猫に憧れた傾城 二
茶髪の男の名は浅護。
歳は二十五。
吉原・天月妓楼の花魁である。
彼の生い立ちは、妓楼内でも知る者は少ない。
ただ周りが彼について知っていることは、その茶髪は夏の空の下では亜麻色に輝き、冬の空の下では栗色に染まるということ。
その焦げ色の瞳は、目頭から目尻にかけてパッチリとした、つり目の猫目だということ。
太陽を知らない肌は蚕の繭のように白く、絹のように柔いということ。
また彼は妓楼内の誰よりも男性的な本能を持ち、同時に女性的な面も持つ。女性的な面とは、ここでは仕草や言葉遣いのことであり、けして男が好きだという意味ではない。
そんな二面性を持つ彼は、この吉原で生きることを苦には感じたことはなかった。
全くというわけではないが、己のことを不幸に思うこともなく、淡々と仕事をこなし過ごしている。逆に言えばそれに関してはどうでも良いということなのだが、けれど客をぞんざいに扱うことはなく、他の花魁に負けず劣らず女が寄り付いた。
女性の心の機敏にはどういうわけか聡く、そんな彼を好む者が多い。
「あら何よ、見てたの?悪趣味ね」
「君もじゅうぶん強情じゃないか」
浅護が折檻部屋から妓楼へと繋がる階段を上がると、そこには腕を組みながら壁に寄りかかる清水の姿があった。
清水は浅護と野菊のやり取りを聞いていたのか、素直じゃないね、と階段を上がりっきって顔を見せた彼に笑う。
「もしかして怒ってる?でもあれだけ図太けりゃ、どこででもやってけるでしょうよ」
その笑いに動じることなく、浅護はニヤリと笑いを返した。
「怒るなんてとんでもない」
「あなたも強情ねぇ」
「オネェさんには負けるよ」
今なんつった、と物凄い形相で固まる浅護から目を逸らした清水は、折檻部屋へと続く階段を眺めてため息を吐いた。
「……駄目だった。遊女屋以外は考えにないらしい」
「その話ならここじゃない方がいいわ」
浅護は彼の肩に手をかけ、周りを見て警戒をする。誰が聞いているかもしれないのに、迂闊に彼女の話は出来なかった。
浅護の気遣いに目を閉じて頭を下げた清水は、彼の手を肩からどかして廊下を歩く。
行く先は裏庭へと続く裏戸。
清水が行こうとしている場所が分かっているのか、浅護は何も言わずに彼の背中について行った。
遊女屋に野菊を売るという考えを撤回させたかった清水は、数刻前、楼主の龍沂のところへ説得に回っていた。渚佐と宇治野も共に居たが、まだ愛理のことを思ってかあまり強くは言っていない。
遊女屋へではなく別の奉公先を見つければいい、寧ろ無一文で河原へ捨て去るのも罰としては良い策ではないのかと提案をするも、結局、なかなかどうにもならなかった。
「いつからあの子は、変わってしまったのかしら」
「変わったのはあの子じゃない。私達だろう」
彼等がいるのは、妓楼の屋根の上。
瓦がたくさん敷き詰められているそこは、座り心地は悪いが、誰にも聞かれたくない話をするのにはちょうど良かった。
それにそこへ登るには梯子なんてものは使わない。手と足を上手く使い、なんと素手で登っている。けれどそれは、屋根上にいることを誰にも気づかせないようにするためであり、二人の手は建物の汚れで黒く汚れていた。
普段からそこに登っているわけではない。彼らがそこに登るのはこれが三回目であり、ここへ上るということはつまり、本当に誰にも聞かれたくないことを話すときだということ。最初にここを見つけたのは清水であり、初めに彼に案内されたときは浅護も口をあんぐりと開けていた。
三階もある妓楼の屋根を上るなど、深夜ならまだしも白昼堂々と上るのは無謀である。
けれどそれだけ今の妓楼内は、彼等にとって心休まる場所ではなくなっていた。
「それに気づきながら、引き返そうとしなかっただけだ」
照り付ける春の太陽を眩し気に、清水は隣にいる浅護とは反対側を向く。
「どうする? 私と仕置き覚悟で足抜けでもするかい?」
「やぁね。そんなのは御免よ。五体満足でここから出ることが私の夢なの。潰されてたまるもんですか」
清水の半ば冗談ともとれない提案を、浅護は手を振って却下する。
返ってくる言葉が分かりきっていたのか、清水は薄く笑って、今度は反対側ではなく彼を真っ直ぐに見た。
「ここから出られる頃には、あの子の身体はもう別の男の手がついている」
「……」
「花開く瞬間を、見知らぬ男がその身に刻み込むんだ」
素直ではない、普段から意地を張ることが多い自分の仲間に、清水は言い放つ。
それに対し、お腹が痛いのか耳が痛いのか、浅護は腹部の着物の合わせを右手でギュッと握ると、片耳の後ろをもう片方の手で押さえた。
胡坐をかいていた足は片膝を立てさせて、先程よりも猫背になる。
横にいる黒髪の男より、幾らか長い髪が、肩から垂れた。
「だから何よ。そりゃ遊女屋に売られるのよ。仕方のないことじゃない。現に私達だって歯ァ食いしばって耐えてるのよ」
「自分達が耐えているからと言って、それを他人が耐えられるなんて思わない」
遊男と遊女、違いは男か女かというだけ。
けれどその違いは、とても大きな違いである。
「今でも、どうしていたら良かったのか分からないのよ」
浅護は今までの野菊への態度を思い返す。
百歩譲って自分が元々捻くれた性格だったとはいえ、そっけない言葉を返したり、愛理のほうを贔屓して見ていた己が許せない。
どうしてあんなにも、あの女に入れ込んでいたのか。
以前から浅護は、野菊に対して少し当たりが強い所があった。
洗濯物の汚れが落ちていない、中庭の掃除がなってない、動きが遅い、など、小姑のごとく口煩く言っていた。
けれどそれは野菊に対してだけではなく、下働きや遊男の仲間に対してもそんな部分がある。
歩き方が汚いだの、寝癖が鬱陶しいだの、話し方がだらしないだの、色々と。
また女口調なものなので、それが余計に妓楼の者達には口煩い母親のように見えていた。宇治野が母のような存在ならば、それに半ば被る形の浅護は、どちらかと言うと嫁いびりの姑のようなものである。
そんな元々が元々な人間だったためか、愛理に心惹かれていた時は、愛理が嫌がる野菊のことを毛酷く扱った。
愛理に入れ込んでしまった理由をあげると、そこはもう単純に自分の好みだったからに過ぎない。
礼儀がよく、ご飯は米粒一つ残さない、女に胡坐をかかず男を尊重する、基本三歩後ろにいるような女。
それがこの男、浅護の好みである。
誰に好みを打ち明けたわけではないが、自分の前に今の時代少ないであろうそんな女子が現れたら、逃さずにはいられないというのが本音。たとえ遊男に身を置いていたとしても、そこは夢を見ていたいというのがせめてもの我儘だった。
けれど蓋を開けてみればこの始末。
それは自分の前でだけの姿だった。
とんでもない女に引っ掛かったものだと彼自身後悔をしている。
「忙しくて、なかなか気づいてあげられなかったというのは言い訳にもならない」
「あんたは仕方ないわよ。おやじ様は色々頼み過ぎたっていうの。遠征までして京の妓楼に行かせる意味が分からないわ」
「あちらは色を売らないらしいから、色々勉強にはなったよ」
二か月ほど、ついこの間まで、清水は京へ行っていた。
冬から春前にかけてのことだった。
しかしその二か月の間で、野菊が折檻部屋へ入れられるような事態になってしまったというのは、清水も想像がつかなかった。
心配ではあったが、他に任せられる人間もいなかった。
下働きの梅木という少年は信頼していたので、なるべく共に居るように頼んだが、ずっと傍にいるのも限度がある。
下働きの仕事内容を、端から端まで把握しているわけでもない。
「そうなの? 妓楼なのに?」
「こちらで言う花魁は、京では太夫というらしい。興味深い町だった」
「へぇ」
雀がピチチと二人の真上を舞う。
清水が手を伸ばして指を差し出すと、雀は大きく旋回をしたあと、そのスラリとした指の上に止まった。
指に止まった雀を見て嬉しそうに口角を上げた清水だったが、それは一瞬のこと。直ぐに顔は臥せった。
そんな彼の隣で、浅護は屋根の上から吉原の町を見渡す。
「……まぁどうせ、私や清水の二人だけが味方したって何も変わらなかったわ。寧ろ悪化したりして。ほら彼女、あんたのことが好きじゃない。一目で分かるわ。どちらにせよ、あの子を妓楼から出してあげられたのには変わらない。ここにいるより、遊女屋にいた方がずっとマシよ」
浅護はあぐらをかいた膝に肘をつけて、頬杖をついた。
「前はあの女のことが好きだったわ。前はね。あんなのを見るまでは」
浅護はついふた月前、まだ清水が京に行く前のとき。ある女の不可解な行動を見てしまった。
それは愛理が階段から落ちてしまった時のこと。
浅護はその日、昼を食べ終わっても食堂でのんびりと過ごし、飯炊きの者と世間話をしていた。他の者がいなくなり食堂に一人になっても、二階へ行く気が起きなく、やっと階段を登ろうとしたのは食事が終わってから一刻後のこと。
階段へと続く廊下を曲がり、階段の上を見たときだった。
愛理が後ろを向いて、二階の階段先にいたのを見たのは。
彼女は首を右へ左へと向けて、周囲を見回しているように見えた。浅護は咄嗟に階段の横に隠れる。
いつもなら気軽に声をかけていた彼だが、彼女にある疑念を持ったことでつい隠れてしまった。
彼は彼女が何をしているのだろうと、相手に気づかれぬようにひっそりと階段の上を見た。
愛理はまだ周囲を警戒している素振りを見せている。
『えっ……』
――ドタドタッガンッバタンッ
それは一瞬のことだった。
彼女が自ら姿勢を後ろへとゆっくり倒し、階段を転がり落ちたのは。
『あんた、何やって、るの』
自分の足元へ転がり落ちてきた彼女を見て、心配よりも先に疑問が口をついて出た。
痛みに顔を歪め目を閉じて倒れている愛理に、浅護も顔を歪める。
――この女は今、何をしたんだろう。
暫くして音に気づき倒れた愛理を遊男や下働き達が見つけると、近くにいて何もしなかった浅護に怒号が飛んだ。
『何で助けねぇんだ! お前馬鹿なのか!?』
『だってこの子、自分で落ちたんだもの。馬鹿じゃない?』
『はぁ?』
『何考えてんだか知らないけど、起きたら話しでもきいてあげたら? 自害でも考えたのかしらね』
反省の素振りを見せない浅護に周りの男達は舌打ちすると、愛理を一階の楼主部屋へと運んで安静にさせた。
浅護はそれを尻目に、何事もなかったように部屋へと戻る。彼女が起きるまであの行動の意味は考えても分からない。それに自ら命を粗末にする人間は好かないので、浅護にとっては彼女への好意が薄れた瞬間でもあった。少し前から薄れてはいたが、それがさらに薄れた感じである。
普通は心配するところなのだろうが、別に不幸を全部背負っているワケでもないのに何であんなことをするのだろう、という不信感に近い怒りのようなものを感じたせいでもある。
『黒い髪が見えて……。もしかしてあの子……』
不信感が確信ある物に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。
他の遊男からそんな言葉を愛理が吐いたのだと聞いて知ったのは、あれから一日経ってからのこと。
黒い髪……。もしや、あの場に居もしなかった彼女のせいにでもするつもりなのか。
今までは愛理の言うことを信じてきていたが、もうこれでは信じる方が異常だと思えてくる。
『ちょっと』
何を馬鹿なことを言い出しているのかと、彼は楼主部屋で横になる愛理に鬼の形相で訪ねた。
その場には龍沂や他の花魁がいて、彼女を囲んでいた。花魁の六人がそこに揃っていて、ただ清水だけがその場にいなかった。
『とんでもないホラを吹いてるって聞いたんだけど、あんた自分から落ちたんでしょ? 何言ってるの?』
『えっ?』
浅護は周りの者達がいるのにもお構いなしに、布団の上で横たわる愛理へ、これみよがしに言い放った。
彼の言葉を聞いて驚いた愛理だったが、それもわずかな時間で、すぐに泣きそうな顔になった。
『酷い! 何でっ、何でそんなことを言うんですか!』
『悪いけど、階段の下にいたのよ私。変にあんたが階段の上でキョロキョロしてるから変に思ってね、見てたの。そしたら自分で体勢崩して落ちてくるんだもの。ビックリしたわ』
『そんなっ危ないことっ、自分でするとでも思ってるんですか? うっ、ひっく……』
泣き出した愛理に気持ち悪い女だ、と思っていると、その場にいた龍沂や花魁の仲間達に軽蔑の視線を向けられる。
浅護にはその視線さえ気持ちが悪かった。
けれど、自分も今までこんな風だったのかと思うと、彼は少し気持ち悪さが消えて、彼らに同情の気持ちを向ける。
『愛理の言う通り、んな馬鹿なことするわきゃねーだろ? どうかしちまったのかよ浅護』
『私は見てたって言ったわよね。もしかして犯人が野菊だとでも思ってるの?』
『まぁ、最近のアイツの行動は目に余るからな。愛理は黒い髪が見えたって言うし』
『黒い髪なら下働きにも二人いるわよ。あと花魁にもいるわねぇ。清水とか?』
『おめぇ、それ以上言うとぶん殴るぞ!』
浅護はその視線に臆することなく、事実を言ったまでよと貫き通した。
『目に余るって、あんた達はその野菊の行動を一度でも見たわけ? ねぇ教えてよ。あの子は今までどんなふうに、どうやって目に余る行動をしていたの? 目に余るくらい見たんでしょう? ハッキリ言いなさいよ全部。馬鹿なの? 馬鹿なんでしょうね。言えないんだもの』
『てんめぇっ』
羅紋が浅護に殴りかかろうとする。
それを避けようともせず突っ立ったままだった浅護だが、殴ろうとした羅紋の右手は赤い羽織を着た男によって止められた。
『あんたいつから居たのよ』
『ついさっき?』
『清水! 止めるんじゃねぇよ!』
浅護は羅紋の腕を掴む清水に目を丸くする。
それを見て清水はニコリと笑うと、勢いが収まらない羅紋を背中を叩いてなだめ、横になる愛理に向き直った。
そして愛理が清水を見て頬を上気させるのを、浅護は見逃さなかった。
『さぞかし痛いだろう愛理』
『清水さん』
『どれ、見せてみて』
彼女に近寄った清水は、布団をどかして愛理の足に触れた。
『……い、痛い、やめっ、痛い!』
苦痛に顔を歪める愛理を見て、清水は申し訳なさそうに笑う。
『本当に痛そうだね、大丈夫?』
『は、はい』
『あんた……』
『浅護。行こう』
彼女へ心配の声を投げかけていた清水に、浅護はまるでそんな風には見えないと思った。
他の人間にどう見えているのかは分からないが、彼女の足を掴む清水の手はわずかに震え、手の甲には青筋が浮き出て見えた。
相当力が入っていたのだろうと思う。
『無駄だとは思わない』
『え?』
『けど、いくら彼女の味方をしても、信じてくれる者がいなければ進まないんだ』
『あんた、あいつが嘘言ってるって知ってたの?』
『いいや知らない。私も目に余るほど見たことはないからね』
『じゃあ何で』
『信じる人が違うってだけの話だよ。愛理よりも誰よりも』
『ならなんで……あの子の前に立ちはだかってあげないのよ』
『君もさっき、思ったんじゃないのかと思ったけど』
『……』
『誰一人として、肯定してくれる者がいなかったろう』
清水の言うことに、浅護はひと月前の出来事を思い出す。
それは彼女達が世話になっている風呂屋が一日だけ使用できず、仕方なく妓楼の風呂を使った日のこと。
その日は遊男や下働きの男達が使ったあとに彼女達は風呂へ浸かっていた。
そしてどういうわけか、愛理は浴槽で頭を打ったのだと言いたんこぶを皆に見せていた。打った理由を聞けば『野菊さんに押されて転んじゃった』と話す。
それまでに何度か愛理から野菊が嫌なのだという話をされていたせいか、浅護も含め遊男達は彼女の言うことを信じた。
何故ってまさか、自分の頭を自分で傷付けるなんて自傷行為を、か弱い彼女がするはずがない。
やっていないと言う野菊に無理矢理謝らせようとしていた男達。
けれど、そんな彼等から庇うように清水が野菊の前に立った。
『どうやって転んだのか、嘘か本当かは分からないが、私達も知らないことを周りが言ったってどうにもならないだろう』
『でも清水兄ィさん』
『誰も見ていない。張本人でもない外野が、とやかく言うものじゃないよ。愛理が言えば良いだけの話だ。面と向かって文句が言えないなら、そちらにも問題がある』
この時、浅護はそんな清水の姿を見て思ったことがある。
道理は通っているけれど、なぜ野菊を庇うのだろうかと。
腹の立つ男だと。
けれど今にしてみれば、腹の立つ男は自分だったのだと思い知らされる。
浅護はそれを思い出すと、あの時の自分の頭を殴ってやりたい衝動にかられた。
清水は険しい顔をする彼を見て、君だけじゃない、と声をかける。
『私だって考えてる。どうしたら良いのかなんて、もう何十回何百回と考えた。でも最終的に命を奪うとくらいのことをしなければ、たぶん無理だよ』
『まっ、それだけはやめなさい! あんた、そんな事したら』
『あくまでも可能性の話だから気にしないで。それにさっき君を止めた理由だけど、たぶんアレでは余計にあの子が危ない』
『何でよ』
『もし怒りの矛先が君ではなく野菊に移った場合、どうなると思う』
浅護は考えて、青ざめた。
何も正義感を振りかざしたかったのではない。ただ事実を捻じ曲げる愛理に腹が立ち、本当の事を言ったまで。
けれどそれまでに、野菊という女を毛嫌いする彼女。
野菊を犯人に仕立て上げようとしている愛理には、浅護の言葉や行動は相当に心に来たはずだった。
そして周りは彼女を信じ、かばうだろう。
『なら、どうしたらよかったの』
何がそこまで、何でそこまでして、愛理は野菊を嫌わせたいのか。
浅護には分からなかった。
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