終わりと始まりの足音 6
冬様は会えなかった間の話しを色々話してくれる。
彼女は相手の話を聞くよりも、自分から話すことが好きなので、私はそれに相づちをうって楽しそうにお喋りをしている冬様を見ていた。
話し好きの人は好きだ。
だからと言って話し好きではない口下手な人が嫌いというわけではない。
それぞれに長所があり、お喋りな人はこちらが話題を考えてださなくとも積極的に話してくれるし、息詰まらない。口下手な人は聞き上手の人が多いので、話しているとついつい自分が話したいことを話しすぎてしまうが、気分が良くてもっと聞いてほしくなる。
組み合わせの問題なのだろうが、少なくとも私は人の話を聞くのが好きな人間だった。
「松代ったら、私よりちょっと早く生まれたくらいでお姉さんぶるのよ?たかが二ヶ月の差で!花嫁修行の時だってそうだったわ」
「女の子は大変だね。花嫁修行は二人でしたの?」
「家同士仲が良いものだから、あの子とはたいていなんでも一緒だったの。でもまだお嫁にも行く予定がないのに、花嫁修行とか笑っちゃうわね」
「今は十九歳だっけ?」
「も~!野菊様言わないで!」
女性の年は慎重に言葉に出してくださいな!と顔を両手で隠して後ろを向かれる。
十九歳。
やはりこうして見ると、十九歳とはいえやけに大人っぽい。十五歳で成人なので大人で間違いはないのだけれど、十九歳で男遊びをするのは、先の未来の世界を考えると凄いことだ。
転生前の私の感覚でいくと、成人は二十歳なので、さしずめ彼女は二十四歳というところ。そんな感じで考えれば、何となく納得出きる。そもそも十五歳の時点での清水兄ィさまや羅紋兄ィさま達は色んな意味ですでに結構出来上がっていたので、慣れ、というか、そんなものかと認識している。
「冬、こっちを向いてよ」
「いやです」
「可愛い顔が見たいな」
「そ、その手にはのりませんわ!」
「冬~」
「いーや!」
私は機嫌を直して、と背中を撫でた。
新造が奏でる箏の音色に、冬様が鼻歌をのせる。余程気分が良いのか、肩を揺らして控えめに手を叩いていた。
……よかった。なんとか機嫌を取り戻せた。
あのあと謝ってもダメなので若干泣きそうになったものの、そんな私の顔を見て何を思ったのか『これは……アリ』と表情を一転して頬を上気させ、少々興奮気味に食いついて来た。何がアリなの?と聞いたら、野菊様には言えません、と照れながら、そして鼻息を荒くさせながら言われた。
……変な扉を開けてしまったのではないかと身震い……いや、この震えは彼女が私の腕を掴んで揺らしているだけだ。
とにかく冬様には笑っていてもらいたいので、今の状況はかなり助かっている。
「あら、そうだわ!お酒をくださいな」
「ちょっと待ってね」
上機嫌のうちに、お酒を所望される冬様。
後ろにいた和泉に、部屋の前に置いてあるお酒を持ってきてもらうことにする。梅木が座敷の前に持ってきておいてくれた、冬様用の甘い口当たりのお酒だ。
私の言葉に和泉はハイとすぐに立ち上がって、けれど正座をしていて痺れていたのか、覚束無い足取りで襖に向かっていく。ああいう姿を見ると感心と同時に助けたくなる気持ちが沸き上がって仕方がない。まだ来て一週間も経っていないのに、本当に頑張っている。
冬様も足を痺れさせた和泉の動きに気づいたのか、彼へ向けてぎゅっと拳を握って腕を小さく振っていた。どうやら応援をしている様子。
つくづく自分の客は、良い女性ばかりだと神様に感謝した。
私生活が散々な近頃だが、その部分ではだいぶ昔から癒されている。
そういえば雪野様も大変お優しい人だった。断言出きるほど関わっていたわけではないが、清水兄ィさまが身を許すほどの人なのだから、悪い人のわけがない。
禿の頃、座敷で彼女の前に出たことはないけれど、一度廊下ですれ違った時に私の頭をさらっと撫でてくれたことがある。
『あの子が最近入った禿?』
『そうだよ』
『良い子ですわ。きっと将来有望ね』
『……はは』
清水兄ィさまが苦笑いを返していたのが印象的だった。
「おいらん、こちらです」
「ありがとう。じゃあ冬はいつもの盃でね」
「私が注いで差し上げますわ」
「奉仕?」
「もう!」
肩をペシャリと叩かれる。
冬様はきまって私にお酒を注ぎたがる。初めは遠慮していたが、毎回のことなので私もされるがままになっていた。人の厚意には素直に甘えておくのが一番だと、この妓楼で随分学ばされた気がする。
冬様がいつも使っている彼岸花の柄が入った盃を、和泉がお酒の次に廊下から持ってきた。
せっせと動く様子に、冬様はまたしても無意識なのか拳を握っていた。
和泉と冬様を交互に見る。どちらもいとおしい存在であることには間違いない。
梅木は休まず箏を弾いている。ずっと弾いていて疲れるだろうが、仕事の愚痴は一切聞いたことがない。弱音も吐かないので逞しいかぎりだが、たまには子供っぽい姿も見てみたいのが私の本音だ。
梅木を見ていると視線に気づいたのか、手を動かしたまま顔を上げて私を見る。
視線が合ってドキッとしたが、目を細めて微笑まれたので笑い返す。
あの余裕の笑みは、けして十二歳で培われるものではない。末恐ろしさを感じると共に、彼もまたいとおしい存在であることには違いなかった。
「ささ、どうぞ野菊様」
黒い盃に彼女が酒を注いでくれる。
どちらが客なのか分からないこの状態も、慣れてみれば楽しいものだった。
ありがとうと一言交わして盃に口をつける。
「冬は家でも少食なの?」
一口喉に流し混んでから彼女に向き直る。
「そうね……あまり食べないわ。すぐにおなかいっぱいになってしまうのよ」
彼女はあまり妓楼で食事をしない。おつまみ程度のものは頼むが、進んで食べることはなかった。
代わりにお酒はよく飲むので、たまに主食がどちらなのか迷う。
「体質なんだろう……っ……?」
「野菊様?」
体質なんだろうね、と言おうとした私だが、瞬間息が詰まる。
着物の内側のサラシを取ってしまうような勢いで、胸とお腹を、一気に力いっぱいおさえた。
「野菊様?どうなされました?」
目眩とは違うものが、眼球にきつく残る。
先程まで普通にしていた息継ぎさえも、どこかの管が切れたようにおかしくなった。
腹の底から何かが破れて這い上がってくる、この感じは。
徐々に息がしずらくなってくる。
呼吸をするたびにヒュウヒュウと変な音が口から出て、あの走りすぎて口の中に鉄分の味を確かめた時のような、そんな気配が。
いつのまにか筝の音は鳴りやんでいた。
「いずみ、冬様と一緒に座敷の外に出ていて」
通常の呼吸に戻るようにゆっくりと酸素を吸って、前にいた彼に頼んだ。
「あ、に、兄ィさま?」
出来うる限りの笑顔を和泉に向ける。
「野菊様?待って、どうなさって、いったい」
「冬、少しだけ廊下にいてね」
額を嫌な汗が流れる。
熱いのに、寒い。身体が冷えていくような感覚に、後ろで片手に拳を握った。
「兄ィさん!」
「うめぎ、おやじ様を呼んできて。いなかったら、男衆でも、番頭でも、飯炊きでもいい、早く」
「ええ、急いで呼んできます。ですが」
こんな所を冬様に見せるわけにはいかない。
彼女、……客にはきっと見せてはいけない姿だ。
ウッ、と這い上がるものを止めようと口に手を当てる。上まで来たものを飲み込んだが、それでも少し出てしまったのか、手のひらが赤く汚れた。
背中を撫でてくれていた梅木の手が止まる。息を飲む音が聞こえた。
「和泉、冬様から離れないでいてあげてね」
「わっ、わかりました」
戸惑う和泉だが、私のお願いを聞こうと冬様の前に立つ。
一方で彼女は様子のおかしい私を、何か怖いものを見るように、けれど離れたくないとばかりに涙目になって私を見ていた。
拭ったけれど、私の口の端に付いているであろうものを食い入るように見つめる。
「さっきまで、……だってまさか、ねぇ、違うわよね?」
「違うよ」
「っ嫌だ!だって野菊様っ、……離して梅木ちゃん!和泉ちゃん!」
愚図る彼女を、私の頼みで二人が連れて行ってくれる。襖が閉めきるまでつんざくような涙声が響いていたが、襖が閉まっても微かにまだ聞こえていた。廊下ではなく、梅木のことだから楼主部屋まで共に連れて行くのか、少なくとも部屋の前から声は聞こえなかった。
「ぐっ、……けほ」
――ビチャッ。
今度こそ抑えきれず、口から大量に赤い液体が滴り落ちる。綺麗な畳に、格子のような色鮮やかな紅が広がる。
立っていられなくなり、片膝をついて項垂れた。
また苦しくて、息が出来なくて、喉をこれでもかとかきなぐった。
『野菊』
いったいこの酒には何が入っていたのか。
飲みかけのそれを見て、目を細める。
きっとこれは、所謂「毒」というものなのだろう。
いつそんなものが酒に入ったのか分からない。もしかしたら酒ではなく盃のほうか。
とりあえず良かったのは、冬様がこれを口にしなかったことだろう。彼女がいつもとは違い、酒を先に飲んでいたら冬様がこうなっていたのかもしれない。そう思うとゾッとする。
彼女が毒を入れるのはありえない。相対死を望むような人間ではないし、酒はこちらで用意したものだ。酒を注がれる瞬間まで、冬様が徳利に触った所は見ていない。
それにもしかしたら酒ではないのかもしれない。その前に何かを口にしていて、酒を飲むと毒が回るような仕組みの薬を――。いいや……考え過ぎだろうか。
それか、もしくはただ、私が変な病にかかっただけだとか。
なら、それだと良い。
病で倒れて、血を吐いて、そのあとは。
願わくば彼女が疑われないことを祈りたい。
和泉へ冬様に付いているようにと言ったものの、少々荷が重いことをさせてしまった。
……それにしても自分の命の炎が小さくなっていくというのに、私は不思議と楽観的になっている。
死ぬという時のことを、人なら誰でも一度は考えるはずだ。私も一度は考えた時がある。
たくさん泣くのだろうな、とか、誰か泣いてくれるのかな、とか、病気で伏せって家族に見守られて死ぬのかな、とか、独りで寂しく死ぬのかな、とか。色々。
でも私はそのどれでもないことを、今考えていた。
――――また私はこんな死にかたをするのか、と。
『義理がないもの』
『頭イってるの?』
……また?
……また、とは、いつそんな死にかたを?
人間は一度しか死ねない。一度しか生きられない。
また、なんて表現はおかしい。
『清水さんがいけないんじゃないですか!』
『よく吠えるねぇ』
黒い髪の、私とは違う艶感のある男が脳裏にスゥと浮かぶ。
ああ、走馬灯が始まるのかと、心の隅で感じた。
息が途絶える瞬間の感覚を、私は鮮明に覚えている。
死の間際には、いつだって必ず思い出すのだ。




