アラツグ、怪物に触れる。
博物館・東展示ホールいっぱいに広がっていたグリフォン像の翼がゆっくりと折りたたまれていく。
ローランド、ハンス、メルセデス、アラツグ。
怪物の足元にいた人間たちは驚き、目を見開き、危険を感じて後ずさりを始めた。
……その時……
突然、エレアナ・スタリヤァーと名乗る少女が大声で叫んだ。
「やったーっ! やったーっ! 本当に動いた! グリフィーちゃんが動いた! グリフィーちゃんが動けた! やったーっ! やったーっ! やったーっ!」
少女は喜びにその場でぴょんぴょんと飛び跳ね、狂ったように踊り始めた。
「レ、レンカちゃん、あ、危ない! 踏み潰されるぞ! 像から離れろ!」
飛び跳ねる体を抑えようとエレアナの手を取ったアラツグに向かって少女が叫ぶ。
「大丈夫!」
「大丈夫って……」
「グリフィーちゃんは、そんな事しないの……私を……私と……私とアラツグさんを踏み潰すなんて事、絶対に、しないから」
「レンカちゃん、そりゃ一体、どういう……」
目の前に、エレアナの半泣き半笑いの顔があった。
その濡れた目が、アラツグを戸惑わせる。
少女は、濡れた視線をアラツグの顔からもう一度グリフォンに移した。
連られて、思わずアラツグも怪物の像を見上げた。
一時動きを止め、台座の上に静か立ち、アラツグたちを見下ろすグリフォンの像。翼を折りたたみピタリと胴体の脇に付けることで、獣としてのシルエットが際立ち、新種の四足歩行獣のように見える。
その金属製の瞳と視線が合った瞬間、アラツグも直感的した。
……この巨大な金属の怪物に危険はない、と。
何故か分からないが、それが分かった。
少女がアラツグの体にしがみつき、腹のあたりに顔を埋めて泣き出した。
「ずっと、探してたの……アラツグさんを……アラツグさんを探してたの……一所懸命、一所懸命、探してたの……」
「お……俺を?」
「うん……」
「探していた?」
「うん……」
怪物が再び動き出す。
アラツグに、先ほどのような警戒心は無い。グリフォンのゆっくりとした動きに『人々を驚かせないように』という配慮さえ今は感じ取ることが出来た。
怪物が両前足を台座から降ろし、膝を折り曲げ、台座を取り囲んでいた金属製の柵をひしゃげ潰しながら石版張りの床に寝そべる。
巨大な金属製の嘴を床に置き、いわゆる「伏せ」の格好になった。
百年の間、高所から人々を見下ろしていた巨大な鷲の頭が、今はアラツグと同じ高さにあった。
やっと感情が落ち着いたらしいエレアナが、涙を拭きながらアラツグに言った。
「ねえ……撫でてみて……」
「な……撫でる?」
「うん。近づいていって、頭でも嘴でも、何処でも良いから、撫でてみて」
「さ、さすがに……それは……ちょっと……いくら危害を加えないからって……何かの間違いで、あの、でっかい嘴でガブッとされないという保証は……」
「んもう! 意気地無し! 良いから早く!」
さっきまで嬉し泣きをしていたと思ったら、今度はアラツグの態度に軽く苛つき始めたエレアナが、アラツグの手を取って強引に怪物の頭へ歩き始めた。
危害を受けることは無いと分かっていても、いざ怪物の頭を間近で見て怖気づいたアラツグが、嫌々ながらの屁っぴり腰で少女に引かれて行く。
どちらが年上でどちらが年下か分からないような何とも情けない姿を晒しながら、ようやく手の届く距離まで近づいたアラツグに向かって、エレアナが「さあ!」と声を掛けた。
「さあ、早く手をだして……頭でも嘴でも良いから、撫でてあげて……愛情を持って! 優しく! さあ、早く!」
「いや、むしろ、エレアナちゃんこそ、俺にもっと愛情をもって優しく接してよ」
上手いこと言ったつもりが、エレアナにムキッ! と睨まれ、アラツグはその日はじめて「女に向かって上手いこと言い過ぎると、かえって睨まれる」という事を学習した。
そーっと、手を伸ばし、巨大な嘴の横を撫でてみる。
怪物の金属製の目蓋が細まる。
エレアナが「ふん、ふん」とグリフォンに向かって頷いたあと、アラツグに言った。
「あのー、もしかして、グリフィーちゃんの言っていること、聞こえてない? 今、『よろしくお願いします』的な事をアラツグさんに言ったんだけど……」
「え? 何? どういうこと? こいつ、しゃべれるの?」
「やっぱり、そうか……グリフィーちゃんの言葉が、アラツグさんには聞こえていないんだね……」
そしてまた、グリフォンに顔を向け「ふん、ふん……」と頷く。
「そっか……近くに居れば、アラツグさんの言葉をグリフィーちゃんは理解できるけど、グリフィーちゃんの言葉をアラツグさんが理解するには〈武器〉が必要なのね? その……『魔法通信機能』とやらを備えた〈武器〉が」
「武器? 短剣なら、俺いつも持ち歩いているけど……」
「そうじゃなくて……何か『特別な武器』の事みたい……」
「……『特別』って言われても……怪物と人間が分かり合うなんて、どだい無理な話なんじゃないかなぁ……レンカちゃんがグリフォンと喋っているのだって、実はレンカちゃんが勝手に妄想して一人芝居をしてるって可能性も……」
「ハイッ、そこの君! 簡単に諦めない! ついでに私の正気を疑わない!」
「はあ……ご、ごめん」
2、ローランド
「あいつら、怪物の頭の隣で、なにイチャついているんだ?」
アラツグとエレアナの様子を遠くで眺めながら、ローランドがゲンナリした顔で呟いた。ローランド、メルセデス、ハンス・ゾイレの三人は、少しでも危険度を下げようとホール中央の怪物から出来るだけ距離を取り、北側の壁に背中を貼り付け、怪物とアラツグたちの様子を見ていた。
いざという時に逃げ込めるよう、資料室の扉のすぐ傍に立つことも忘れなかった。
(……グリフォンが本当に暴れ出したら、何をしたところで気休めにもならんが……)
しかし、だからと言ってホールの扉を開けて外へ逃げ出すわけにはいかない。今のこの現状を、外の人間に知られる事だけは避けねばならない。
グリフォンが只の置き物ではなく、強大な攻撃能力を有した魔法兵器であることは、ブルーシールドの一族と、ブルーシールドに絶対忠誠を誓った極少数の部下だけの秘密だ。
絶対に、それ以外の人間に知られてはいけない。
ローランドは横目で婚約者の顔を盗み見た。
(メルセデス……我が未来の妻、だが……しかし……)
「確かに……あの少女、少しブラッドファングさんに対して馴れ馴れし過ぎますね……」
メルセデスが言った。
「何だか、少女のほうが、ブラッドファングさんに対して主導権を持っているみたい……」
「そ、そうか? あの年頃の子供は、皆あんな感じじゃないのか? むしろ俺には、アラツグの方が少女にじゃれついているように見えるが、な……あいつ、同世代の女の前に出ると緊張して満足に喋れないくせに、年下の子供とは直に仲良くなるんだよな……冗談抜きに、真性のロリコンじゃないだろうな?」
「まさか! そんな……き、きっと純粋で繊細な人なんですよ……だ、だから子供に好かれるのでしょう……と、思います」
「メルセデス……いくら俺の親友だからって、無理して良い方に解釈する必要は無いぞ……まあ、本当のところは、あいつが馬鹿だから、ってのが理由だな……ほら、子供って馬鹿が好きだろ?」
「親友、って言う割に、非道いことを言うんですね」
「むしろ親友だからこそ、だろ」
(……いずれにしろ、あの少女はしばらく放って置くしかない……)
ローランドは、怪物の隣でアラツグの手を取っている少女を鋭く睨みながら思案する。
(今、少女に何かして、さっき見たくアラツグに剣を抜かせるようでは本末転倒だ……それより……)
ローランドは、メルセデスの反対側に立つハンス・ゾイレの方へ振り返り「どう思う?」と尋ねた。
「グリフォンをあのままにして置く訳には行きません……」
アラツグ達から目を話すこと無く、ゾイレが答える。
「出来れば元の姿勢に戻したいところですが、それが叶わないのなら、この展示ホールは永久閉鎖し、周辺をコバルド剣士団の精鋭に昼夜問わず警備させ、誰も近づけないようにさせるしかないでしょう……その上で、財団の研究員の中から特に口の硬い者を選抜して調査に当たらせる……しかし、それでも」
「いつか情報は漏洩する……か?」
「はい」
「まあ、そうだろうな……特に最近、エルフ公使館の連中は鼻が効くようになったからな。長くは隠せまい……しかし、今はまだ、グリフォンが動いたという事実を知られたくない……ましてアラツグの事は絶対に知られる訳にはいかない……と、なると、ぜひともグリフォン様には何事も無かったかのように元の姿勢に戻って頂きたいのだが……」
ローランドは「フムン……」と言ったきり、しばらくの間、顎に指を当てて思案顔を作っていたが、やがて大きく溜め息を吐き、「我ながらバカバカしいアイディアだが……駄目元でやってみるか」と言った。




