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墨染の君影草  作者: 庭庭
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【胎動】

ベッドにおろされて、少しこのあたたかい、心地のいいときが終わる。

「あ、自己紹介が遅れたね。私ヤナっていうんだ。よろしくね。それでこっちが...」

「自分で言うわよ。私はギン。医者をやってるわ。」

ヤナ?ギン?...この人たちにも名前があるんだ。

「ねえ、あなたの名前教えてもらってもいい?」

名前...わたしの名前...教えたらきっと嫌なことをされる。教えていいことなんて一つもない。口を閉ざして、わたし。話しちゃダメ。

...うん、名前、無いの。わたしには何もないよ。

首を振ってみた。

「ないの?じゃあなんて呼べばいいかな。」

どうして呼ぶの?わたしを。次のまちがった注射をするため?ならもっと、もっと教えちゃダメ。だめだめ。

名前、それは恐怖の合図。何もしないでほしい。きっと、この人たちもわたしになにかするに決まってるんだ。

「よばない...やだ...」

「どうして嫌なの?教えてくれるかな。」

ヤナが優しい声で話しかけてくれるけど、信じちゃだめ。切り刻まれた心と体に深く刻まれた、わたしのための教え。信じちゃだめ。教えちゃダメ。


だけど、あれ?ヤナの怪我にわたしの匂いを感じた。ここじゃない場所のかすれ気味の視界と音の記憶を思い出すと...

意識が尽きかけたわたしはたしか、急に起こされて頭がグワングワンするような衝撃を受けて、気持ちが悪くて仕方なくて、無意識的に何かに噛み付いた気がする...それがヤナ。

じゃあヤナの怪我はわたしが原因...察した瞬間、体が震え出して止まらない。


「怪我したらほら、痛いじゃない?だから噛んだり引っ掻いたりしたら、それ相応の罰を与えなきゃね。」


その言葉が、脳裏と耳に焼きついて離れない言葉が、わたしを恐怖へ落とす。

「大丈夫?どうしたの?ねえ、ギン...」

目の前でヤナが慌てる声がする。今から"おしおき"される、そう信じて止まないわたしは、自分を守ろうと必死に小さくなる。

「分からない。具合悪い?」

耳に届かない。届けさせない。閉ざして、わたし。ただただがまんするの。今もこれからも、ずっとずっと。


無痛、無感に徹していると何も気づかない。無意識へと心と体を落とすと、何にも気づけない。

おかしい、あの吐き気と頭痛と全身の痛みが全くこない、そのことにも気づけなかったわたしは、圧迫を感じて顔を少しだけあげた。

「え...?」

あたたかい。ヤナが、わたしを抱いていた。驚いたわたしはわたしの本能に従ってもがくけれど、ヤナは離してくれない。離そうとしない。ああ、終わった、わたし。

でも、でもただただヤナはわたしを抱いてるだけで、何もしない。何もしない...

どうして?

「急にいろいろあって、きっとびっくりしたんだよね。でも大丈夫だから、安心して、ね?

あのね、少しずつでいいんだ。あなたのこと、教えてくれないかな。」

そうして背中を、頭を撫でる。...いつ以来かな。いや、されたことは無かったかも。ううん、無かった。無かったんだ。

ヤナの体温が、この感じが心地よい。シーツだけのベッドの上と違う。ずっとずっと、寒くて暖めてもらえなかった体が慰めを欲しくてヤナを求めた。だから試しに、キュッとヤナに抱きついてみる。もしも拒絶されたなら、もう二度と何にも期待しないと決めた心の中にある期待を捨ててしまおう。あるだけ辛いの。


............

.......

...


光も見えないほど閉じた目をそっと開ける。なにも...ない?ない?ほんとに?

「...なにも...しないの?」

思わずそう聞いてしまう。ヤナは、わたしを抱いたまま困った顔をした。

「何もって?もしそれがあなたが嫌って思うことならしないよ。」

嫌って思うこと...でもこうして抱っこされるのは嫌じゃないよ。


...ヤナ、わたし...この期待をヤナに少し向けてもいい...?

わたしの体、心を傷つけるなら、わたしはもう、こうして考えることをやめる。

だけど、そんな希望を取り巻く不安と不信、不信と不安の疑心暗鬼が吐き出したい叫びを押さえつける。


信じていいの?裏切られるの?


その苦しみの末にたどり着いた答え。


「ヤナ、わたしの名前..」

「うん?」


...オルトロス。

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