スュンとオリーヴィア、機械式の馬車に乗り、人間の街へ向かう。
1、オリーヴィア
七日後の朝、人間の貴婦人風に仕立てた服を着て母屋の玄関を出ると、既に支度を終えたスュンが外に立っていた。
「おはようございます。オリーヴィアさま」
「おはよう」
オリーヴィアはスュンを見て微笑んだ。
上司より早く準備をして待つ……よろしい。
絶対の権威と権力を持つエルフ長老会を除くと、エルフ族には組織らしい組織がほとんどない。
長老会の命令には従わなければいけないが、それ以外の時間、二百年以上も続く人生の大部分の時間を、エルフ族は森の中で自由気ままに孤独に過ごす。
しかし、人間世界にあるエルフ公使館は別だ。人間並みに規律を重んじ、組織的に動く。
まして諜報ともなれば、組織としての整合性が全てに於いて優先される。時間の規律は基本中の基本。公使館のエルフなら誰でも理解している。
この七日の初歩訓練の間に、スュンにもそれは徹底させた。
それと、金属に触ったように見せかける「動作追尾魔法」の訓練。
もともと剣の修行で似たような原理の魔法を操っていたせいか、上達は速かった。
(どうにか、こうにか、使いものになるかも知れないな)
オリーヴィアはスュンを見て、もう一度、微笑んだ。
そのとき、馬小屋の扉が開くがらがらという音が敷地中に響き渡った。
見ると「御者」のペーターが中から馬車を引っぱり出しているところだった。
二百三十二番目の御者、ペーター。
銀色に輝く機械馬を引いて、玄関で待つエルフたちの所までやって来る。
人間の職人達が技術の粋を尽くして造り上げた機械馬と馬車の美しさに、スュンが見惚れている。
エルフ専用の、特注の馬車。
「どう? きれいでしょう?」
「は……はい」
「人間の、美しい物を創り出すその手先の器用さだけは、尊敬に値するわね。まあ、その分、エルフが払った金貨の枚数も半端ではないけれど」
関節ごとに細かく分割された純銀製の皮膚を持つ機械仕掛けの馬。
その機械馬とは対照的に、車体は光沢を帯びた黒に塗装されていた。
所々に使われてる金具類は全て純金製だ。
「荷物を、お持ちします」
ペーターが言って、オリーヴィアとスュンのスーツケースを取り上げ、それを馬車の荷物置き場に収納する。
スュンの引っ越し荷物は、既に別便で都市国家サミアのエルフ公使館に送ってある。
馬車の扉を開けて待つ御者の脇を通って、オリーヴィアが車の中に入った。
「どうしたの? スュン? 早く乗りなさい」
「あ……は、はい」
ぼーっと馬車を見ていたスュンが、あわてて乗り込んで来た。
二人が後部座席に収まったのを確認して、ペーターが扉を閉めた。そのあと彼自身も前の御者席に座る。
ゆっくりと、機械の馬が歩き出す。
「機械馬車は初めて?」
オリーヴィアがスュンに尋ねた。
「いえ……『潜冥蠍事件』のあと、エルフ公使館から森へ帰るときに使わせていただきました」
「ああ、そうだった。報告書に書いてあったわ。もう一人のエルフ……確か、ヴェルクゴン、だったかしら? その男と二人で潜冥蠍の死骸を確認したあと、取り急ぎサミアのエルフ公使館に飛び込んだ。そこで外交官たちに事態を報告し、公使館の馬車でクラスィーヴァヤの森まで送ってもらったのね」
「その通りです」
「なら、これと同じタイプの馬車に乗るのは二度目というわけだ」
「何度見ても、見惚れてしまいます」
森の中の道を走る馬車の速度が徐々に上がっていった。
「いい機会だから『機械馬車』というものについて、少し説明しておくわ」
「お願いします」
「見てのとおり機械といっても、全てが金属で出来ているわけではないのよ。大雑把に言うと、馬車は、金属製の車台の上に木製の車室を架装した構造になっている。車輪と車軸も金属製で、懸架装置を介して車台に接合される。車輪の外周部には、ある種の木から採取した樹液を薬で処理した、弾力のある黒い素材が嵌められていて、この車輪外周の黒い部品の中に封入された空気の弾力と、懸架装置に接続されたばね、それにドロドロとした粘度の高い油を封入した筒の力によって、路面からの衝撃をいなし、乗り心地をまろやかにする……ま、こんな御託はともかく、我々エルフにとって一番重要なのは『金属を触ってしまう危険性』がどの程度のものか、という事だけど……」
そう言ってオリーヴィアは、柔らかく鞣した革で丁寧に内張りされた車内を、見回した。
「見てのとおり車内に入ってしまえば、案外、金属の露出部分は多くは無いのよ。せいぜい、扉の取っ手と、座席の位置や角度を調節する梃子、革を留めている鋲くらいかしらね……もっとも、この馬車はその数少ない金属部品さえ純金製だけど……諜報活動中はエルフの特注馬車に乗れることの方が稀だから、人間が普段使っている一般的な馬車、その何処に金属が露出していて、何処に触れてはいけないか、簡単な構造くらいは頭に叩き込んでおいて」
「わかりました」
「よろしい」
「あ、あの、一つ質問があります」
「どうぞ」
「私も、馬車の運転術を学ばなければ、いけないのでしょうか?」
「いいえ。エルフが直接、馬車を動かすことは、ありません。そのために『御者』を『つくった』のだから」
「御者を……つくった? 人間の御者を? それは一体どういう意味ですか?」
2、ペーター
「スュンは『精神魔法』という言葉を知っている?」
オリーヴィアがスュンに尋ねた。
「名前だけは聞いたことがあります。相手の精神を乗っ取り自由自在に操る、長老会にだけ許された魔法だとか」
「そう。その危険性ゆえ、長老会メンバー以外のエルフが絶対に知ることのできない秘密の魔法……そうね……ひとつ、たとえ話をしてみましょうか」
「たとえ話、ですか?」
「ここに、一人の女……若い人間の女が居たとしましょう」
「人間の女、ですね」
「若く貧しい人間の女。身寄りのない、天涯孤独の女よ。職業は、売春婦でも何でもいいわ。女は妊娠している。父親がだれかも分からない」
この上司は、突然何を言い出すのかと、スュンは首を傾げた。
上司は話を続ける。
「女が、お腹の赤ん坊を堕胎しようと考えた矢先、誰かが、その赤ん坊を買い取ると言い出す。……誰かというのは……エルフに雇われた人間のこともあるし、エルフ自身が人間に化けて交渉することもある。……とにかく、妊娠している女、腹の子を堕胎しようとしている女の前に大金を積んで、思い止まらせる。もちろん、出産までの生活費その他の諸費用も補償してあげてね」
緑のエルフが前席に座る御者の後頭部に視線を移した。
「……で、月が満ちて無事生まれた赤ちゃんは、約束通り大金で母親から買い取られ、エルフ長老会の手元に届けられる。ここまでの一連の行動は、細心の注意をもって秘匿されるわ。場合によっては関係者の口を封じることもあるでしょう。彼らの命を奪う事も……ね」
スュンは、隣に座る年上のエルフの淡々とした話しぶりに、その内容に、徐々に背筋が冷やされていくのを感じた。
「こうして手に入れた人間の赤ん坊に対し、エルフの長老たちは、成人するまでの年月……たいていは十五年から二十年をかけて、洞窟の奥で育てながら、いくつかの技術を複合的に使って、その精神に『エルフに対する絶対服従』を刷り込んでいく……第一に、さっき言った『精神魔法』……第二に、幻覚作用のある薬草の投与……第三に、物心つく前からの、徹底的な『刷り込み教育』……そして早ければ十五年後には、人間の肉体に、エルフに都合の良いように『調整』された精神を宿した『生きた道具』が出来上がるという訳」
「い……『生きた道具』……」
「そうよ……その後『それ』は、人間社会へ送り返され、金で雇った人間の教育者の下で、暗殺術と社会に溶け込むための知識を植え付けられる。……私たちは、そうやってエルフのために『作り上げられた人間』のことを『御者』と呼んでいるわ。文字通り、彼らは御者として使いやすいという事と、あとは、まあ符牒ね。暗号のようなもの」
そこでオリーヴィアは、ペーターの後頭部からスュンに視線を戻した。
「ペーターは、エルフ長老会が作り上げた『二百三十二番目の御者』よ。人間社会でそんな呼び方をしたら変に思われるから、とりあえずペーターという名前を付けてあるけど」
スュンは、オリーヴィアの話に寒気を感じ、思わず自分の両肩を抱いた。全身から流れ出る冷たい汗を止めることが出来ない。
「私たちエルフは『内なる感情を克服せよ』と、幼いころから教えられて育つけれど」
オリーヴィアが最後に言った。
「それは裏を返せば、我々エルフの心の中に『感情』というものが確かに存在しているという証でしょう……でも、ペーターは違う……彼には本当に『感情』が無い。そのように作られている。まあ、外見は人間だけど、私たちエルフの命令をただ実行するだけの『お人形さん』ね。中身のない、からっぽの、お人形さん」
スュンは、御者席に座るペーターを見た。
そして、あの表情の全くない顔と、どろんと濁った瞳を思い出す。
「でも……でも、それでは、あまりに……」
「人間が可哀そう?」
オリーヴィアが横目でチラリとスュンを見た。
「スュン。よく聞きなさい。エルフ族の間諜として人間社会の中で生きると決めたのなら、彼らに対する同情心は捨てることね。これから、その人間の命を、いくつも、いくつも、奪うことになるのだから。我々エルフと人間は、しょせん別々の種族よ。その人間だって、他の種族、牛や豚や羊や鶏を食べるために育て、殺している……スュンは『馬』という生き物を知っている?」
「馬、ですか?」
「今この馬車を引いている機械式の馬のことじゃなくて、本物の、天然の馬。……魔法動力の機械馬が発明される前、人間はその天然の馬に馬車を引かせていたそうよ。背中を鞭で打ちながら。エルフにとっての人間は、人間にとっての馬と同じ。それくらいに考えておくことね」
スュンは座席の中で身を固くした。今だけは、自分の上司の言葉に、素直に頷くことが出来なかった。




