逸る心と厭う彼女
「...ふう。」
期待と不満の混ざった灰色のため息をついて、さっきまで鳴らしていた足音を出さないようにそっとベッドへ近づく。どうせきっと寝てるよね。
だけどベッドには誰もいなくて、一瞬で私の中に戦慄が走った。
もしかしたら落ちたのかも?だけど周りを見ても彼女はいない。じゃあどこに行ったのだろう?
「ギン、あの子がいないの、どうしよう!」
「うーん、一応廊下も探してみて。とにかく今そっちに行くから少し待ってちょうだい。」
慌てて通信端末を取り出してギンに連絡をして、言われた通りに一度廊下を探してみようと思った矢先、さっきと違う部屋の違和感に気づいた。
部屋の隅にシーツなんておいてあったっけ?
「...ねえ?」
そっと、その白い塊に私は声をかける。だけど反応はなくて、静かにシーツをめくると少女がうずくまって眠っていた。よかった、外には出てなかった。
もう一度ギンに連絡をしようと思って、再び端末を取り出そうとした瞬間、少女が目を開けて私を見上げた。
「...!」
私の顔を見るや否や、少女は飛び起きて自分を包むシーツを抱きしめ、壁に身を寄せた。そして小さく唸っていた。
「怖いの?大丈夫だよ、何もしないよ。」
しゃがみながらそう言い聞かせて手を伸ばしても、少女は首を振ってこれ以上近づくこと、自分に恐怖を与える私のことをひどく嫌がった。...まあ、あの研究所でされてたこと、これまでのことを考えるときっと人間不振にはなるよね。それに目を覚ましたら全く知らない場所にいたら、誰でも驚くし。
「寒くない?ベッドに戻ろう。床で寝てたら冷えちゃうよ。」
「...や...いたいの...だめ...」
片言ではあるけど、そうやって少女は意思表示を一生懸命する。意識はある程度しっかりしてるようで、だけど時折目を瞬かせたり擦ったりしていた。もしかして、目が悪いのかな?
「痛いことも嫌なこともしないよ。大丈夫、安心して。」
刺激しないように、落ち着いた声色でそう語りかけながらそっと少女の頬を撫でる。触れた瞬間、少女は体をビクつかせて固く目を閉じ、何かに耐えるそぶりをした。
「とにかく一度、ベッドに戻ろう?...わっ!」
突然、少女は私の腕に噛みつこうとした。それも甘噛みとかじゃなくて割と本気だと思う。空振りしたちいさな"キバ"が、鋭い音を立てた。これにはさすがに驚いて、腕を引いた弾みで私はそのままみっともなくひっくり返ってしまった。
「いたた...」
尻餅をついて打ったお尻をさすりながら、再び少女に向き合う。でもやっぱり少女は目をぎゅっと閉じて怯えて、下をずっと向いていた。
「...まあ、私も悪かったけど。」
普通、誰でもそうだけど怖いと思ってる人から手を伸ばされたら、そりゃあ怖いよね。彼女なりの防衛だったんだろう。つまり、最上級に嫌がっている。
それなら仕方ない、あまり刺激しないようにそっと離れて、私が手を伸ばしても届かない場所から様子を伺うことにした。これなら少女も少しは安心してくれるだろう。
あまりにも固くを目閉じていたからか、少女は私が少し離れたことに気づかなかったんだろう、しばらくずっとうつむいて、体を震わせていた。だけど少しの時間を経てようやく気付いたようで、そっと顔を上げる。キョトンとした顔をしていて、今度は別のことで驚いてるようだけどそれが何かはわからない。
「...?」
少女はキョロキョロとして、その後で私が触れた場所を自分の手でこすって匂いを嗅いでいた。もしかして、そう思って私は左手の匂いを嗅いだ。ああやっぱり、モモの香りがする。手を洗ってもこの甘い匂いは落ちていなかったようだ。
「...。...?」
自分の手と、私の顔と。見比べて、それから首を傾げて、恐る恐る私に声をかけてくれた。
「手...」
小さな手を伸ばして少女は私の手を求める。だから素直に左手を差し出すと、冷えてひんやりとした手が私の左手をそっと掴んだ。
「甘い匂いするでしょ。さっきモモ食べたんだ。」
「も...?」
「そう、モモ。食べたことある?」
しきりに匂いを嗅ぎながら、少女は首を振る。そうだ、ショウからもらったモモがあるから、明日にでも持ってこようかな、何て思っていると、慌てた様子のギンが部屋に飛び込んできた。強く扉を開けるものだから、せっかく落ち着いてきた少女はひるんで、そしてぎゅっと私の腕を掴んだ。だけどあまり力は強くなくて、少し...かわいいと思ってしまった。
すっごい心配したんだろな、息を切らしていたギンは、部屋の隅っこにいる私たちを見て安堵して、前髪をかきあげて冷や汗を拭った。
「ああよかった、いたのね。びっくりしたわ。」
「ごめんね、心配させて。
でも目が覚めたのね、よかった。痛いところはない?」
そっと、私のそばに来て少女にギンは近づいたけれど、やっぱり怯える彼女はさっきより強く私の手を握る。だからギンを制して代わりに私がもう一度聞いた。
「大丈夫、何もしないよ。痛いところとか、具合悪ところない?一回、ベッドに戻ろう。」
少し躊躇した後で少女は小さく頷き、くちびるを噛んだ。驚かせないようにそっと抱きしめられた左手を取ってシーツごと抱きかかえると、少女は驚くほど軽かった。そして...冷たい。ずっと床で寝てたのかな、シーツ越しに感じる体温がとにかく冷たくて、私の熱を奪うようだ。
ふと、耳元で少女の匂いを嗅ぐ音が聞こえた。一体何の匂いを嗅いでるんだろう、考えていると右肩に走るものがあって、私は思わず痛みを声に出してしまう。そういえば怪我してたんだ...
「大丈夫?まだ怪我治りきってないんだから無理はダメよ?」
「へーきへーき。それより、急に声出してごめんね、驚かしちゃったね。...?どうしたの?」
無心...というか没頭するような目?で、少女は私の肩の匂いを嗅いでいた。薬品の匂いでもするのかな。
やがて少女はハッとした顔をして、私の横顔を見る。そして一言。
「...ち?」
まさか傷が開いて血が滲んでるんじゃないか、だけど肩はなんともなくて、ギンもこれには首をかしげる。もしかして、血の匂いを感じたのかな。一生懸命匂いを嗅いでたし...いや、ありえないか。包帯とかの匂いから連想してたどり着いたんだろう。
そうやって、私の中で納得してしまって自己完結してしまったから、もうあとはこのことを考えることはなかった。