猫に憧れた傾城 五
短いです。
女の番頭から渡された地図の通りに道を歩く。
足取りは軽いのか重いのか、分からなかった。
ただ、にぎりしめているその紙だけが、重いのは分かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「遊女之墓、ね」
寺の広い敷地に、そう書かれた墓石がポツリと一つ立っている。
周りは墓石以外何もない。寺も住職はいないのか、寂れていた。鳥の糞が墓石を汚し、掃除もされていない。忘れ去られたように、周りの景色は風化していた。寺、と呼んでも良いのかと戸惑うほどに、閉鎮としている。子供が遊ぶ場所にしても、不釣り合いなこの空間。
二人が近づくと、墓石の前には一輪の百合が置いてあるのが分かった。まだ置いたばかりのようで、茎は綺麗な緑色をしている。
そしてよく見れば、花の下に簪が置いてあった。髪を纏めて括ることが出来る、装飾は一見地味だけれど確かな値打ちもの。
「羅紋?」
浅護は思わず周りを見渡したが、彼が都合よくここにいるはずもなく、ただ立ち尽くした。
一本の簪。
その簪は野菊がまだ11歳の頃、羅紋が贈ろうとしていたものに良く似ている。結局は清水に先を越されたから、と大人しくその簪を箪笥に閉まって不貞腐れていたことは何故か良く覚えている。
『もうちょいでかくなったらで良いよな』
なんて言って笑っていたのは、もう随分昔のこと。
「っ馬鹿じゃない」
これが本当に彼の物なのかは判断出来ないが、もう羅紋も妓楼を出ているので、自分達のように遊女屋を訪れている可能性もなくはなかった。
「野菊……」
目を閉じて姿を思い起こす。
けして、一日足りとて忘れることのなかった彼女の顔。けれど日を増すごとに目が消え口も消え、朧気になっていった野菊の姿。それでも浅護は、野菊の笑った顔だけは覚えていた。口角が上がると笑いえくぼが左にだけでき、そんな口元を手で隠す。目元にはくしゃっとシワができて、恥ずかしいのかいつも目線は相手から外していた。時折自分を見て笑ってきた時には、少し胸が騒いだ。笑いながら目が合ったのは数えても一、二回だけだけれど、脳裏の奥にはその絵がいまでも残っている。
「生きていれば、今年で二十六だ」
清水は小さな墓石を、幼子の頭に触れるように撫でた。
十年。十年である。
あの小さな女の妓楼で、酷使されることなど容易には想像出来たはずだった。だから清水は遊女屋以外の所へと行かせようとし、楼主にもそう言って持ちかけた。
考えないわけではなかった。
しかし考えてしまえば、現実に起きてしまいそうで、二人は前向きにただ明るい明日を夢見ていた。
けれど。
「こんな粗末な墓に入れるために」
他の遊女も埋まっているだろう一つだけしかない墓石を、まるで野菊を抱き締めるかのように、清水はそれを抱き締める。
「十年もあの妓楼にいたわけじゃないんだよ」
抱いても抱いても、返ってくるのは硬く冷たい石の感触だけ。
どれだけ声をかけて名前を呼んでも、返ってくるのは沈黙だけ。
足抜けをしてでも、共に吉原から出れば良かったのか。
いっそのこと愛理を手にかけてしまえば良かったのか。
清水が愛理の気持ちに応え、偽りの好意を向ければ良かったのか。
額から血が出るほど土下座を繰り返し、楼主に考え直させれば良かったのか。
けれどそんなことを考えたところで、今はもう無駄だった。
ただただ己の浅はかさを思い知らされるだけであり、彼女が助かることも戻ってくることもない。
そして浅護はそんな清水を見て、殺意にも近い感情をある人間に抱いた。
自分自身よりも、兵衛谷之介よりも、妓楼の者よりも、それ以上に胸を抉る人物。
「――あの女」
二人はそれから共に集めた資金で、呉服屋を営んだ。
審美眼のあった二人は、商業の才もあったのか見事大当たりし、生涯を終えるまで金に困ることはなかった。
しかし惜しまれながらも、二人は嫁を娶らなかった。
そして晩年に差し掛かった頃、清水は体調を崩し、部屋で寝たきりとなった。足が悪いなどではなく、結核を患ってのことである。
寝たきりとなってからは縁側で過ごすことが多くなり、庭に入ってきた野良猫の相手をしては、どこか遠くを見ていた。
「清水! そんな身体でどこ行ってたんだ!」
ある日、浅護が店から家に戻ると清水がいなかった。
夕方になり家へ帰ってきた清水を迎えた浅護は怒鳴り声を上げたが、清水はそれに臆することなく、どこか安らかな顔で彼を見ていた。目元にあったシワは、何故かその時だけ少し若返ったように無くなっていた。
「良い町だって言ってたよ」
「? なにが」
「良い町、だってさ」
数日後、清水はこの世を去った。
清水の部屋には、まるで彼を見守るかのように、一匹の野良猫が寄り添っていた。
次回からは元の時系列に戻ります。




