スュン、湖畔で瞑想し、ヴェルクゴン、アラツグに嫉妬す。
1、スュン
春。クラスィーヴァヤの森。
昼間は暖かな木漏れ日の差すこの時期でも、太陽が山の向こうに沈んでしまえば、森の気温は一気に下がる。
昼夜の温度差が空気中の水分を飽和させ、真夜中十二時を過ぎた頃、湖から溢れ出た濃密な霧が、木々の間を流れ始める。
夜明け前。
濃い霧の向こうに、ポッ、と青白い光が灯った。
ゆらゆらと鬼火のように浮かぶ光に照らされて、人の像が現れる。
全身を覆う黒いマント。
その輪郭は、案外、小柄で華奢だ。
目深に被ったフードから覗くのは、滑らかな曲線を描く褐色の頬。リズミカルに白い息を吐き続けるプックリとした唇。
顔のほとんどをフードで覆っていても、その像の主が、端正な顔立ちの美少女だと分かる。
先導する鬼火に照らされた獣道を踏みしめ、美少女はゆっくりと歩いた。
やがて少女は、大きな湖の岸辺に出た。
森の奥の湖。
褐色の肌の美少女は、岸に沿って右回りに歩きはじめる。
しばらく歩くと、霧の中から、岬のように湖に突き出た巨大な岩が現れた。
土を掘って石を並べただけの粗末な階段を昇って、岩の上に出る。
巨岩の天辺は平らな広場のようになっていて、その先端に東屋のようなものがあった。
丸い天蓋、それを支える円柱、土台……全てが大理石だ。
椅子やテーブルの類は設置されていない。
円盤状の、平らに磨かれた大理石の床があるだけだった。
東屋の中央に立ち、フードを外る。
ウェーヴの掛かった長い黒髪と、濡らした黒曜石のような、大きくて美しい瞳が現れる。
濃い霧の中、体を湖に向けたスュンは、防水加工を施した黒染めの鹿革マントの合わせ目から両手を出し、指を複雑に絡めて印を結んだ。
背筋を伸ばし、瞳を閉じる。
……半時間……一時間……スュンは動かない。
濃霧に満たされた静かな森の闇から、澄んだ霊気がスュンの体に染み込んでいく。
朝が来て太陽が昇り、光が森を満たす。
それでも、まだスュンは動かない。
少しずつ気温が上昇するにしたがって、霧が徐々に薄れだした。
やがて霧が完全に晴れ、スュンの前に、大きく美しい湖が現れる。
対岸の木々が鏡のような湖面に逆さまに映っている。
それでも、スュンは目を閉じたまま、東屋の中央で印を結び続けた。
2、ヴェルクゴン
「スュン……やはり、ここに居たのか……」
男の声に、初めてスュンは目を開けた。
振り返ると、ダーク・エルフの男が立っていた。
細身で背は高い。
やや面長の顔。短く刈って逆三角形に切り揃えた顎鬚。
まず、美男子と言って良い。
見た目は二十代半ばだが、実年齢は百歳を超えている。
ヴェルクゴンだった。
「あらためて見ると、少し痩せたようだな……どこか、具合でも悪いのか?」
ヴェルクゴンが少女に尋ねた。
僅かに眉を寄せた表情から、ヴェルクゴンが、本心からスュンを心配していると分かる。
「い、いや……大丈夫……心配は要らない」
目を伏せて、小さな声でスュンが答える。
「そうか? 何でもないのに、この場所で瞑想していたのか?」
湖に突き出た岩の上……この場所は、クラスィーヴァヤの森に住むエルフ達が、森の霊気を体内に取り込むための「特異点」の一つだった。
なんらかの理由で心身に変調をきたしたエルフは、ここを訪れ、森の霊気を吸収することで健康を取り戻す。
ヴェルクゴンが大きく一つ、溜め息を吐いた。
「……まあ、いい。今日は、な……挨拶をしようと思ってスュンを探していたのだ」
スュンが伏せていた顔を上げた。ヴェルクゴンを見る。
「昨日の夜、長老会から『お達し』が有ったよ。私とスュンの『家族関係』を解消する、と」
「……そうか……実は、私も昨日、長老会から連絡を受けた。瞑想が終わったら、ヴェルクゴンの所に挨拶に行こうと思っていたのだ」
「まあ、エリクが、ああいう事になってしまったのだからな。当然といえば、当然の事だが……」
「ヴェルクゴン……今まで、ありがとう……若輩者の私を、何かと指導してくれて……」
スュンが左手を胸の前に挙げ、指を揃えて手の甲をヴェルクゴンに見せた。
ヴェルクゴンも同じしぐさをする。
「それは、お互いさまだ。スュン……短い間だったが、ありがとう」
エルフ流の挨拶だった。
人間で言えば握手に相当する。
「スュン……」
挙げていた手を下ろして、ヴェルクゴンが言った。
「これから……いっしょに朝食を……どうだ? 二人の今後について……実は、言いたいこともあるのだが……」
なぜか目を逸らしてヴェルクゴンが言う。
「……」
しばらく考えてから、スュンが答える。
「いや……今日は、やめておこう。これからしなければいけない事もあるし。それに……『二人の今後』? ……それは、一体、どういう意味だ?」
エルフ族にとって、全ての感情は有害で克服すべきものであった。
喜び、怒り、哀しみ……そして、友情や、男女間の愛情、家族愛……
エルフ同士のつながりは、社会に奉仕するためだけに存在し、全て長老会によってコントロールされている。
どんなに長いあいだ同じ目的を共有した仲間であろうと、長老会が解散を言い渡したその翌日からは赤の他人として接するのが、正しいエルフの有り方だった。
だから、長老からヴェルクゴンとスュンの「家族解消」が言い渡された今、「二人の今後」などという話は、まったく有りえない。そのはずだ。
……そのはずだったのだが……
目を逸らしたヴェルクゴンの顔が、苦悩に歪む。
しばらく唇を噛み締めたあと、再びヴェルクゴンがスュンに視線を戻した。
その瞳に、尋常ではない光が燃えているのを感じて、思わずスュンが後ずさる。
「スュン……今から私達二人で、この森を出て、どこか長老会の力の及ばぬ場所で一緒に、永遠に生きよう……『二人の今後』とは、そういう事だ。長老たちの都合で押し付けられ、用が済んだら別れさせられるような、仮初の『家族』としてではなく……」
「ヴェルクゴン……な……何を言っている? 長老会に逆らう? しょ、正気の沙汰とは思えないぞ……」
スュンの言葉を聞いて、ヴェルクゴンは怒りを押し殺すように目を閉じ、大きく一つ息を吐いた。
そして、再び目を開け、スュンを睨む。
「長老どもが集まる、ライヒスタークの洞窟……そのまえに、三体の女神像があるのは知っているな?」
「な、何を今さら……ウルズ、ヴェルザンディ、スクルド……過去、現在、未来を司る運命の神々であろう?」
「では、なぜ女神たちは、あのような場所に安置されているのだ?」
「……」
「それは、美しいからだ。いや、大昔の長老たちが、人間の職人をわざわざ魔法石で雇って『美しい女神像』を作らせたからだ」
「ヴェルクゴン……?」
「あらゆる感情の発露を長老会によって禁止されている我々エルフ族。……しかし唯一『美しいものを美しいものとして愛でる心』だけは、許されている……」
「そ、それは、問題なかろう。美しいと感じる心に社会的な害は無い。だからこそエルフは皆、人間の作った美しい品々を身の回りに置くのではないか?」
「ならば、私がスュンと……この世界で最も美しいと思った女性と永遠に一緒に居たい、自分の傍に居て欲しいと願ったとしても矛盾は無いはずではないか?」
「ヴェルクゴン、私は石で出来た彫像ではないぞ。それに、今のヴェルクゴンが感じているのは『美しい』などという感情ではない。なにか……もっと…卑しくて、浅ましい心だ」
スュンに言われて、彼女を睨むヴェルクゴンの瞳が一段と激しく燃えた。
「そういうスュンは、どうなのだ? 私の目は節穴ではないぞ? あの頭の悪そうな人間の男に、獣のような欲望を感じていたのではないのか?」
スュンが、ハッ、と大きく目を見開いた。
「な、何を馬鹿な……ぶ、無礼にも程があるぞ! ヴェルクゴン!」
言いながら、スュンの目に差したのは、怒りよりもむしろ戸惑いの光だ。
「ふん……まあ良い。スュンの感情が、どうであれ……あの人間の男のほうが、スュンに対して卑猥な欲望を叫んだのは事実だ。しかも、公衆の面前で!
誇り高き種族に対するその無礼な振る舞いだけでも、あの男は万死に値するよ。私がこの手で成敗して来てやろう。スュン、貴様に代わってな」
言い捨てて、突然ヴェルクゴンは後ろを振り返り、その場から立ち去ろうとする。
「ま、待て! アラツグに……アラツグ・ブラッドファングに指一本でも触れてみろ! ただでは済まさんぞ! ヴェルクゴン!」
スュンが、ヴェルクゴンの帰り道を塞ぐ位置に回り込み、マントの下から銀剣を抜いて男の喉元に突き付ける。
剣を突き付けられながらも、ヴェルクゴンが怯むことは無かった。
むしろ、スュンを馬鹿にしたような笑いを顔に貼り付かせている。
「ほう……? 試しに鎌をかけてみたが……まさか、こうも簡単に引っかかるとは、笑わせてくれる。……やはり、人間の男にうつつを抜かして呆けてしまったようだな? スュンよ。……そうか……あの男はアラツグ・ブラッドファングというのか……憶えておくぞ、スュン。名を知らなければ、探しようも無かったものを。わざわざ、そちらから教えてくれるとは。……だが……安心しろ」
言いながら、ヴェルクゴンは喉元に突き付けられた銀剣の切っ先を右手で摘んで、優しく避けた。
「今は、何もしないよ。……今は……な。……それから……私は……スュンを思う自分の気持ちを諦めはしないぞ。卑しいといわれようが、この体内に点ってしまった炎は、もはや誰にも消せぬ。しかし……今日のところは、これくらいにして置こう」
次の瞬間、ヴェルクゴンの顔が、どうにもならない苦しみで歪んだ。
「なぁ……スュンよ。我々エルフは皆『感情は理性を狂わせ、エルフを間違った道へ誘う』と幼い頃から叩き込まれてきた。『だから、感情を殺し、自分の体内から消し去ることこそが、一族が永久に幸福に生き続ける唯一の道』なのだと。……しかし、結局、我々がしていたのは、ただ『自分の感情に蓋をしていた』だけだったのだな。スュンと出会ってしまって、それを実感したよ。私にも、もうどうにもならんのだ。この自分の感情というものが。卑しいと言われようが、汚いと言われようが、社会の掟に反しようが、幸福だろうが、不幸だろうが……もはや自分の思いに蓋をすることも、まして消し去ることなど絶対に出来ぬ。この命が有るかぎりは……な」
そして、二度とスュンと目を合わすことなく、湖岸への階段を降り、視界から消えた。
スュンは、何も出来ずに、ただ、その場所に立ち尽くすしかなかった。