始まる 終わりと始まりの足音 3
濡れた髪をお気に入りの手拭で拭いながら階段を上る。
蒸気を纏った男達がたくさんここを通ったからか、普段より強い木の匂いが鼻についた。こんな時間にこの匂いを嗅ぐのは初めてで、新鮮な気分になる。
この時間に髪が濡れているのも、それはそれは不思議な気分で、なんだか冒険でもしているような妙なわくわく感がした。
「でも乾かない……」
それにしても随分と髪が伸びたものだ。と髪を拭いていて思う。
たぶんゲームの野菊よりうんと長いだろう。
『髪を伸ばしたらいい』
私としては切っても良かったのかもしれない、と今でも思っている。
あの時の兄ィさまとの会話がなければ、今頃は肩より短くなっていたのかもしれない。人生、どこが分岐点なのか分からないものだ。選択肢の連続という点では、現実もゲームも変わらないのかもしれない。
二階につけば、さっきいた時よりも静かで物音ひとつしなかった。私の足音以外は雀の鳴き声しか聞こえない。
凪風と話をしてからお風呂に入ったとはいえ、時間はまだ八時くらいだ。皆が起き出すには早い。
寝床に戻る途中、私がはじめに座り込んでいた部屋の前で足を止める。
凪風にはああ言われたが、清水兄ィさまは……。
「ふぁ……。……ん?」
そうしていると、清水兄ィさまが欠伸をしながら部屋から出てきた。
まさか出てくるとは思わなかった私は、その場でピシっと固まる。
待っている時には出てこないのに、何故今出てくるんだ。
「えと、あの」
……無くしものをしたときの感覚を思い出す。
探しても出てこないのに、どうでもよくなったときに限ってどこからか出てくるあの現象。間が良いのか悪いのか分からない。でも一つ言えるのは、これは忘れ物でもなければ、どうでもよくはない状況だということだ。
一つではなく二つ言ってしまったけれども、なにはともあれ、兄ィさまと話しをする絶好のチャンスであることには間違いない。
襖を半分開けたところで私が目に入ったのか、彼は瞼を瞬かせている。そしてしばらくすると、ふにゃっとした柔らかい微笑みで首を傾げた。
「どうしたの?」
でも待って、滅茶苦茶眠そう。瞳がトロンとしているもの。
いやそりゃ眠いよね。まだ起きるの早いもん。
「もしかして――――愛理のことで来た?」
でも思考は百発百中。
その言葉に少し体制を引いた私を見ると、う~んと襖から離れて部屋に戻り、兄ィさまは布団へ再び横になる。
あれ、どこかに行くから部屋を出ようとしたのではないのかと思ったのだが、厠はあとでいいかなと兄ィさまが呟いているのが聞こえた。
いや行きましょうよ。
厠に行った方が良いんじゃないのかと気になったが、襖の前で立ち止まっている私に手招きをしてきたので、そのまま大人しく部屋に入る。
「昼間の話に、もしかして納得出来ていない?」
兄ィさまは片肘を枕元に立てて私を見た。
まるで寝転がってテレビでも見るような体制に真剣みが欠けるが、寝起きで話をしてもらっているのでそこは無視する。
というのに、そうだ君もここにどうぞ、と隣を空けて布団をポンポン叩いてくるのでさすがに手を振った。寝転がりながらする話じゃないだろう。
「わっ、あの」
しかしそんな固くなっていては話しが進まないから、と彼は布団から身を乗り出して、ブンブン振っている私の手を引っ張る。
「……い、いいえ兄ィさま、納得は……しています」
兄ィさまはゴロンと布団に転がった私を見て満足そうにした。
でも髪の毛が乾ききっていないのに、これじゃあ布団が濡れてしまう。カビが出たらどうするのだと思い、私は首に巻いていた手拭いを頭の下に置いた。
仕方ない。このまま話しを続けるとしよう。
「なら」
「ただ、しこりが取れないんです。つっかえているような、このままでは終われないような……。考えてみればみるほど、私なんかが最初からここにいなければなんて思うのです。そうすればきっと」
凪風があんな馬鹿なことを私に言わなくても済んだ。
あんな顔をさせなかった。
私は悲劇のヒロインになりたいわけじゃない。演じるのも嫌だ。そんなものはくそくらえだ。
私は可哀想なんかじゃない。可哀想なんて、思われたくもない。憐れなのは私じゃない。
「きっと、なに?」
「……きっと、愛理ちゃんとああなることもなかった。おやじ様に拾われたあの日、吉原ではなく違う町へと行っていたら」
「野菊……何も、彼女を追い出そうというワケじゃない」
「タラレバを考え出したらキリが無いことは知っています! 私は自分のことを嫌う性格最っ悪な女を助けたいとか思う、馬鹿人間です! それでももう絶対に、大切な誰かを失ってしまうのはっ」
言っていて途中、私はハッとする。
大切な誰かって、一体誰のこと?
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だよ」
拳を握って口をパクパクさせる私の頭を、兄ィさまが撫でる。
どうしてしまったんだ、私は。
言うことが分からないわけではない。
どうしたら良いのかは、これまで散々悩んできたことだ。ああした方が、こうした方が、と右に左に思考を向けて色々考えた。
でも、それでも結局周りの言葉が私を鈍らせる。
周りがというより、私自身優柔不断なのかもしれない。
「ただね、自分の家があるのなら帰った方が良い。ハッキリと物が言える子だから、上手くやるんじゃないかな。君が愛理を大事に想っていることは、少なくとも私が知ってる。それじゃあ駄目かな」
「……」
「今の時代、政略婚は女のほうが立場は強い。心配せずとも、一度娘に家を出て行かれた上にまた逃げられるようなことはしないだろうさ。彼女自身も、逃げてばかりいないで自分の運命と戦って欲しいよ。……私の言うことが信じられない?」
「……大きな声を出して、ごめんなさい」
「謝らなくて良いよ。私だって羅紋や宇治野を失うようなことがあったら、カッなってしまうだろうさ」
愛理ちゃんが政略結婚から逃げていたことも、私が言わなくても知っている。
愛理ちゃんの事情を一から百まで、私の事情を一から千まで知っているような語り口。
清水兄ィさまも、きっと凪風と同じように以前の記憶とやらが備わっているのかもしれない。まだそれについては話してくれないようだけれど、凪風のおかげで何となく分かって来た。それなら愛理ちゃんの事情を知っているのも頷ける。
「それに私達だって、いずれは此処の外に出る。十義さんのように残る者もいるだろうけれど、私はいつまでもここにいるつもりはないからね」
「そうなのですか?」
「吉原を出たら、好きなことをやろうかなって思ってるんだ」
「好きなことって?」
「お饅頭を作ったりとかかな?」
「お、お饅頭作るのが夢だったんですか!?」
布団から頭を上げて、隣で寝転ぶ兄ィさまを見た。
夢はケーキ屋さん!
とか言う、小学生の子供みたいな夢である。
何だそれ、可愛いじゃないか。
「野菊も夢はある?」
「私? 私は……」
夢……。
兄ィさまに言われるまで、夢なんてものは考えたこともなかった。
立派な男芸者になるという目標は新造のときに脆くも崩れ去り、しかもそれは夢ではなく、あくまで『目標』だった。今は花魁になっているが、稼ぐことあたり前だと思っているし、金銭的な面でどうのこうのという夢も目標も特に持っていない。
ただ平和に暮らしたいのと、この今の状況を早く打破したいという願いだけで、夢でも何でもない。
私には、夢がない。
「夢はないです」
「そう」
「兄ィさまの夢は素敵ですね。私も、そんな夢が持てたら良いのに」
今は夢を持つどころではない。そんなキラキラしたモノを掲げられるほど心に余裕は無いどころか、夢を持つこともおこがましいと思える。
「そうかな。でも私の夢には、君がちゃんといるよ」
「え?」
「君が美味しいお饅頭を食べて、笑顔になれれば良いと思ってる。他の皆もだけど」
「お饅頭でですか」
「美味しいものを食べるのが一番手っ取り早いだろう?」
「あと、もうひとつ」
そう言って顔の横に両手を置かれて、上からすっぽりと身体を覆い被せられる。
「あっ……え?」
驚いて思わず口に手をやろうとするも、その手は横に置かれていた手に絡み取られて、布団に縫い付けられた。
「清水兄ィさま?」
僅かに開いた股の間には足を挟まれてしまい、膝を閉じようとするも閉じられない。閉じようとするたびに、彼の足が太ももの付け根に当たって邪魔をする。そのせいか長着の裾は大きくめくれて太ももが露わになり、冷えた外気に当たった。
「今、君は」
兄ィさまは掴んでいた私の手を離して、片手を私の襟部分に添える。そしてそのままゆっくりと首筋をなぞって、耳の後ろ辺りを撫でられた。
胸の奥がムズムズする感覚に、変に焦る。
と同時に凪風といた時に起きていた頭の痛みが、ズキ、とまた鈍く鳴っていた。眉に力が入る。
ふ、と兄ィさまの顔を見上げると、困惑した私の顔を見て面白そうに舌を出した。
「私が怖い?」
彼の目が、一瞬据わる。
……怖い?
「別に怖く、ないです」
「本当に?」
据わっていた目は、今は少し笑っていて全然怖くもなんともなかった。
それに首を捻る仕草が和やかで、まるで寝かしつけてくれているような錯覚にも陥る。
さっきの焦りと鈍い頭の痛みはまだちょっとあるけれど、嫌な感じはしなかった。
「だって、何が怖いのか……。兄ィさまは最初の頃にも私にそう言っていましたが、あなたが怖いんじゃありません。私は兄ィさまに嫌われるのが怖いんです」
嫌いになるなんて、怖がるなんてそんな馬鹿な。
どこに嫌になる要素があるというのだ。
ただ、私は嫌われたくないだけだ。
誰からも嫌われないなんて、そんな万人受けする人間になりたいなんてことは思っていないけれど、慕っている人間に嫌われるのは誰だって嫌だろう。
「どうしていつもそう、お人良しなの」
「?」
「引き返したいときに、何もかも引き返せなくなるというのに」
彼の顔がゆっくりと近づいてくる。
引力に従うように、けれど用心深い猫のように少しづつゆっくりと。
そうして額には触り心地の良い黒髪がかかって、私の湿り気のある前髪と混じった。その感触にくすぐったくなって、私は目を閉じようとする。でも頭がくっつくほど顔を寄せられ、そして間近に見えた瞳に、お腹の奥に響く強い衝撃を感じて、息が一瞬出来なくなった。目に見えぬ死神に囚われたみたいに、息が出来なくなった。
頭の痛みも何処かへ行った。
「でも、駄目なんだったね」
彼の吐く息が、私の唇に触れる。
「兄ィさま?」
「君だけには、けして今生で許されない……」
あれ――今、一瞬、兄ィさまが……。
ううん、気のせいだ。気のせい。
窓から漏れる朝日のせいで、視界がぼやけたんだと思う。強くも儚い印象があるせいか、ほんの少しだけ兄ィさまが空気に溶けたように見えてしまった。霧のように、靄のように、けれど綺麗な顔はそのままで、存在が透けているような、儚い姿が。
それに彼の表情のせいもあるだろう。
伏せ気味の瞼から覗く瞳が、徐々に閉じて――
私の横へ倒れた。
「……あれ? え、寝てます? もしかして寝てます?」
「……、ん……」
存在というか、兄ィさまの意識が消えました。
「もしもーし!」
「……スゥ……」
「兄ィさま起きて」
「うるさい」
「ぶっ」
布団の中でぎゅっと抱き込まれて身動きが取れなくなる。
抱き枕よろしく、私は天井を見つめた。
なんだかちょっと、心臓に悪い。
「……羅紋兄ィさまが言ってた、アレって」
『寝起きはアレだから気を付けな』
羅紋兄ィさまがそう言っていたのを思い出す。
寝起きのアレ。
寝起きというか、寝ぼけ眼の兄ィさまは、ある意味で『人を襲う』ということなのかもしれない。
本能のままという感じで、清水兄ィさまにあんなにハッキリと、うるさい、とか言われたのは初めてだ。本来なら萎縮する場面なんだろうけど、ここにきて意外な一面を見れたことに些か気分が上がる。
いつか誰かが言っていたことだが、清水兄ィさんは朝が強い、と聞いたことがあった。朝が強いって、文字通り朝起きるのが苦ではないという意味なのか、と長年思っていた私。
けれどその割にはあまり早起きでも、ましてや閨の日に早起きするなんてこともない。早起きだったら、朱禾兄ィさまのほうが早い。
というか一番早い。皆勤賞並だ。
でも今、その理由が分かった。
遊男として、花魁として、女を惹きつける男として、朝の彼が強いのだと。
「……」
眠ってしまった兄ィさまを、横から見る。
多分この御方は『この』調子で、雪野様や、他の馴染みのお姉様方を惑わせているのだ。
いつも涼し気な顔をした穏やかな彼からは想像も出来ない行動、いわゆるギャップというやつ。あと強引さ。清水兄ィさまに惚れているんだったら、しかも他にも客がいると分かっていて抱かれているのなら尚更のこと。
「でも私、誰かに惚れたことなんてないのに」
なんで惚れた腫れたことのない奴が、そんな感情を知っているのか。
変な感じだ。
しかしいつまでもこうしているわけにはいかないので、そっと腕をどかして布団から脱出する。
中々腕の檻は破れなかったが、羅紋兄ィさまの声真似で『おい清水』と耳元で囁いたら腕を離すどころか布団を剥ぎ取られて反対側を向かれてしまった。声真似に自信を持ったのと同時に、清水兄ィさまの中の羅紋兄ィさまの存在意義がけっこう気になった瞬間であった。
「寝ちゃった……」
こう寝られてしまっては、無理に起こすのも忍びない。
私は部屋からソッと出て、護の待つ自室へと戻った。




