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阿片窟

作者: 三文士

久しぶりの短編投稿です。第二回金魚屋新人賞で二次選考まで残していただいた作品を少し改稿しました。よければお付き合いください。

私はごく一般的な中堅企業に勤める、しがない一介のサラリーマン。


今日も満員電車に揺られながら家路につく。


週末で残業した体は、もはや満身創痍と言っていいだろう。しかし、心は反対に充実感に満ち溢れている。心地良い疲労感なんてとうに超えているがそれでも精神的には余裕がある。


私を支えているのはただ、たった一つのもの。


降り立った駅で私と同じ様なサラリーマン達がそれぞれの帰る場所へゆっくり歩みを進めている。私は彼らを一瞥し、ふっと軽い溜め息をついて再び歩き出す。


そこはネオンも喧しい騒音とも無縁で、ただ等間隔に並んだ柔らかな街灯だけが灯る閑静な住宅街。同じ様な造りの同じ様な色の家々がところ狭しと群生している。


まるで森だ。一軒家という樹木が立ち並ぶ森。


他所からきた人間にはきっと見分けはつかないだろう。


そうして暫く歩いた後、私は一軒の家の前で立ち止まる。そこは二階建ての白い一軒家で空色の車が一台、自転車が三台と三輪車が一台止まっている。もうそろそろあの三輪車も補助輪付きの自転車に買い換えてやらねばなるまい。


キキっと音をたてて小さい鉄製の門を開けると、家の中からドタドタと忙しない足音が聞こえてきた。私が玄関の取手に手をかけるかかけないうちにドアがひとりでに開く。少しだけ開いたドアの隙間からはおそるおそる小さな二つの瞳がこちらの様子を伺っている。


それが私の姿を捉えた途端、その小さなガラス球に輝きを灯した。私はたまらなくなり優しく取手に手をかける。


「ぱぱーおかえりなさーい。」


四歳になる娘がギュッと体にしがみつく。


「ただいま。」


私はにこやかに彼女を抱きあげる。


「おかえり。お父さん。」


「アナタ。おかえりなさい。」


大人ぶって壁によりかかる男の子。私の八歳になる息子。


エプロンで手を拭きながら出迎えてくれる妻三歳年下の私の妻。


「ただいま。みんな。」


私は私の自慢の家族に微笑みかける。


「遅くまでお疲れ様さま。皆ご飯食べないで待ってたのよ。」


「すまなかったね。二人ともお腹へったろ。」


「もうペコペコで死にそうだよ。」


「あたしへーきー。」


「うそつけ。さっきつまみ食いしようとしてたクセに。」


「ちがうもーん。」


膨れっつらの娘の頭を撫でてから私は着替えて食卓につく。


息子がほっぺたにご飯粒をくっつけながら私に話しかける。


「お父さん。映画のチケット買っといてくれた?」


はて?と首を傾げると息子は不機嫌な顔をする。


「やっぱりなー。お父さん絶対忘れてると思ったよ。連れてってくれるって約束したじゃんかー。」


「ちがうよー。ぱぱあした、あたしとくれーぷたべるんだから。」


そう言えば息子と娘とダブルブッキングしていたのを忘れていた。


「そうか。ゴメンゴメン。じゃあ明日はクレープ食べて映画を見に行こう。」


「ぃやったーーー」


「ぃやったーー」


「あら良かったわねえ。でもパパ。ママとの買い物するって約束も忘れてないわよね?」


妻は少し怒ったフリをする。


困ったな。


トリプルブッキングじゃないか。


「いや。忘れてないさ。じゃあ映画を観たら買い物しよう。」


「ねーねー。全部行くってなると場所はどうするのさ。」


息子が解っていても質問してくる。彼は答えを言って欲しいんだ。


「そうねえ。クレープ食べて、映画も観て買い物できて。ついでに晩御飯も食べられるところっていうと。」


「きまってんじゃん!」


家族で顔を見合わせる。


「明日はビッグエレファント!それで決まりだな?」


「イエーーーイ!」



次の日はみんなで早起きして、余裕をもって駐車場に着く事が出来た。


それにしてもまだ午前中だっていうのに凄い人の数だ。


ビッグエレファントは隣の駅にある大型のショッピングモールだ。ここいら近郊に住んでいる人らは全ての用事をこの商業施設でまかなっている。スーパーなど日用品店はもちろん家具やブランドの服、本や電化製品、果ては歯医者まである。


ビッグエレファントは大きく分けて二つのエリアから成り立っており、その目的によって行く場所が異なる。


ブルーエリアは食品や日用品が中心で価格の安い物が多い。もう一方のイエローエリアは家具や電化製品などの店舗が多く、レストランや映画館などのアミューズメント施設もこっちに揃っている。私の財布にとってありがたいのはブルーエリアの方だが、妻と息子はさっさとイエロー方面に歩いて行っている。


ただでさえここへ来ると色々な物が目について、つい買い物袋を増やしてしまうのに。


「ふー。金、足りるかな。」


思わず口に出してしまった。まだ家のローンだってあるし、給料の上がる見込みは薄い。


「ぱぱ。あたし、くれーぷいらないよ。おたんじょうびにするよ。」


突然、娘が泣きそうな顔でそう言った。どうやら娘は私の財布を心配してくれているようだ。その優しさが健気で、なんとも愛おしかった。


「ありがとうね。でもパパだって沢山働いてるんだ。クレープくらい大丈夫さ。」


「ほんとう?」


娘は潤んだ瞳で私を見つめる。


「本当さ。パパに任しておけ。」


「うん!ぱぱだいすき!」


その満面の笑み。この笑顔の為ならなんだってできる。なんにだって立ち向かえる。


「さあ。ママとお兄ちゃんのとこに行こうか。」


「うん。」


私は娘の手をとって歩み始めた。


「遅いよー。映画、あと二時間で始まっちゃうよ。チケット買わないと。」


息子が痺れを切らせて探しに来た。


「ゴメンゴメン。初日じゃないから、きっと混んでないよ。次の回でもいいだろ。」


「もー。お父さん、また暢気なこと言ってら。」


そう言って不貞腐れてみせる息子。ついこの間までは下の子と変わらない甘えん坊だったのに。妹が産まれて、小学生になって。いつの間にかすっかり一人前を気取ってる。まだまだ子供だけど、頼もしくなりつつある。


「お父さんさ。最近忙しいの?仕事?」


息子が、とつぜん思案顔で聞いてきた。


「ずっと帰りも遅かったし。こうやって休みに出かけるのも久しぶりだし。」


「そう、だったな。うん。結構忙しかった。」


私は小学生の息子に、まるで友達に悩みを打ち明けるように仕事の話をしてしまった。もちろん、彼にわかるように噛み砕いてはいたが。


「そっか。オトナって凄い大変なんだね。」


「そうだね。まあお前もいつかそうなるな。」


「いやだなー。僕このままでいたい。」


そりゃあ無理だ、と二人で笑った。


「解った。じゃあお父さん頑張って働いてよ。家は僕が守るからさ。」


ハッとして見た息子の横顔は、また一段と男らしく見えて目頭が少し熱くなった。だが私も男だ。グッとこらえて前を見る。


「よし。頼んだぞ。男と男の約束だ。」


私たちは固く握手を交わした。


「じゃあ報酬として、映画館でチョコアイスとメロンソーダをお願いします。」


「それはダメ。」


「えー。なんでえ。」


「お昼を食べれなくなったらお父さんがママに怒られる。」


「うへえ。男らしくないなあ。」


そう言って、また二人で笑った。


「あっ!ママー!」


息子は母親を見つけると急いで走って行った。なんだかんだ言ってもまだまだ子供なんだ。私のことはお父さんと呼ぶのに妻のことは今だにママと呼んでいる。


彼は彼なりに私がいない間を守るため、精一杯強がっているのだ。


「何処行ってたの?心配しちゃった。」


妻が優しく微笑む。


「お父さん歩くの遅いんだ。ねえ早く映画観ようよ。」


「そうね。でもまずお昼食べてからね。映画館でお菓子を食べすぎない為に。」


「えー。」


「えー。」


二人の子供たちはふくれっ面をしたが、やはり母親には敵わないようだ。渋々ながら、彼女の言葉に従う。


「さて、まずはささッとレストランにでも入っちゃいましょ。買い物もしなきゃいけないし、時間がないわよ。」


「じゃあフェアリーテールに行こうよ!」


「あたしオムライスたべるー!」


フェアリーテールはビッグエレファントに三店舗存在するファミレスのひとつだ。味も値段も他の店のとは大差ない。だが実際、子供達がファミレス好きで助かっている。


結婚前の妻は、元々そういった類の店は避けるタイプだった。避ける、というか習慣がなかったようだ。彼女の実家は裕福だったし、両親は絶対にファーストフードを食べさせなかったそうだ。


だがいざ私と結婚して私の給料だけでやりくりするとなると、どうしたって安い店の世話になる。子供が産まれてから尚更、というか殆どの外食がファーストフードになった。


彼女はそれを、責める言葉一つ言わずに受け入れてくれた。本当に頭が上がらない。


「じゃあママはナポリタンセット。」


「ぱぱ、なにたべるの?」


「なんでも食べちゃうぞ。」


がおー、と怪獣の真似をしておどけてみせる


「きゃーっ。あははは。」


息子と娘が駆け出していく。


それを見て微笑む妻になんだか私は、急に礼を言いたくなった。


「あのさ。いつも、ありがとう。なかなか家族の時間が取れなくてすまない。」


「嫌だわ急に。どうしたの?」


浮気でもしてるのかしら、と笑う妻。


「知ってるだろ。そんなに器用な人間じゃないさ。」


「そうね。」


「だから給料も安くて、キミに迷惑をかけてる。」


「もう。なんか変よ今日は。」


こんなよく出来た妻は、自分みたいな男にはもったいないとつくづく思う。


「キミが文句のひとつも言わずやってくれているから。」


んー。と考えるそぶりをみせる。


「あたしね、実は結構好きかも。ファミレスの味。」


「え?」


「両親は体に悪い、って食べさせてくれなかったけど。食べてみたらなかなか美味しいのよね。」


「えーと。つまりどういう?」


私はいよいよワケが解らなくて、困った顔をしてみせる。


「確かに値段は安いし、あんまりいい材料は使ってなさそう。」


「うん。」


「だけど子供達だって喜んでるし。お財布だって、助かるわ。いちおう外食できて気分も良くなるし。」


「そうだね。」


そう言って妻は、ペコリと一礼をしてみせた。


「だからアタシはこうやってたまにファミレスが食べれるくらいの生活で十分満足しています。」


言葉にならなかった。


油断してしまえば涙が溢れてしまいそうだった。


「ありがとう。」


そう言うのが精一杯だった。


「どういたしまして。」


私は、自分が世界で一番幸せではないかと思えた。


「さあ早く行きましょう。子供達、きっと待ちくたびれてるわ。」


私は熱くなった目頭をなんとか拭いてごまかす。


「そうだね。」


「映画が始まるまであと一時間くらいだわ。」


「急いで食べなくちゃ。」


「まあ。子供みたい。」


うふふ、と笑った表情は学生時代に出会った時から変わっていない。


愛しい妻。結婚してからずっと、気持ちは出逢った頃のままだ。


ファミレスでの安い食事は到底記憶に残る程の味ではなかったが、家族のみんなは満足してくれたようだ。


その顔で、私も胸がいっぱいになった。


片付いたテーブルでコーヒを傾けていると、娘が持っていたチラシに目がいった。


『◯月◯日ニューエリアオープン!ピンクエリア!キッズ用品多数』


そんな事が書いてあった。


「あら、新しいエリアがオープンするのね。」


と妻が目ざとく見つける。


「モモこちゃんだよ!」


「モモこちゃん?」


どうやら新しいエリアのマスコットキャラクターらしい。


チラシには頭に赤いリボンをつけた桃色のゾウがニッコリ微笑んでいた。


「学校じゃ女子たちにグッズが人気なんだ。」


と息子。


「へえ。いい商売してるねえ。」


対して興味もなかったが、子供たちが喜ぶなら今度また連れてきてあげようと思った。


「あっ!もうこんな時間じゃん!映画はじまっちゃう!」


「本当だわ。あと十五分しかないわ。」


あわてて会計を済ますと、家族全員急いで映画館のチケット売り場に並んだ。


「ねえママポップコーンは?」


「あきれた。まだ食べるの?」


妻が息子の食欲にうんざりしてる間にチケットを購入した。


「だってポップコーンのない映画なんて映画じゃないよ。」


「もう。ませたこと言って。」


「いいじゃないか。ポップコーンくらい。」


「イェーイ!」


今日は久しぶりに家族全員と話せた私は、つい甘いことを言ってしまう。


「じゃあアタシもジュースー。」


「お腹壊すなよぉ?」


「イェーイ!」


妻は子供の手前、怒るようなそぶりを見せていたが最後には微笑んでくれた。


それぞれの戦利品を手に、子供達は席に着く。


私の隣に寄り添うカタチで、妻が座っている。


スクリーンから六番目の席。


宣伝が終わりもうすぐ本編が始まるという時、妻が耳元で囁いた。


カウントダウンが始まる。


「アナタ。あのね。」



「うん?なんだい?」



「アタシとっても幸せだわ。」



「僕もさ。」



「本当?」



「本当さ。嘘じゃない。」



「ではまたのご利用を。お待ちしております。」


多分最後に彼女はそう言ったと思う。


本当はよく聞こえなかったんだ。だって次の瞬間、私はとつぜん視界がホワイトアウトしたかと思えば、見知らぬ場所にいた。


まるでテレポートしたみたいに。


今まで映画館の席に最愛の家族といたはずなのだが。


おかしいな。


頭はとっても混乱していた。心臓の鼓動も早い。


なにやら半透明のカーテンに遮られた天蓋付きのベッドにいるようだが、ヒドく 臭う上にシミだらけだ。


これは夢なんだろうか。もしかして映画の途中で寝てしまったのか。多分夢だ。最近は残業続きだったからな。それにしても嫌な夢だ。


身体も重くて思うように動かないし。視界もかすんで見えにくい。音も、何故だか左側しか聞こえない。まあだからこそ、これが夢だってハッキリ解る。


全てがまともじゃない。


ただ不思議なのは、その空間の醜悪な臭いだけがやたらリアリティをもっているということだ。あまり嗅いだことのない臭いだが、例えるなら多種多様な薬品と排泄物の混ざった様な臭い。悪臭極まりない。


まあこんなハッキリした夢も珍しいので私は少し楽しんでいく事にした。楽しみにしていた映画で寝てしまったから、息子へのせもてもの言い訳として。


私は周りを見渡してみた。


ベッドの横には何やらDVDプレイヤー大の機械が置いてあって、そこから四、五本の管が伸びていた。その管を伝っていくと、どうやらその全てはこの私の後頭部につながっているらしい。


不思議な夢だ。一体どういう設定なんだろう。

SF小説なんて読んだこともないのに。人の脳というのは摩訶不思議だな。


そんな事を考えていたら突然、足音が聞こえた。相変わらず私の頭は夢心地でいる。どうやら足音はこちらに近づいてきているようだ。


次の瞬間、バサッと無遠慮にカーテンが開けられた。


「あれぇ?12番さんもう起きてんの?予定より早いなあ。」


それは間の抜けた男の声だった。声の主は若い男。


私はぼやける視界の中でなんとか相手を確認した。


男は長身で長髪。顔のホリは深く目がぎょろついている。眉毛もヒゲもない代わりにその顔面には無数のピアスが刺さっていた。


「イシザキのヤロウ、テキトーにメンテしやがって。一回イワしてやんねーとダメだな。」


どうやら彼は、イシザキという人物に対し憤りを感じてるようだ。


それにしても面白い夢だ。全く知らない人物が出てくるなんて。私は面白ついでに話しかけてみることにした。


「あのーすみません。今何時ですか?」


当たり障りのない、世間話をするつもりだった。」


「あん?ああ。今は一回目の十一時ですよ。」


「一回目?」


どういうことだろう。


何回か、十一時があるのだろうか。


「ああ。そっか。おたく旧世代の人だったね、えーっとなんだっけ。午前、そう午前十一時だ。」


「旧世代?」


男の言っている事があまり理解できなかった。


「午前とか午後って言ってたんでしょ昔は。まあその方がジョウチョがあっていいよね。俺もそっちのがスキ。」


「今は違うんですか?」


男と私の会話が噛み合っていない。


私は、これが夢だということも忘れて真剣に考え出していた。


「いやだってさ。今の時代、昼だの夜だの言ってもワカンないでしょ。この空だもん。」


「え?」


そう言うと男は私の座っているベッドのカーテンを大きく開けた。今まで半透明だった世界が突然視界に入り込んできた。


「これじゃあねえ。」


「あああ。」


目を疑った。


私がいた所は非常に大きな部屋で、それこそショッピングモールのフロアと同じくらいの広さだろう。部屋には灯りの類は一切なく、しかしその部屋の全貌は確認できる。何故ならその部屋の外壁は全てがガラス張りになっており、外からの多彩な色のネオンの光りが全体を照らし出していた。


信じられなかったのは男の言葉である。


午前十一時?ウソだろう。だってガラス越しに見える空はあまりにも暗く、まるで真夜中のそれだったからだ。


「こんなことって・・・」


私はショックでその場にヨタヨタと崩れ落ち床に手をついた。その衝撃で後頭部に繋がっていた管がブチブチと音をたてて抜ける。鈍い痛みが後頭部に走る。


例え夢でも、これはあんまりだ。


これはきっと悪夢に違いない。


私は、だらしなく開いた口を閉じることさえ出来なかった。


「あれぇ。まさかとは思うんだけどさ。」


男が訝しげな態度になっている。


「お客さん、今が西暦何年だか解ってる?」


男の質問の意図が解らない。


「いま?今は2015年だろう?」


そう言った途端、男は頭を抱えて吹き出した。


「あっちゃー。マジかよ。なるほど。わかった、わかった。」


男はそう言って、そそくさと何処かに行ってしまった。全く、自分だけ合点がいったらそれでいいのか。何の説明もしないのか。


しかしどちらにしても、もう良い。もう沢山だ。こんな二流のSF映画みたいな夢はこりごりだ。早く家族の待つ現実に戻りたい。


早く息子のムクれた顔に出会いたい。


そう思った刹那、私はおかしな事に気がついた。


おかしい。絶対におかしい。これが夢の中だからだろうか。こんな事があるものか。


私は、最愛の息子の顔が思い出せなくなっていた。


大丈夫、きっと夢だからだ。


ともかくさっき居たの最初のベッドに戻ろう。そうして横になればまた現実に戻れる筈だ。なぜだかそう思った。


ヨタヨタとベッドに戻ると、さっきの男がどこからか戻ってきた。


「あーよかったよかった。まだ頭ボヤッとしてます?」


なぜだか男はニヤついてる。少し腹が立った。


「ええ。まあ。ですがもう放っておいて下さい。少し横になりますので。」


「ああそうすか。まあその前にコレ、一服やんなよ。」


そう言って男は火のついたタバコのようなものを差し出してきた。


「イヤ、タバコは吸わないんだ。遠慮するよ。」


「はは。タバコじゃないさ。もっと良いモン。コレで幾らか気分が晴れるから。」


騙されたと思って、という言葉に不思議と促されてしまった。現実世界では嫌悪していたタバコ(?)だったが、不思議と嫌な気分にならなかった。ツーっと少しだけ吸い込む。


「ブフッッ!ゲホッゲホッ・・・」


案の定、というか当たり前にむせてしまった。

しかしどうしてだろう。私はこの感じを知っている。


「どうだい?イイだろう?」


しばらくボンヤリしていたがそのウチ変化がおき始めた。


ただでさえボヤけた男のニヤけ顏が、グニャグニャと歪みだす。


「ああ。なんだか妙な感じだ。体がしびれてる。」


全身が慣れない正座をした後みたいになってる。


「そうそう。それでイイ。んじゃちょっと失礼。」


そう言って男は突然に、私の首に注射のようなもの突き刺した。


「なっ!あぁ・・あぁ・・」


瞬間のことで驚いたが、すでに何かを注入されてしまった後だった。


「どうだい?ブっ飛んでてもハッキリしてきたんじゃない?ホントのキオク。」


「えぁ?」


男のその言葉をきっかけに、私の頭にどこからともなく記憶が洪水の様に流れてきた。いや、正確に言うなればコレらは元々私の中にあったモノに違いない。しかしそれを私はずっと塞き止めていたのだ。


何故かって?


思い出したくもない事ばかりだから。ただそれだけのことさ。


「で?どんな感じお客さん?もう説明とか要らない?」


「ああ。大丈夫だ。迷惑かけたな。」


そうしてオレは深いため息をついた。


「じゃあ一応キマリだから聞くけど、アンタの職業は?」


「工場勤務。中堅企業のサラリーマンじゃない。」


「家族は?」


「いない。二年前にお袋が死んでから独りだ。」


「息子は?」


「いない。」


「娘は?」


「いねえよ。おい!もう十分だろ?」


「女房は?」


「・・・いねえよ。勘弁してくれ。」


さっき吸ったヤツのせいで幾らか感情的になっているみたいだった。


理解はできた。だが信じたくなかった。最愛の家族が、全て空虚だったなんて。あれらの全てが偽物だったなんて。


「アンタは先月、仕事場の工場で怪我して働けなくなった。」


覚えてる。確か事故だった。右目と右耳がイカれた。


「おかげで仕事はもうできないが、その保険が昨日おりた。」


記憶はもうほとんど戻っているが男の好きな様に喋らせた。


オレにはもう、語る気力も失くなっていた。


「で、その金で早速ウチにヤクをやりにきた。そうだろ。」


「ああ。」


現在、発達した技術のお陰でドラッグも電子化した。


「この世で最高最悪の電子ドラック。」


直接脳に働きかけ、仮想現実の中で完璧な記憶の捏造をおこなう。


「それがコレ『望郷<nostalgia>』だ。」


男が先ほどのDVDプレイヤー大の機械を片手で持って眺める。


<nostalgia>通称ノスは自分が思い描いた人生を完璧に再現し体験させてくれる。仮想現実の中で、使用者にどんなドラッグよりも甘い夢を見せてくれる。


「まさに現実逃避のヤクとしては理想的なモノだよコイツは。」


だがノスには欠点、というかある意味で厄介なことがある。


「ノスは完璧すぎるのさ。だからぶっ飛んでる間に境目がわからなくなっちまう。」


脳に直接働きかける電子ドラッグは体への負担が少ない分、精神へのダメージは大きい。


<nostalgia>はそれの最たるものだ。


「一応その防護策として色々とアッチ側でサインは出てるはずなんだけどさ。」


例えば名前。ノスの登場人物には名前がない。最愛の家族のはずなのに、私は彼らを名前で呼ばない。


「特定の象徴がこれでもかってくらい出しゃばってくるのもあったでしょ?」


アレもそうか。たしかピンクのゾウだったか。やたら無意味に不自然に介入してきていた。


「それでも現実を忘れちまう。すごいよねこのノスってやつはさ。」


ゆえに完璧と呼ばれる。


電子ドラッグに限らず最高の呼び名は即ち、最悪の依存度をあらわす。ノスによる死亡者は年間のべ三千人になっている。


「さて、お客さんも無事帰ってきたことださし。飛びが収まり次第とっとと帰ってくれよ。」


男は冷たくそう言い放つと、その場を立ち去ろうとした。


「あ、ああ。解っている。」


だいぶ頭も落ち着いてきた。だが反対に、心はどんどん落ち着きを失っていた。



冷静に考えて、今のオレの人生にどれほどの価値があるのだろうか。仕事も失い。家族もいない。



あの心を支えてくれていた息子や娘は全てプログラムだというじゃないか。聡明な息子。愛くるしい娘。



何よりも妻だ。愛しい妻。最愛の女性。ファミレスで良いと言ってくれたあのヒト。あの笑顔も、怒った顔も、ふとした時に見せる優しい母親の顔も。全てがデータに過ぎないというのか。


「オアアアアアア」


突然、自分の口が奇妙な叫び声とその直後に吐瀉物を吐き出した。涙と鼻水で私の顔はさぞ汚れていたに違いない。


「あーあ。なんだなんだおっさん。ガキじゃねんだからさ。」


先ほどの男がまた戻ってきていた。


「きったねえな。誰が掃除する思ってんだよ。」


男は舌打ちをしてタバコ(?)に火をつけた。


「すま・・・ない。すぐ ・・片づける。」


オレは思っていた。


この人生を続けるべきかと。こんな暗くて虚ろな人生が現実だなんて辛すぎる。



もしアレらが電子ドラッグの見せるまやかしだったとして。それがなんなのだ。家族がデータであったって。それがなんなのだ。あんなに幸せなら、例えそれが偽物だって。



オレは雑巾で床を拭きながら男に向き直る。


「なあおい、アンタ。」


そうして余力を振り絞り、やっとの事でその言葉を口にした。


「頼みがあるんだ。」




先ほどのベッドが陳列する部屋とは別の、いくらか明るい小部屋。長髪の男がモニターを見ながら缶ビールを啜っている。


そこへ、小太りのTシャツをきた別の男が入ってくる。


「こんちゃ~。修理に伺いましたあ。」


どうやら出入りの業者のらしいが、いささか馴れ馴れしい。


「てめえ、イシザキ。メンテしっかりやれよ。マジで顔面潰すぞ。」


「へへへ。すいやせん、なにせ古い型なんで。」


「言い訳すんじゃねえ。ボケが。」


そんなやりとりの後、イシザキと呼ばれる男は長髪の隣に座りテーブルにおいてあった缶ビールを開けた。プシュッと、音がなる。


「てめえ。勝手に飲んでんじゃねえよ。」


「へへへ。すいやせん。」


しかし長髪の男は口ほど怒ってはいないようだ。


「あれ?12番のオヤジ。また潜ったんですか?起きたばっかりじゃないんですか?」


イシザキがモニターを見て長髪に尋ねる。


二人の見つめるモニターには全部で十二に分割されたカメラ映像が映し出されている。それらすべてにはベッドで眠る『お客たち』の様子が映っている。


「<nostalgia>の残酷な禁断症状。なんだか知ってるか?」


長髪がイシザキに尋ね返す。


「向こうでの記憶を、主要な登場人物たちの顔以外全て覚えているという事。確かそうですよね。」


イシザキが得意げに答える。


「そうだ。ただ美しく、楽しかった事は覚えてるんだが、それゆえ顔が思い出せない事が歯がゆくて生きる辛さが余計に増していくのさ。脳ミソの奥に思い出が引っかかってすんでのところでいつも手が届かない。そんな事を繰り返してるウチに、使用者はどんどんノスにハマっていく。」


「なるほど。ワザと記憶の一番大事な部分にモヤをかけて、中毒性を煽ってるんですね。それで12番は再度、<nostalgia>を求めたってわけですね。」


「そういうことだ。」


長髪がビールをグイとあおる。


モニターの十二番にはベッドに横たわる安らな男の表情。


「で?今回は何をせしめたんです?あのおっさん、もう金なんかほとんど持ってないでしょう?」


いやらしい顔で、イシザキが言う。長髪は無表情だが口だけが少しゆがんで見える。


「このままノスの中で死なせてくれたら臓器だろうがなんだろうが全部好きにしていいとさ。」


「へええ、儲けましたなまた。いくらジジイとは言えまだまだ使い道はあるでしょう。」


「じゃなきゃ潜らせてねえよ。まあせめてもの花向けさ。」


「死ぬまで夢の中ですか。」


「本人の希望さ。まあ四日もすれば安楽死だ。最高だろうよ。」


そう言うと長髪とイシザキは高らかに、しかし下品に笑った。


「しかしそんなに居心地良いんですかね?仮想現実が。」


「安くしとくぜ。」


「遠慮します。俺ぁ電子よりも現実のブツが好きでさぁ。」


そう言ってどこからかとり出したタバコのようなものに火を点けた。


「俺もそうさ。だが世の中には現実が嫌いなやつが大勢いる。」


「まあ、確かに世の中はクソ溜めですからねえ。」


「みんな自分の人生がこんなはずじゃなかったと思ってる。本当の人生を仮想現実に求めてる。」


「そりゃコイツなら、努力なしでも最高の人生が手に入る。」


「あたかも努力したかのような記憶も捏造されるしな。」


「充実感も再現する。まさに完璧だ。すげえ。」


イシザキが大げさに驚いて見せる。


「知ってるか?ここで潜ってる連中の夢はけっして大それた冒険なんかじゃなくて、皆ごく平凡な人生を夢見るのさ。」


「ええ?どうしてです?せっかくなら大金持ちとかじゃねんですか?」


長髪が指先でモニターをコンコンと叩く。


「そういう奴もいるが稀さ。ほとんどはありきたりで平凡な人生をご所望なのさ。完璧で何もかも思い通りにいく人生ってのはリピーターが少ない。それよりも適度に苦難があったりする方がウケが良いんだ。」


「そんなもんですか。」


「そういうもんさ。」


ふーんとイシザキが鼻を鳴らす。


「だから『望郷<nostalgia>』ってわけですか。」


「さてね。俺はただの売人だからな。名前の由来までは知らねえよ。」


「なんだ。知らないで売ってるんですか。」


「知るかよ。」


「無責任だなあ。」


「ありきたりで詰まらない人生を求めて馬鹿どもがここへ来る。それだけ分かってりゃいいのさ。」


「ありきたりが幸せ、ねえ。」


「馬鹿だよなそれって。ありきたりで平凡で、適度に苦難がある人生なんて、まさに今生きている現実そのものじゃねえかって話だよ。コイツらは寿命と金と現実を捨てて、夢の中でもう一度現実を見てるのさ。」


「救いようの無い馬鹿ですね。」


「そういうこった。人間が考えることなんて、俺たちには解らねえ。」



しばらくモニターを見つめる二人。後には缶ビールから残り少ない炭酸の抜けていく音と、ブーンという電子音だけが残った。



ベッドの上には12人がそれぞれ幸せそうな顔で眠っている。今日も彼らはありきたりな人生を求めてこの阿片窟で、電子に創られた夢をみる。


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