなくて変な声が出る。オルは真面目な顔をしていて、小鳥のように首をひねっては口を外して再び鼻を近づける。なんというか、行動が動物的だなって思った...
「モモの...匂いしない...?変な味もしない...」
「あっ、モモ持ってくるって言ってたの忘れてたね。今度持ってくるよ。
ねえ、どうして私の指食べたの?」
「試してみるって言ったから...」
ああそっか、そう言ったけど。だけどようやく、納得はしてくれたらしい。さっきとは少し様子が違っていて、ぼーっとしていたオルはソワソワし始めた。指と指を合わせて、照れたように脚を小さく揺らして、そんな様子がちょっとだけ年相応というか普通の子に見えた。...普通じゃないってレッテルはどこを基準にして貼ればいいのか、私には分からないけどね。
「えっと、えっと...」
何か言いたげにオルが言葉を詰まらせる。でもそれはしばらくしても出てこない。何かしたいらしいけど、それをなんて言ったらいいのか分からないらしい。何がしたいのかは私にはもちろん分からない。そうこうしてるうちにオルは諦めてしまって、しょんぼりと肩を落としてうなだれた。言葉で表現することが難しい、そのことがどれだけ致命的であるか。自信を無くすには十分なものだった。
「いつでも待ってるからさ。そんなにしょげないで。」
「...」
「うん?」
まだオルに持たれたままの私の右手が、弱々しく手繰り寄せられる。どうしたのだろう?椅子を立ち、再び身をまかせるとオルは突然私に抱きついた。私の服をきゅっと握って、頬をぴったり私につけて。もちろん、私といえば驚きを隠せないでいる。だけどオルが言いたかったことが分かった。きっと、抱きしめて欲しかったんだろう。そんな可愛らしい要求を飲まないわけにいかない、なんだか母性をくすぐられて、頼りなさそうに抱きつくオルを一度抱き直してベッドに座り、膝の上に乗せた。
いつ以来だろうか、こうして誰かを抱きしめるようなことをするのは。まだ私が10歳くらいかなあ、いろいろあって施設にいた私を、サヤさんが抱きしめてくれたのを今でも覚えている。そしてそれが多分最後だった。
それから10年ほど経った今、私は私の大好きな人の下でこうして活動している。
ふいに服を掴む小さな手のひらの力が強くなった。胸に頭を押し付けるようにして、オルは少しまどろんでいる。ずいぶん寝たと思うけど、やっぱりまだ眠たいのかな。
「眠い?」
小さく首を振る振動が体に伝わる。でもその表情は、まぶたを重そうにしていて眠そうだ。そして少し寝ぼけてるように、ふわふわと小さく口を開いた。
「...はじめて。」
「ん?」
「誰もこうしてくれなかったから。」
...寂しそうにそう言われてしまうと、私はあなたを手放せなくなってしまう。だけどただ、あやすような言葉をかけて、見せかけは穏やかなようでその中濁流に流されているこの子の心の穴を、傷つけないように撫でるだけしかできなかった。私には癒す力がない。
「いつでも、オルがそうしたいならいつでもこうしてあげるよ。」
だからせめてこうしてあげることくらいはできると思うんだ。
「ほんとう?」
「本当だよ。」
この時、初めてオルが少しだけだけど口角を上げたのを見た。それは一瞬だけだったけど、ああちゃんと笑える子で良かったと、何かに安堵して私の顔もにやけてしまって。オルの眠気が移ったのか、それともさっき晩御飯を食べてお腹いっぱいだからなのか、眠気が一瞬頭をよぎる。
今日はやることもないし、もうしばらくこうしてようかな。こんな平和な気持ちは久しぶりな気がして、気づけば私はオルを抱きしめたままウトウトとしていた。




