エルフ、怪物とともに異空間を流され、川の中で相対す。
1、ヴェルクゴン
巨大な流れの中に居た。
川だろうか?
いや、違う。
これは、水の流れではない。
では、気流か?
いや、違う。
風とも……大気の流れとも違う。
……これは。
空間の流れだ。
空間そのものが流れている。
重力が無い。感じられない。
肉体に重さが無い。
ヴェルクゴンは目蓋を開いた。
もやが掛かったような乳白色を背景にして、木が、鳥が、虫が、小動物が、下草が、そして大量の土砂が……その石と砂の一粒一粒が、各々固有の抵抗に合わせた速度で、目の前を流れていく。
何に対する抵抗?
空間そのものに対する抵抗だ。
自分自身も流されている。
ヴェルクゴンは、そう感じた。
上も下もない空間。その中を流れていく。
ふと足元に目をやると、銀色の物体がこちらへ向かって流れてくるのが見えた。
細長い銀色の何か。
剣だ。
物質硬化魔法によって、鋼以上の強靭さを得た銀剣。
「スュン……」
ヴェルクゴンは無意識にその名を声に出す。
ゆっくりとした相対速度で剣が近づいてくる。
剣が自分の直ぐ脇を通り過ぎようとする瞬間、ヴェルクゴンは思わず手を伸ばしてその剣身を掴んでしまった。
手のひらに痛みが走る。
その痛みが、ヴェルクゴンの意識を覚醒させた。
反対側の手で柄を握りなおす。
傷ついた手のひらから、血が、流れの中に散っていく。
ヴェルクゴンという肉体から開放された、それ自体が意識を持った粒子のように。
(なに、この程度の切り傷、スュンに直してもらえば良い)
スュンという言葉が、ヴェルクゴンの心の中に、その少女の美しいすがたを結実させた。
「スュン、どこだ」
辺りを見回す。
空間を流れる無数の物体。
根こそぎ抜かれた木々……生きて必死に藻掻いている小動物……死んでしまったように動かず流されていく小動物……土……石ころ……
その向こうに……
いた。
左方向、はるか遠くに、眠るようにして流れに身をまかせている少女の体があった。
「行けるのか?」
自分自身に問いかける。
精神を集中させ、浮遊魔法を試してみる。
こんな不思議な空間で浮遊魔法が有効なのかも分からなかったが、この状況で他に試せる魔法をヴェルクゴンは知らなかった。
(浮遊魔法の要点は、なぁ、ヴェルクゴン……自分自身の存在そのものを中和し、消し去るよう念ずることだよ)
かつて自分に魔法を教えた師匠の声が聞こえたような気がした。
(重さとは何だ? 大地が何かを引っぱる力のことだ。大地は対象物の存在感に応じて引く力を調整する。大きな存在には大きな力で、すなわち重く……小さな存在には小さな力で、すなわち軽く。……だからな、ヴェルクゴン。魔法の力で、自分の存在そのものを消し去るように念ずればよい)
空間の流れ……その流れに対する自分自身の抵抗感が、スッ、と消えたように感じた。
流れから自由になった体が、少しずつ、スュンに近づいていく。
もう少し。
剣身で傷ついた手を伸ばしかけ、あわてて剣を持ちかえ、体を反転させて無傷なほうの手を伸ばす。
自分の血で、この美しい少女を汚してはいけないような気がしたからだ。
思わず皮肉な笑みが浮かぶ。
ついさっきまで、この少女を見捨てて、自分だけが助かろうとしていたというのに。
毒に冒された体で必死に精神を集中させ、最後の力を振り絞って自分から痛みを取り去ってくれたあの瞬間から、ヴェルクゴンの中のスュンに対する何かが決定的に変わってしまった。
(私は何を考えているのだ?)
血まみれの手で剣の柄を持ち、反対側の腕で少女を抱える。
「ヤツは……潜冥蠍は何処だ」
頭上はるか彼方。
空間の流れるその先、川に例えれば下流に相当する方向に、その紫色の生物は居た。
とても、追いつけそうに無い。
自分ひとりなら、浮遊魔法を使ってヤツに近づくことも可能かもしれない。
しかし、脇に抱えたスュンは、気を失っているように見える。
その「重さ」が、この流れる空間の中でヴェルクゴンの自由を著しく限定する。
……突然……
すぐ横を流れていた木……流木とでもいうべきか……が、フッ、と消えた。
何の前触れもなく、一瞬で消えた。
顔の前を通り過ぎようとしていた握りこぶし大の石が、また、フッ、と消えた。
次は、左から自分を追い越そうとしていたリスの死骸が、フッ、と消えた。
ヴェルクゴンとスュンの周囲で……いや、この流れる空間の至る所で、あらゆる物体が次々に消滅していった。
いずれは、自分たちも消滅してしまうのだろうか?
ならば、いっそスュンと同時に消え去りたいものだと、勝手なことを思う。
スュン一人を残して消え去るのも嫌だったし、スュンだけが消えて自分ひとり取り残されるのは、もっと嫌だった。
遠くを流れる紫色の生物を、もう一度見る。
この現象は、あの紫色の生物が作り出したのだろうか?
現実世界と冥界の境界面の中を自由自在に動けるとされる、あの生物が?
だとすれば、ここが、その「境界面」とか言う場所なのか?
本当に、そうか?
ヴェルクゴンの直感が、その仮説に異を唱える。
何か、腑に落ちない。
この現象には、あの紫色の生物とは別の、もっと大きな力が作用している。理由も無くそう思えて仕方がない。
あの紫色の生物、潜冥蠍も、我々や周囲を流れている多くの草や木や動物たちと同じく、この不思議な現象の「犠牲者」ではないだろうか。
そんなことをぼんやり考える。
潜冥蠍が、目の前から消えた。
その瞬間。
視界を漂う全存在、そして空間そのものが消えた。
2、ヴェルクゴン
流れる空間が消滅した瞬間、ヴェルクゴンは、空中に居た。
重力がある。
体が、抱えているスュンごと落ち始めている。
あわてて、浮遊魔法を再発動。
地面への激突だけはどうにか免れる。
着地点を選んでいる暇は無かった。
住宅地の中を流れる小川にフワリと着水。
水深は足首の少し上くらいか。
ブーツの中に水が入って足が濡れることは無いな、などど妙なことを考えた。
背後で大きな衝突音。
水しぶきと砂利がバラバラと背中に降りかかる。
後ろを向くと、同じ川の中、五十レテムほど向こうに潜冥蠍の姿があった。
何がどうなっているのか完全には把握できていないが、とにかく自分たちと潜冥蠍、敵同士が互いの攻撃が届く距離で向かい合っている。それだけは理解できる。
ここで決着をつけるか?
いや、スュンを安静な場所に置くのが先だ。
再度、浮遊魔法発動。
川面から浮き上がり、後ろ向きに遠ざかる格好で、潜冥蠍と距離を取った。
がさりっ!
潜冥蠍が傷ついた移動脚を動かす。
その後方に、円盤状の黒い「何か」が発生した。
(空間境界面か!)
六本に減った捕食脚をこちらに向けて威嚇するように動かしながら、残された移動脚で後ずさり、潜冥蠍は空間境界面の中へ消えた。
境界面、消滅。
ヴェルクゴンはホッと胸をなでおろし、再び浅い流れの中に着水した。
(敵には敵の都合がある、か……何にせよ、逃げてくれて助かった)
自分自身の体重は自分の足で支えて、脇に抱えたスュンの維持に浮遊力を使う。
こうすれば最小限の魔力消費で済む。
(魔力は出来る限り温存しておくべきだ。これから何があるか分からんからな)
「何だ! 今の音は!」
「こっちだ!」
「どうやら、川の中らしい!」
さきほど小川に潜冥蠍が落下した時の音を聞きつけて、人間どもが川べりの土手に集まりだしていた。
……そう。
ヴェルクゴンは気づいていた。
ここは、エルフの住む森ではない。
ここは、人間の町だ。
3、館の女主人
橋の下から土手の陰へ。
集まりだした人間どもの死角を選んで慎重に浮遊移動する。
エルフの自分にとって人間などは虫けらのようなものだ。何人集まって来ようと気にする必要も無いはずだが、好奇の目で見られるのは、やはりプライドが許さなかった。
とくに傷ついたスュンを人目にさらしたくはない。
幸い、人間どもの注意は潜冥蠍の落下地点に向けられている。
その注意の輪を抜けて、土手を越え、朝の閑静な住宅街に降り立つ。
……だが……
(これから、どうする?)
とりあえず、どこか人気の無いところでスュンの手当てをしなければ。
路地の角を曲がった向こう、こちらからは死角になっている通りの方から、人間の声がした。
若い男の大きな声が複数、なにやら話しながら、こちらに向かってくる。
声の主たちは直ぐにでも向こうの角から現れそうだった。
(土手に戻るか……いや……)
ヴェルクゴンは辺りを見回した。
通りの左手に一軒家があった。高い生垣で囲まれた、なかなか大きな家だ。
浮遊魔法を発動して、スュンともども生垣を乗り越える。
生垣の内側は、手入れの良く行き届いた庭だった。
人の気配は無い。
庭の中心近く、やや館寄りに平らに磨かれた敷石があった。きれいに掃いてある。
(あそこなら、良いだろう)
スュンをその敷石のところまで持って行って、仰向けに寝かせる。
手に持った彼女の銀剣も、その脇に置く。
皮鎧を切り裂かれ、赤い線状に血を滲ませる左の乳房に手をかざした。
スュンがヴェルクゴンの耳に手を当てて痛みを取ったように、今度はヴェルクゴンがスュンの体内から毒素を抜き取り、中和して空気中に散らす。
「フッ……」
どうにか応急処置が終わり、知らず溜息が出た。
そこで、はじめて自分の手の痛みに気づいた。
手のひらを見る。異空間で銀剣を握ったときに切ってしまった傷。
思ったより浅い。ピリリとした痛みは残るが、既に血は凝固して止まっていた。
立ち上がって自分の衣服を見る。血で汚れたような跡は無い。
(こんなときに、自分の見た目を気にするとは、な。……それだけ心に余裕が出てきたということか)
自分で自分を分析して、安堵とも自嘲ともつかない笑みを浮かべる。
突然、後ろから、怒気を含んだ女の声が響いた。
「動くな! ゆっくりと、両手を挙げて! こちらを向け!」
指示に従うような素振りで両手を挙げ、ヴェルクゴンはゆっくり後ろを向いた。
五、六レテム離れた所に、女が立っていた。
人間の女の年齢は良く分からないが、四十五歳、くらいだろうか。
女にしては大柄だが、太り過ぎという程でもない。
眼差しの鋭い、なかなかに美しい女だった。
寝ぐせのついた長い赤毛。寝巻き姿。いかにも目覚めたばかりという格好だ。
ただし、両手に持つのは、武器。
左手に、細身の剣を収めた鞘。
右手には、ナイフ。
ナイフの切っ先をこちらに向けている。
(ばね式の投げナイフ……か)
護身用として人間がしばしば持ち歩く武器だ。
円筒形の柄の中にばねが仕込まれていて、親指の所にある金属製の突起を押すと、内部の留め金が外れてばねの力でナイフの刃が射出される仕組みだ。
当然、発射回数は一度きり。
発射後は刃を回収して、ばねを縮めながら柄に再度装着しなければいけない。
遠距離攻撃魔法を使うヴェルクゴンにとっては馬鹿馬鹿しく感じられるオモチャだが、あれで案外、状況によっては有効だという話も聞く。
人間は脅しや牽制をする時にも、このオモチャをよく使う。
「エルフが、こっそり私の庭に忍び込んで、いったい何をしよっていうんだい?」
「別に何も……仲間を手当てするのに、この場所がちょうど良かったというだけだ。彼女の意識が戻ったら出て行く」
「それだけ? 他人の庭に不法侵入しておきながら、それだけかい? まったく、これだからエルフってやつは……」
手入れの行き届いた美しい庭の女主人にしては、やけに荒っぽい言葉をつかう。
ヴェルクゴンは、見下したような笑みを人間の女に向け、言った。
「手がだるいな。下ろしていいか?」
「……」
ヴェルクゴンの問いかけに女主人は良いとも悪いとも答えなかった。
勝手に手を下ろす。
「……さて……マダム? これから我々をどうする気なのかな? こう見えて、なかなかに多忙な身なのだが」
「ど、どうするって……」
女主人に、戸惑いの色が浮かぶ。
どうしたら良いか決めあぐねているのか。
(それは、そうだろうな。エルフに泥棒に入られた人間など、聞いた事も無いだろうから。もっとも、我々は泥棒などではないが……)
「その女の子……」
人間の女が、とつぜん話を変えた。
目線は、敷石の上に横たわるスュンに向けられている。
「その女の子、怪我しているみたいだね?」




