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墨染の君影草  作者: 庭庭
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【弱脈】

オルトロス。

思い出したくないことが頭をグルグルと回っていく。ああ、ああ...やなことばかり。吐き気がしてしまって、体を、目を開けていることすら辛い気がした。だからヤナの中から離れて、いつもと少し...いや、かなり心地の違うベッドに頭を沈めて、一度世界を閉じる。ヤナはわたしの髪を撫でた。

「オルトロス...それが名前なの?」

うっすらと少しずつつ、こんな具合悪いことなくなってしまってたらいいな、なんて思いながら目を開けると、何一つ何も変わっていなかった。ただヤナとギンが眉をひそめてわたしを見ている。何も変わってない、ただそれだけ。


オルトロス。みんながその言葉でわたしを示したのだから、それがきっと名前。...うん、それが名前なの、わたし。だからいつも通り縦に首を振った。仕方なく、どうやったって痛いことしか見えない未来とお薬を飲み込まされるみたいに、いつもみたいにしぶしぶと。

「そう。じゃあオルトロスって呼ぶね。でも長いからオル、でいいかな。

ねえオル。オルには家族はいる?いるなら連れて行ってあげるよ。」

「...かぞく?」

それは一体?なに?わからない、分からないことを言わないでほしい。

きっとこの首を縦に振れば、ずっと穏やかになれない時が来る。たまには薬を飲むことを嫌がる時があってもいいでしょ?どうせ飲まされるけど。

心があべこべなわたしは首を横に振った。

「いないの?...うん、わかったわ。」

えっと、えっと...ギン、が何かメモしてる。いやだ、やめてほしい。わたしを知らないでほしい。知らないで、知らないで。ギンのその目が怖いの。

でもわたしは黙ったまままたいつも通り諦めて、そして諦めの後に決まって来る眠気に襲われた。...今日きた睡魔はいつもよりとりわけ強い。そのまま、とてつもなくまぶたが重たくなった。まばたきもできないくらい目に覆いかぶさるものが、見える世界を閉ざしていく。

「眠いの?」

いつもいつも、眠くなった時も気失う時も、音だけはプッツリ意識が途切れる時まで聞こえてくる。そう、眠いの。

「ゆっくり眠ったらいいよ。」

落ちて、落ちて、落ちていく。


でもね、わたしは眠ることも好きではない。眠ると決まってわたしは歪んだ場所にいるから。そこで、いつも何かに話しかけられて、何かに怯える。どこにいたってわたしは心まで落とすことができない。

頭の上から今日もほら。


どうする?

いつも通りだよ。

またただ苦しむだけだよ。

信じたって何もいいことはないよ。

またバラバラになるだけ。

何も変わらない。

どうする?


...どうする?どうもしない。

ごちゃ混ぜになった、いろんな声がただ突っ立ってるわたしの中に注がれる。

一度だけ、わたしはビンを割ったことがある。中に入ってたものは全部散らばって、あちこちに散らばって、ビンのカケラと中の苦いものが全部あちこち散らばって。わたしは知ってる。割れたビンには何も入らない。そう、知っている。

拒絶、受け入れ。認めて否認。わたしは黙ったまま砕かれて、わたしの中は全部散らばっているの。打ち付けられるこの声も落ちて流れて出ていくだけ。

だけど流れ出たものはやがて、溜まり溜まって散り散りのわたしを浸していく。カケラは汚れた水に沈んでいく。そうしてこうして、染み込んだむなしさにまた悲しくなるの、わたし。おぼれるよう。


...痛みがなければこんなことを考えるんだね。自分を考えたくなくて、そういう意味では痛み、もがきに身をよじらせて"わたし"を守っていたのかもしれない。

時々思うの。二度と目が開かなければ、きっと全てが終わって安楽の中に揺れてるんだろうって。この目、開かないで。開かないで。だけどわたしは何をしても、どんな痛みも苦痛も叫びながら通り越してしまう。

終わらない生と死。


...


「でも...もしかしたらさ。」

淡い期待が口から出る。どうやら夢の中なのに気を失ってたようで、寝言に近いわたしの言葉で夢の夢から夢の中で目がさめる。

「違うよ。絶対違う。大丈夫なんて言う奴は全部嘘つきなんだから。みーんな嘘つきなの。」

さっきのごちゃごちゃの声は耳から離れていってしまっていた。代わりに別の声がする。澄んだ声。わたしがおかしくなってからずっと一緒にいるこの声。わたしの中なのにわたしじゃないこの声。

「学習しないのね。期待したがるあなたはそうやってまた、歪んで自分を殺すだけだよ。私がヤナを食ってしまおうか?」

「ううん、だめだめ、それはだめ。ヤナは何もしない。きっと。たぶん。」

「確証できる?騙されてボロを出したあなたが私と一緒に惨めになるだけよ。私とあなたは一心同体なんだから、あなたの間違った行いは私にも被害が来るの。理解できて?」

そういう声が一体誰でありどこにいるのかわからない。あたりは相変わらず歪んでいるから、歩くと転びそうになる。わたしに歩くという動作は難しい。だから動かないことにした。その場に座って、ただキョロキョロするだけ。

「でも、でも、もう疲れたの。ヤナは噛みついたのになにもしなかったよ。それに温かいの。」

「本当、愚かしいわねえ。まあいいよ。じゃあ約束してちょうだい?」

声だけなのに、今どんな顔をしているのかが見えた。

「あなたの言うヤナがあなたを裏切った時、私に全て頂戴。いい?」

嬉しくて仕方ないような顔。確信を知ってる顔。そして歪な顔。とてもじゃないけどわたしを心配していたりとかしていないようで、さっき一心同体だとか言ってたのに。

「...うん。」

約束...守られたことがない。いいや、したことがない。約束なんて果たせるか、いや果たせなくたって何も困らない。深いため息をついて頷いて、わたしは自分で自分を抱きしめて横になった。

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