彼の者の名は
昔短編として投稿していた物を連載の形にして再投稿。
内容は殆ど変わっていません
幾多もの音が反響する。
周囲に存在する特殊な鉱石のお陰で、淡く光を宿している洞窟の中を疾走するのは一人の青年。背丈は凡そ一九〇センチに届く辺りか。年齢的には20を幾分か超えた頃に見える。
青年の動きに合わせて、一切装飾の施されていない無骨な――見方を変えれば棺桶に見えなくも無い鞘に収められた身の丈ほどもある長剣がカタカタと音を奏でた。後ろ腰に取り付けられたポーチに手をあて、風を切り足音を響かせながら走り抜ける青年の尾を引くように、風に揺られて首に巻いたマフラーの二つの先端が宙を泳ぐ。
左右の肘から先を明るい橙色の防具で覆っており、指の先端には銀の装飾が施されている。ズボンと靴は一つに繋がっている様で真っ黒な生地の上を金の線が走り、黒と灰色の生地で作られた防具が、青年の上半身をしっかりと守っていた。
頭部を守る真っ黒な防寒帽子のような形状をした被り物が青年の髪を覆い隠し、橙色の縁をしたゴーグルごしに鋭い眼光を自身の背後へと飛ばした。
【ぐじゅるるるぅゥアアアアアアアアアッ!】
青年が足を止めずに疾走している理由が、そこには存在していた。
まず最初に頭に思い浮かぶ単語は、巨大。次に常人ならば恐怖だろうか。
凡そ体長一五メートルは大きく越すであろう、巨大な蜘蛛の化け物。その巨躯を支える鈍く煌く鋼のような装甲に守られた、大きく発達した四対の歩脚を青年の後を辿る様に蠢かせていた。
先の尖った侠角はそこらの鋼ですら容易く突き破るであろう。淡く光る洞窟の中で一際目立つ、血の様に怪しく光る紅の複眼。細かな点にも見えるその数は、恐らく百や千では足りようも無い。
化け物の名称は【蟲毒蜘蛛】。昔――といっても文頭に"遥か"が付かない程度の頃――その『猛毒』を持って、比喩や膨張などでは無く文字通り一国家に相当する数の命を滅ぼした"災害"の一つに例えられる化け物。人の力では到底叶う筈も無い存在だからこそ、"災害"に例えられたのだ。
圧倒的な怪物に追われている青年の未来を尋ねられれば、多くの人が即答でこう答えるだろう。
『ご冥福をお祈りします』
まさしく絶望的な状況に陥っている青年の眼光は、しかし今だ鋭利な眼光を宿したまま。青年は右手をゴーグルに当て、しっかりと装着しなおす。それは恰も、最後の確認のような――覚悟を決めるための癖のような、あまりに自然な動作。
――――瞬間の、刹那の出来事だった。
一瞬前まで地を蹴り加速しつつ疾走していた青年の姿が掻き消えた。
否、消えたのではない。姿が掻き消えたと見間違える程の、遥かな速度での爆発的な跳躍。青年は宙を舞う。
【ぎゅアォッ】
一拍遅れて。
今の今まで青年が立っていたその場所に、寸分狂わず『呪い』と恐れられる猛毒を与えんと、鋭く光る侠角が突き立てられた。岩が砕け、洞窟の中に新たな崖が作られる。
後一歩でも遅れていたら死んでいたであろう惨状を目にしても、青年の動作は寸分も狂わない。虚空に踊る身体は川の様に緩やかに流れ、青年は自身と大剣を繋げている紐を解く。支えを失った長剣が重力によって落下を開始する前に、青年は宙で回転しながら左手で鞘を、右手で柄を握り締めた。しっかりと、力強く。
トン……、と足裏が青年の脳へ確かな感触を伝える。膝を曲げ、力を蓄える青年は、鷹のような眼光で標的を睨み付けた。灰色の双眸に映し出される、【カース・タランチュラ】の全貌。
途端に青年は圧倒的な全脚力で蹴り飛ばす。ビギッ! と確かな破壊音と同時に、足場となった洞窟の天井の一部が崩壊した。宙を舞うは無骨な鞘。洞窟の闇は夜空の様で――青年は流れ落ちる一筋の流星の様に、現れた白の刃で闇を切り裂く。
【じゅるるるゥッツ!!】
青年へと伸ばされた【カース・タランチュラ】の歩脚。歩脚の先端に存在する鋭角的な二本の爪は見事標的を捉える事が出来たならば、一切の抵抗なく貫く事が可能だろう。間違いなく死を与える死神の槍の如き鋭さ。だが、狙いは外れる。高速で落下する青年の数センチ後ろの虚空を抉る歩脚の先端。新たな抵抗を【カース・タランチュラ】が行うような時間など青年は与えない。
抜き放たれた長剣の刃を構え、鞘を放り自由になった両手で柄を握り締める。狙いは背の外骨格。紫のような毒々しい色彩をした外殻の強度は、鋼に似た装甲で守られた【カース・タランチュラ】の歩脚の強度を遥かに上回る。並みの刃では切り裂くことなど到底不可能。
「――――ふッ!!」
青年は口元に不敵な笑みを携え、短く吐き出した息と共に、まるで曲芸のように身体を回転させ、勢いを乗せた長剣を横薙ぎに振るう。恐るべき速度を誇る刃の殺傷能力は疑うまでもない。彼と同じ芸当が出来る者が一体何人存在するだろうか。
爆発的な速度にて、圧倒的な技術で振るわれた長剣は。
しかし。
ギィィィン! と甲高い音を洞窟内に響かせながら弾かれる。
まるで青年の全てを嘲笑うかのように。
これこそが"災害"と恐れられる【カース・タランチュラ】の絶対的な防御力。
事実、大砲レベルの攻撃では傷一つ与えられない。
「チッ……」
舌打ちを一つ。青年はすぐさまその場を離れ、再び【カース・タランチュラ】に背を向け逃走を開始した。落胆した様子も無く、一切の迷いなく行った動作。青年の攻撃が弾かれたのは何も今回が最初では無い。既に何度も全く同じ場所に攻撃を仕掛け、それでも今のところ目に見える変化は起きていない。途中落ちていた鞘を蹴り上げ、目の前に浮かんだところを掴み取る。刃を素早く納める寸前に、青年は手元へ視線を走らす。
長剣の刃は"鋼"で出来たものではない。長剣の刃の色彩は、白。驚くほどに、不自然なまでに白一色。刃は"骨"で出来ていた。顔が映るまでに磨き上げられた骨の刃に視線を落としていた青年は、不意に足を止め――――次の瞬間。横の地面目掛けて全力で飛び込んだ。
――背後から飛来してきた物を避けるために。
ズガッ! と洞窟の壁に、天井に、地面に突き刺さる。それは糸。【カース・タランチュラ】の腹部後端に存在する出糸突起から、先ほどの青年の攻撃の速度をも上回る速度で放たれた糸は、岩など容易く突き破り、瞬く間に硬質な壁を作り上げた。
青年はすぐさま起き上がり、出来上がった真っ白な壁を拳で叩く。
コンコン、と鋼を叩いているような音が帰って来た。
どうやら粘着系の糸ではなく、硬質系の糸を使って壁を作ったようで、彼の腕を持ってしても切り裂くのは手間が掛かるだろう。
(……ちっ。後何回か繰り返せば通りそうだったんだがな。仕方が無いか)
青年は首を振り、今日何度目かになる動作で刃を抜き放つ。だが、続く動作は今日は初めて行うものだ。彼は自身の親指に歯を立て皮膚を食いちぎり、僅かな痛みと共に血が滴る。紅の液体が流れる親指を青年は素早く骨の刃へと押し当て、真白の刃に紅の線を引くと共に、目覚めの呪言を囁いた。
「《牙蛇血流・詠唱術・起》――」
歌うように。謳うように。唄うように。詠うように。紡がれる神秘的な言霊は、刃の力を解き放つ――――。
「――《我ガ血ヲ吸イテ。古キ力ヲ目覚メサセヨ》」
ずずずずずズズズ……ッッ!! と。
血は染み渡り、瞬く間に白を紅へと染め上げた。刃に起こる変化に口角を吊り上げ、不敵な笑みを零す青年は不吉な紅の刃を構える。切っ先を【カース・タランチュラ】へと向け、柄を両手で握り締め、両足で大地を踏みしめる。
一瞬の緊迫。
先に動いたのは青年の方だった。足場が砕けるのも構わずに、全力の脚力を持って、爆発的な加速で【カース・タランチュラ】へと疾駆する。
【キィイィィイイッッ!】
甲高い咆哮を上げ、【カース・タランチュラ】は今度こそ獲物を貫くために歩脚を動かす。鋭利な光を宿す二本の爪を高速で青年目掛けて振るった。軌道上には青年が居る、完璧なタイミング。今更急ブレーキをかけた所でもう遅い。二本の爪を防ぐ事ができるほど防御力の高い防具は、青年は身に纏っていない。間違いなく貫かれる。
怪物の冷たい勝利の確信は、余りに呆気なく青年の手によって崩れ去った。
「《牙蛇血流・剣術・柔》。《紅白夜》」
一線。紅の刃が丸い円を描く。一泊遅れて、緑の鮮血を噴出しながら【カース・タランチュラ】の歩脚の内二本が切り落とされた。何がなんだか分からなかっただろう。つい数分前までは、確かに青年の振るう刃では【カース・タランチュラ】の装甲に傷一つつけることが出来なかった筈なのだ。しかし、現状はどうだ。大して苦労せずに、簡単に切り落として見せた。
【じゅるッ、ギュギキィィィィィィィィ!?】
困惑の声を上げる【カース・タランチュラ】。
青年は笑い、切り裂く鋼のような眼光で怪しい紅の複眼を睨みつけ。
「――じゃあな。お前が無駄な事しなけりゃ、もう少し生きられただろうよ」
猛毒を携える侠角を潜り抜け、頭部の下に潜り込んだ青年は、振り上げた長剣を一気に振り下ろす。何度となく刃を弾いたその場所は今度の攻撃を弾く事は敵わず、大した抵抗を受けずに滑り込み【カース・タランチュラ】の頭部と腹部を分断した。
緑の鮮血を浴びないように器用に身を捩りその場を離れる青年の背後で、轟音を立て【カース・タランチュラ】が力なく崩れ落ちる。その様子を見る事無く白を取り戻した長剣を鞘に収めながら、同時にゴーグルを外す。青年は静かに歩を進めた。向かうは洞窟最深部。
途中、【カース・タランチュラ】の糸で出来た壁を切り裂き、ゆっくりと慎重に進んだ青年は、目的の物を発見した。薄黒い青色をした、十センチほどの鉱石。名を『秘結晶』と呼ばれるものだ。一体どんな物質で作られているのか、何故存在するのか、どうやって現れるのか。その全てが謎に包まれた『結晶』。
ただ一つ分かっているのは、この『秘結晶』から発せられるエネルギーを長時間浴び続けるか、『秘結晶』そのものを体内に取り込んだ場合、肉体に変異が起き理性が消え、本能のまま暴れまわる異形の化け物となる――という事のみ。『秘結晶』により変貌した化け物を『秘獣』と呼び、『人間』に害成すモノとして討伐し、その報酬で生計を立てる存在が一般的に『冒険者』と呼ばれる者達だ。
【カース・タランチュラ】もまた『秘獣』の一体。『秘獣』の危険度は『秘結晶』の大きさによって決まる。過去最大の『秘結晶』のサイズは凡そ一メートル。その時生まれた『秘獣』は、大陸一つを海の底へと沈めた。
『秘結晶』は成長する。故に、『秘獣』の討伐後、真っ先にやらねばならない事が、『秘結晶』の封印である。
青年は慎重に『秘結晶』に近づき、右手を伸ばす。直に皮膚で触らないよう、欠けていないかなどを確かめ、右手の指の先端、銀色の装飾が施されている部分で『秘結晶』に触れる。
「《牙蛇血流・封印術》。《紅銀十字》」
ギュルルル! と銀の装飾が素早く『秘結晶』の表面を蛇のように侵食していく。僅か一分足らずで『秘結晶』は歪な文字が描かれた銀で覆い尽くされた。一仕事終えた青年は、しかしその場を去ろうとせず、キョロキョロと辺りを見渡しながら足を進める。何かを探すように、眼光をあたりに彷徨わせつつ、洞窟の壁や地面を調べていく。
「……ここにも無いか……」
しかしどうやら目的の物は見つからなかったようで、青年は後ろ腰に取り付けられたポーチに手を伸ばし、無線機のマイクのような物を掴み口元へと持っていく。
「俺だ。『秘獣』【蟲毒蜘蛛】一頭の討伐に成功、及び『秘結晶』の封印完了。回収班は『死蟲洞窟』最深部手前辺りまで来い。救護班は必要ない。以上だ」
『うわっ、早いスね。まだ三日も経ってませんよ? 流石っス。では今から一時間程度で回収班二班がそちらへ向かうっス』
「ああ」
通信を切る。通信機をポーチに戻しながら、青年は大きく伸びをした。
青年の名前はグレイヴ=ディシース。都市国家『ガンマ』に居を構えている『怪物達は弔鐘を鳴らす』というギルドに所属する『冒険者』の一人である。