メルセデス、ローランドを見つめる。
1、メルセデス・フリューリンク
「今日は暖かいな」
ローランド・ブルーシールドが呟いた。
ソファに座って本を読んでいたメルセデス・フリューリンクが、その声に顔を上げる。
ローランドの私邸、その客間の窓際に立って、彼は良く手入れされた自分の庭を眺めていた。
「朝は、それなりに肌寒かったけれど……お昼辺りから、ずいぶん暖かくなりましたね」
メルセデスが相槌を打つ。
水時計を見ると、午後二時を過ぎていた。
今朝、デモンズで摂った朝食が遅かった流れで、昼食も遅れ気味だった。
ついさっき食べ終え、この客間に移ったところだ。
「春というより……これでは、まるで初夏だな」
客間の窓は全て開放されていた。
庭から入ってくる微風が、ローランドの金髪を撫でている。
見れば見るほど、美しい少年だとメルセデスは思った。
自分は、何故、これほどまでにこの少年を美しいと感じるのか?
メルセデスは時々、不思議に思う。
ただ顔かたちが整っているというだけなら、メルセデスが身を置く「上流社会」とやらには、美男自慢の金持ちの子弟が幾らでも居る。
彼らは揃って髪型に気を使い、値の張る生地をふんだんに用いて服を仕立て、毎日それを取っ替え引っ換えして着ている。
目の前に立っているこの少年も、その事だけを取り上げれば彼らと何ら変わりない。
最高級の服に、最高級の靴。よく手入れされた髪。
身だしなみに一分の隙も無い。
しかしローランドには、それだけでは説明できない「何か」が有る。メルセデスは、そう思っていた。
金持ち同士が互いにじゃれ合っているような社交界、そこから一度も出たことが無いようなぼんぼんからは絶対に感じられないような「何か」が。
それは十歳で家族と離れ、六年ものあいだ剣術の師匠のもとで厳しい修行に耐えた経験だろうか?
そうかもしれない。
上背があるので相対的に細身に見えるが、上等な服の下に、引き締まった筋肉の束が隠れている事をメルセデスは知っている。
想像を絶する修行の日々が作り上げた肉体から放たれる匂い、それが、これほどまでにメルセデスを惹きつけるのか。
……いや……それだけではない、とメルセデスは思い直す。
「精神的」な何か、だ。
意思の力……とでも言えば良いか?
いや、むしろ「決意」か。
彼が決して表に出そうとしない「決意」……それが一体どのような物なのかは、メルセデスには分からない。しかし、確かに存在する。それだけは分かる。
自分は、彼の「決意」に惹かれているのだな、とメルセデスは、ローランド・ブルーシールドの横顔を見ながら思った。
今、窓の外を眺めているローランドの青い瞳には、苦渋のようなものが浮かんでいる。
「アラツグのやつ……」
ローランドが……おそらくは無意識に……呟いた。
「いつまでも、ちんたらしてんじゃねぇぞ……」
言って、その自分の言葉を飲み下すように、手に持ったハーブ茶のカップを呷る。
メルセデスは、膝の上に載せていた山羊皮の大型本を閉じてテーブルに置くと、立ち上がってローランドの傍に寄り添った。
「ブラッドファングさんの事が気になるのね?」
言われて、ローランドが、はっとメルセデスを振りかえる。
「え? ああ……俺、何か言っていたか? 済まんな。婚約者といっしょだってのに、別のこと考えてたりして……」
「そんな日もあるでしょう……人間だもの」
ローランドといっしょに、窓の外を見る。
手入れの行き届いた、美しい庭だ。
都市国家サミアの北西部に位置する高級住宅地。
サミアの富裕層が挙って門を構えるこの地区にあって、ローランド・ブルーシールドの私邸は、その中では狭いほうだ。
しかし、それでも屋敷を維持管理するために、炊事・洗濯・掃除あわせて十人の使用人が雇われている。さらに、専属の庭師が一人、魔法機械馬車の整備士が一人。
異様なのは、屋敷を警備する屈強な男たちの数だ。
いつだったか、ローランドがメルセデスに漏らした話では、交代要員も含めて全部で二十一人も居るらしい。
この数は、近くに住む大富豪たちの中でも飛びぬけている。異常と言ってもいい。
「親父が勝手に送ってよこしたのさ。俺が雇った訳じゃねぇよ」
ローランド・ブルーシールドは言ったものだった。
「ま、良くある親のありがた迷惑ってやつだな」
複数の都市国家に支店を持つ大両替商ブルーシールド家の御子息ともなれば、常に潜在的な身の危険に晒されているというのは、ありうる話だ。
だから、親は心配して、遠く離れた都市国家に暮らす我が子を過剰なまでに保護しようとする……一応、理屈は通っている。
しかし本当に、それだけだろうか?
それと、もう一人……ローランドの個人秘書。
コンッ、コンッ。
誰かが客間のドアをノックした。
「ああ、入っていいぞ」
振り返って、ローランドが言う。
ドアを開けて入ってきたのは、その個人秘書、ハンス・ゾイレだった。
ローランドと同じくらいの長身。
面長。禿げ上がった額。
薄い鼻に、削げた頬。
鋭い目。
ただ鋭いというだけでは無い。
メルセデスは、この男の灰色がかった瞳に、何か非人間的なものをいつも感じていた。
「どうした?」
ローランドが尋ねる。
ゾイレがチラリとメルセデスを見た。
それで、メルセデスが察する。彼女が居ては話せない内容ということだ。
「ローランド、今日はお天気も良いし、私、しばらくの間お庭を散歩して来たいのだけれど?」
「あ、ああ……済まない」
ローランドに向かって、軽く頷く。
ゾイレの横を通り抜けるとき、秘書が言った。
「申し訳ございません。フリューリンクさま」
言葉とは裏腹に、ゾイレの顔は無表情のままだ。
「良いのです。ゾイレさん……亡くなった祖母が生前、言っていました。女は、殿方の話に口を挟まない。殿方は、女の話に口を挟まない。これが夫婦円満の秘訣だと。……では……」
部屋を出る時、メルセデスが振り返ると、ゾイレがメルセデスに向かって頭を下げているのが見えた。
2、ローランド・ブルーシールド
「……で、要件は何だ?」
ローランドがゾイレに尋ねる。
「三つあります」
ここでゾイレは、いったん口を閉じた。
話を進めろと、ローランドが顎をしゃくる。
「ひとつは……フランクフェストゥングの大旦那さまから、伝書蝙蝠が到着しています」
「親父から? ……で、何と?」
「『狼は目覚めたか?』……何と返信いたしましょう」
その言葉に、ローランドは、しばし考え込んでしまう。
「……そうだな……『牙は、まだ見えない』……とでも返しておいてくれ」
「かしこまりました」
「次は?」
「今朝ほど、都下において、異常現象が目撃されています」
「異常現象?」
「早朝、突然、空から大量の土砂が降ってきた……と」
「はあ? どういう意味だ?」
「文字どおりです。大量の土、石、根こそぎ抜かれた木、動物の死骸などが、突然、何もない空に現れ、それが麦畑や民家の庭に落ちてきたのだそうです」
「ほんとかよ? 何かの見間違いじゃないのか?」
「目撃例が一つや二つではありません。今、部下を送って詳細を調べさせているところですが……一点、分かっている事は……」
「分かっている事は?」
「目撃された地点を地図上に書いて繋いでみると、エルフの居住地から一直線に、クリューシス町に向かっています」
「エルフ居住地というと、この近くだとのクラスィーヴァヤの森か……」
「はい」
「そこから、クリューシスの町へ一直線に……」
「そうです」
「フムン……そうか……で、三つ目は?」
「今日の昼ごろ、これもクリューシスの町の話なのですが、突然、住宅街の路地に怪物の死骸が出現したという報告が入っています」
「怪物?」
「はい。偶然、居合わせた財団の職員が、たった今、報告しに来ました。その者を財団の資料室に呼んで怪物の種類を特定させているところです」
「空から降ってきた土砂と、突然現れた怪物……何か関係があるのだろうか」
「かも知れません。職員によると、怪物は何者かの手によって斬り殺されていた、という事です」
「斬り殺されていた? 人間が殺ったとでもいうのか? 怪物を?」
「分かりません。その場には、ダーク・エルフが二人と、人間の剣士が一人居た、と言っています」
「ダーク・エルフと剣士……」
「エルフの方は、男女の二人連れで、人間の剣士は、少年だったそうです。長身で、短く刈った黒髪、瞳も黒」
「黒髪の……背の高い……少年剣士? おい……俺は今、何だか妙な予感に囚われ始めているぞ……」
「信じられないことですが……その少年剣士は、ダーク・エルフの少女を口説いていたと、その職員は言っています。公衆の面前で、大声で」
「あぁあああー! くそっ! くそっ! くそっ! あの馬鹿野郎が! あれ程エルフには関わるなと言ったのに!」
「いかがされました?」
「いや……何でもない」
「念のため、現在、その少年剣士を財団の職員が尾行中です」
「ば、馬鹿っ! 財団の下っ端職員ごときが、かなう相手では……」
「は?」
さすがに、ローランドの発した言葉の意味を計りかねて、ゾイレが首を傾げた。
「い、いや……その尾行をした財団職員に家族は居るのか?」
「家族、ですか?」
「もし、家族が……いや、遺族が居るのなら、財団の年金で出来る限りの事をしてやってくれ」
「……」
「残念だが、尾行した男は……今頃は、もう……死んでいるよ。その少年剣士、俺の親友だ」
「親友?」
「そして、奴こそが財団の最終目標」
それまで無表情だったゾイレの顔に、微かに驚きの色が浮かぶ。
「では……」
「ああ。その少年剣士の名はアラツグ・ブラッドファング。親父の言う『狼』だ」