スュン、銅貨に触れ、指先に怪我を負う。
1、スュン
木箱に蓋をして、銀のカナヅチを使い、黄金の釘を打ち付ける。
蓋がしっかりと固定されているのを確認して、その上に手をかざした。
木の板に焼き鏝を押し付けたようなシュッという音がして、少しだけ煙が立ち昇り、同時に青紫色の文様が木箱の蓋に浮かび上がった。
真夜中、エルフたちが寝静まったあとに活動を始める精霊……小青霊への指示を表したものだ。
「これで最後か……」
クラスィーヴァヤの森の中にある、エルフ長老会が自分のために用意した家の中でスュンは独り呟いた。
森に住むエルフ達のほとんどは、長老会が人間の職人に造らせた小さな木造の平屋に住んでいる。
五日前、正式に長老会から通知があった。「オリーヴィアの部下として人間の都市国家サミアのエルフ公使館へ行け」と。
つまり長老会から支給されて今まで住んでいた家を引き払い、人間の街に住めという事だ。
衣類や身の回りの物を詰めた木箱に蓋をすると、スュンはその木箱を浮遊魔法で持ち上げた。そのままフワフワと胸の高さに浮かんでいる木箱とともに、木造平屋建ての小さな家を出る。
家の外、玄関のわきに同じような木箱が九個、三列三段に積んである。浮遊魔法を操って、十個目をその上に乗せた。
自分はエルフの中では物を持たない方だと思っていたが、それでも、あれこれ詰めると大きな木箱十個分になってしまった。
忘れ物が無いか、もう一度家の中へ入って確かめる。
がらんとした部屋にベッドと衣装戸棚その他、数点の備え付け家具があるだけだ。
(これから私は、住み慣れたエルフの森を離れて、人間の街で生活することになるのだ)
自分の胸の中に「さびしい」という感情と同時に、何処かわくわくする気持ちが湧き上がってくるのを自覚し、その感情を無意識に押さえ込んだ。
喜怒哀楽いかなる感情も社会にとって有害であり、心の中に湧き上がった気持ちは全て理性の力で抑え込んで生きなくてはいけない。
エルフ族は物心がついた頃から、感情を抑制する訓練を受けて成長する。
……だが……
(ほんとうに、それが正しい生き方なのだろうか……)
不思議な力によってヴェルクゴンと共に人間の町に飛ばされた「潜冥蠍事件」以降、心の中にポツリと一点染みのように付いてしまった疑いの気持ちを、スュンはどうしても拭い取る事が出来なかった。
人間の町で出会った、あの黒髪の少年剣士の姿が心に浮かぶ。
見ようによっては間抜けにも感じられる純朴そうな顔。その中で、森をうろつく狼にも似た鋭い輝きを放つ黒い瞳。
アラツグと名乗ったあの少年は今ごろ何をしているだろうか?
軽く頭を振って、スュンは少年に対する思いを無理やり消し去った。
生活の跡がほとんど無くなった小さな家を出て、扉を閉める。
ポケットから純金製の鍵を取り出して、やはり純金製のドアノブの下に差し込む。
人間の職人に特注させた純金の機械仕掛けが扉の内部で回転して、カチリッ、と、鍵の掛かる音がした。
当面の着替えや生活必需品を入れた小振りのスーツケースを右手に持った瞬間、後ろから声を掛けられた。
「スュン様……」
驚きに心臓が大きく跳ね上がる。
てっきり家の周辺には自分しか居ないと思っていた所に、不意打ちを食らった形だった。
エルフ族は、持って生まれた魔法の力と引き換えに、多くの動物に具わっている「野生の勘」が退化してしまっている。
知覚を魔法の力で強化すれば失われた本能を補うことは可能だが、用もないのに常に魔力を発動し続けるのは無駄な事だというエルフの常識があった。
だからスュンは、声を掛けられるまで家の近くに立つ何者かの存在に気づかなかった。
直ぐにスーツケースを手離し、腰に下げた銀製の短剣を抜きながら振り返る。
スュンが立っている家の玄関から二十レテム程向こうの森の中に、一人の男が立っていた。
人間の男だ……人間が、許可なくエルフの森に足を踏み入れる事は、禁じられているはずだが。
年齢は二十歳くらいに見える。
細身の長身、短い金髪。面長に薄い鷲鼻。
ぬるりとした白い皮膚は、どこか白子の蛙を思わせた。
そして、その不気味な瞳……まるで死んだ鹿のように生気が無く、どろんと濁っている。
「何者だ!」
いつでも斬撃の魔法を発動できるよう心の中で準備をしながら、スュンが大声で叫ぶ。
「二百三十二番目の御者……あるいは、ペーターと呼ばれています。オリーヴィア様の命により、お迎えに上がりました」
エルフ長老会からの異動命令と同時に届いた、オリーヴィアからの手紙を思い出す。そこには確かに、今日、人間の使いの者を迎えに寄こすと書いてあった……ペーターという名前も。
そのペーターと名乗った男が、ゆっくりと歩いてスュンの方へ近づいてくる。
「お荷物をお持ちします」
「……いや……」
一瞬、断ろうと思ったが、考え直す。
スーツケースの中は、着替えや身の回りの細々とした品ばかりだ。無いと困るが、重要と言えるほどの物は入っていない。
スーツケースを男に持たせることによって、相手の利き手を塞ぐことが出来る。
先に歩かせることで、何かあった場合は、自分の方が先手を打って男の背中を切りつけることも可能だ。
「……そうだな。では、鞄を持って貰おう。オリーヴィア様の所まで案内してくれ」
エルフにとって、魔法の使えない人間族は一段下等な存在だった。
スュンは、一族の中では比較的人間に理解のある方だったが、人間に対する差別意識が全く無い訳でもなかった。
目の前の男が、オリーヴィアに仕える下僕らしいと分かった時点で、無意識に言葉遣いがぞんざいになってしまう。その事にスュン自身気づいていない。
スーツケースをその場に置いたまま、三歩脇へ動く。
一つには、万が一の場合に備えて、この今ひとつ信じ切ることのできない男との間合いを取るため。
そして、もう一つの理由は……こちらの方が本当の理由といっても良い……理屈抜きで生理的嫌悪を催させるこの男に近づきたくないため。
スュンの内心を知ってか知らずか、相変わらずヌルリとした無表情を崩さぬまま、ペーターと名乗った男は、スュンの鞄を持って森の中の獣道を歩きだした。
「どうぞ、こちらへ」
スュンも数歩の間合いを取って男の後を歩いて行く。
2、オリーヴィア
森の中の獣道を二時間歩き続けて、やっと、スュンとペーターは開けた場所に出た。
東西百レテム南北百レテムほどの土地の木々が根こそぎ取り除かれ、遮る物の無くなった春の日差しが地面にさんさんと降り注いでいる。
土地の南側から(エルフの森にしては)幅広の道が伸びていた。
土を踏み固めただけの未舗装路だが、この道幅なら人間の作った機械馬車も通ることが出来そうだ。
正方形の土地は平らに均され、地面には隙間なく芝生が植えられていた。
その開けた土地に、木造の建物が数軒。納屋か馬車小屋のような建物もある。
二階建ては一軒だけで、あとは全て平屋だ。
他より少しだけ大きなその二階家の玄関先に、オリーヴィアが立っていた。
立ち姿が美しい……長身の緑のエルフが何気なく立っているという、唯それだけで絵になる。
「意外に早かったわね」
そう言って微笑むオリーヴィアのもとへスュンは小走りに走って行き、跪いて頭を垂れた。
「オリーヴィア様。この度は部下として私を採用して頂き、真にありがとうございます」
オリーヴィアが「勘弁してくれ」といった感じで、右の手首をひらひらさせた。
「立ち上がりなさい。人間の街へ行ったら、あなたには私の『付き人』をしてもらいますからね。これ以降、堅苦しい挨拶は無しという事で、お願いするわ。毎日毎日、顏を合わせるたびに跪いて大仰な挨拶をされても困るから。……さあ、中に入りなさい」
そこで、人間の男の方を見る。
「ペーター、スュンの荷物は『訓練小屋』に運んでおいて」
「かしこまりました」
人間の男が、スュンのスーツケースを持って小さな平屋の建物へ歩いて行く。
スュンは、オリーヴィアの後に追いて、母屋の中へ入った。
「ここはね、クラスィーヴァヤの森における私の住居兼事務所よ」
言いながら、廊下の扉の一つを開ける。
「この部屋が仕事場。さあ、入りなさい」
言われるまま、部屋の中へ入る。
南に面した窓際に書き物机が一つ。
西側に書類棚。東側の棚には、食器や、その他の細々したものが並んでいた。
オリーヴィアが事務机の向こう側に回り込んで椅子に座る。
机を挟んで、オリーヴィアとスュンは相対する格好になった。
オリーヴィアは椅子に座り、スュンは立っている。
「早速だけど、ひとつテストをさせてもらうわ」
「テスト……ですか?」
「そう。テスト」
言いながら、オリーヴィアは木製の机の引き出しを開け、何かを手の中に握ってスュンに差し出した。
机の上、スュンの目の前で、握った手をゆっくりと開く。
「こ……これは!」
オリーヴィアが握っていたのは、硬貨だった。
人間たちが使う、ありふれた硬貨。
しかし、エルフたちには触ることのできない物。
それは、銅貨だった。
エルフ族は、体質的に金・銀・プラチナ以外の金属に触れることが出来ない。
それなのに、オリーヴィアは確かに銅貨を握ってた。
今も、その卑金属製の硬貨は彼女の手のひらに載っている。
「この銅貨を、手に取って見なさい。スュン」
「こ、これを、手に取るのですか?」
「そうよ……触るのが怖い? でも私は、こうして手の上に載せているわよ?」
スュンの額に汗が浮かぶ。
恐る恐る、右手を伸ばす。
「どうしたの? 早くしなさい」
オリーヴィアが急かす。
スュンは、ええい、どうにでもなれ、という気持ちで、思い切ってオリーヴィアの手のひらから硬貨をつまみ上げた。
「……えっ?」
何事も無かった。
たしかに今、自分は銅で出来た硬貨を右手の親指と人差し指のあいだに挟んでいる。
「どう? 何とも無いでしょう?」
「……はい……しかし、これは一体どういう……」
「部屋の入口まで下がって見なさい。私から離れて。タネが分かるわ」
訳も分からず、言われる通り、スュンは部屋の入口まで行って、オリーヴィアから出来るだけ距離を取った。
「もう一度、手に持った硬貨を見てみなさい」
自分の指先に視線を落とす。
硬貨があった……黄金色に輝く硬貨が。
「錬金術じゃあるまいし、銅貨が、いきなり金貨に変わった訳ではないのよ」
オリーヴィアが微笑んだ。
「それは、最初から金貨だったの。……スュンの見えない所で……机の引き出しから手の中に握った時点で、私が『擬態の魔法』を使ったって訳。金貨を銅貨に見せかける魔法を、ね。……それが、私の体から一定の距離を置いたために、魔法の効力を失って元の『金貨』にもどった、というのがタネあかし」
「な……なるほど……」
「分かった? 分かったら、その金貨を返してちょうだい」
言われるまま、スュンは再びオリーヴィアの机に近づいて手に持った金貨を彼女に返した。
オリーヴィアは、机の引き出しを開けて硬貨を仕舞うと、再び手を握ってスュンの前に突き出した。
さっきと同じように、手のひらを上に向けて開く。
さっきと同じように、手の上には、銅貨があった。いや「銅貨のように見える何か」が載っていた。同じ硬貨か……それとも、机の引き出しの中で別の硬貨を掴んだのか……
「もう一度、この銅貨を取り上げてみなさい」
今度は素直に、オリーヴィアの手から硬貨をつまみ上げる。
その瞬間、つまんだ右手の親指と人差し指に刺すような痛みが走り、「あっ」と叫びながらスュンは硬貨を机の上に放り出した。
硬貨は机の上でしばらくクルクルと回り、最後にパタンと倒れて動かなくなった。
右手を見る。
硬貨に触れた親指と人差し指の腹が、指先から指の中ほどにかけて赤く腫れ上がり、ズキズキと痛む。
エルフ特有の、卑金属に対する拒否反応が出てしまっていた。
銅に触れたのが指先の極く一部だったからこの程度で済んだが、手のひら全体で握っていたら、もっと酷い事になっていただろう。
スュンは、オリーヴィアを見返した。
なぜオリーヴィアは、大丈夫なのか?
手のひらにしっかり握っていたように見えたのに?
「ちょっとイジワルが過ぎたかな? ごめんなさいね。あとでペーターに膏薬を塗ってもらうと良いわ。騙した私が言うのもあれだけど、ちゃんと手当しないと長引くわよ。今日中に膏薬を塗れば、明日には腫れは引くでしょう」
「な……なぜ……」
「不思議なのね……? 二枚目の銅貨は、本物だった……正真正銘、本当に、銅製だった。それなのに、なぜ、それを握った私は無事で、スュンの指は腫れあがってしまったのか……と」
「は……はい」
そこでオリーヴィアは視線を上から下へ動かして、スュンの体全体を見た。
「話は変わるけど、スュン、あなた、剣女にしては小柄ね。腕も細いし」
「……」
「私も人間社会で活動するようになって結構な年数が経っているからね。剣を振るう人間の女たちにも、何人も会って来たわ。彼女らは例外なく、大柄で腕も太かった……そりゃそうでしょう。重い剣を振るうのが仕事なんだから。ところが、スュンは、小柄で細身……」
「はい」
「つまり、動作追尾の魔法を使っている、と」
「……はい。その通りです」
「浮遊魔法の応用ね? 手に握った銀剣に予め浮遊魔法を作用させ、その重さを中和したうえで、体の動きに合わせて『魔法の力で』剣を動かす。……それによって、肉体に対する負荷を最小限に抑えながら、重い剣を高速で走らせることが出来る。だから、筋力はほとんど必要ない」
「はい」
「……私が、今、スュンに見せたのも、それよ。スュンが剣を振るときに使う『動作追尾』の魔法を、私は硬貨に対して使ったわけ」
言いながら、オリーヴィアは机の上の銅貨を摘んだ。
「今、私は、指の力を使って銅貨を持ち上げたように見えたでしょ?」
スュンが頷く。
「ところが……」
オリーヴィアは、スュンの目の前に摘み上げた銅貨からゆっくりと指を離した。
「え?」
スュンが驚きの声を上げる。
オリーヴィアの手を離れた銅貨は、机の上に落ちることなく、そのままの角度で空中に浮遊していた。
「指で摘まんだのは見せかけよ。実際には、ごく僅かな……紙一枚分ほどの……隙間を硬貨と指の間に空けている。だから、金属拒否反応で指がかぶれる心配もない。その指の動きに合わせて、浮遊魔法で、さも『指で摘んでいる』かのように銅貨を動かしたというのが、今日、二度目のタネあかし」
「す……すごい……」
「まあね……スュンの剣術も、わたしの手品も、体の動きと浮遊魔法を同期させるという意味では同じだけど、手品のほうが、段違いの精密さを要求されるわね。指の動きも、浮遊魔法にも。指と硬貨のあいだに隙間が空きすぎていたり、指の動きと硬貨の動きにずれが生じていたら、魔法を使っていると気付かれてしまう」
言いながら、オリーヴィアは手のひらの上、数セ・レテムの高さに銅貨を浮遊させ、それを独楽のように高速で回転させて見せた。
「だからバレないように指と硬貨を出来るだけ接近させなければいけない。……でも本当に触れてしまったら、私たちエルフの宿命として皮膚が炎症を起こしてしまう」
そして、回転する銅貨を左手でパッと掴んだ……いや、掴むふりをした。
「この手品のコツは、指と硬貨が触れるか触れないか、そのギリギリの状態で、紙一枚分の隙間を空けて、その両方を制御することよ。まあ、『言うは易し』だけど。……さて」
オリーヴィアが椅子から立ち上がる。
「その指の炎症、ペーターに手当してもらいなさい。あの男、見るからに生理的嫌悪を催させるタイプだから、触られたくないっていうのは分かるけど、我慢することね。……大丈夫よ、安心しなさい。……彼、われわれエルフの言う事には絶対服従だから。エルフに危害を加えたり、まして『人間の男』として『変な気持ち』を起こすことは、絶対に有り得ないから」
「わ……わかりました」
「それが済んだら、この母屋の東にある建物……『訓練小屋』の前に来てちょうだい」
「はい」




