始まる 終わりと始まりの足音 1
水が滴る銀色の髪。私の肩に触れる凪風の手は、少しだけ震えている。頭が濡れたままだし、寒いのかもしれない。まだまだ肌寒い三月の朝は、濡れたままだと風邪を引いてしまいそうだ。
「知ってるって、どういうこと?」
というのに、そんな彼に火鉢や懐炉を用意してあげる余裕がないくらい、私は自分の心に余裕を持つことが出来なくなっていた。
凪風はさっき、私に何て言ったんだ。
確かに何か知っているようだったのは勘づいていたし、自分と同じ転生者なのかもしれないとも思っていたことがある。だからもし『実はそうだったんだ』とか言われたとしても、そんなに驚かない自信があった。
……自信があったのに。
『僕は知ってるよ。君が嫉妬に狂って、女の遊郭へ送られたことがあることを』
『けれどそれは偽りで、本当は彼女によって引き起こされたことっだったことも』
「分からない? 僕達は繰り返して人生を送っているんだ」
「……は?」
繰り返すって、何が?
「は? って、だから……」
何言ってんだコイツ、みたいな顔をする私に、おいおい冗談かよみたいな感じで掴んでいる私の肩を叩く。
そんなことをされたって私は理解に追い付かないし、さっぱりだ。
怪訝な目で見ていると、彼はハァと息を吐く。でもそれは溜め息とは違う、気合いを入れるような息だった。そして間を少し空けたあと、いい? と私の顔を覗き込む。
「僕達はずっと――」
それから凪風の話は長かった。おやじ様の説教や、秋水の清水兄ィさまをどれだけ尊敬しているかについての話を延々聞かされた時よりも長かった。手も動かしながらああで、こうで、と私に伝わるように、いつもの飄々とした態度からは想像もつかないほど真剣に。
四半刻は話していたと思う。
その間、私は黙って彼の話に耳を傾けていた。長かったけれど、不思議と集中は出来ていた気がする。人は相手の話を三十秒以上聞いていると集中力がかけてくるらしいが、そんなことはなかった。
そして彼の話を大雑把にまとめると……。
「はい?」
「その間抜けな顔やめてくれないかな」
なんでも凪風によれば、この世界は何度も廻っているらしく、死ぬたびにまた一から同じ人生を歩んでいるのだという。それも彼だけが廻っているのではなく、皆が皆、同じ人生を繰り返しているのだと。
「それ冗談?」
「冗談でも嘘でもない。愛理だってきっと覚えてるはずだよ」
廻るって、何。回転してるの?
そりゃそうだよね。地球は回っているもの。この世である地球という名の星は回っているんです。何も可笑しくはない。
……という意味ではないことは、話しを聞いていても分かる。意味が分からないけど、それは分かる。
しかもそれでもって、私は繰り返す人生で(野菊は)幾たびも愛理ちゃんによって陥れられていて、良い人生を送れた時は無かったのだと説明される。いいように当て馬として活躍をしていたらしい。
しかも挙げ句の果てには、自分で命を絶ったこともあるというのだ。
私はそれを聞いて、一瞬背筋が凍った。
まだ彼の話を信じたわけじゃないけれど、そんなことを言われてビビらない人はいないだろう。まずこんな体験をしているのは私ぐらいしかいないだろうけど、いくら自分ではないとは思っても、野菊という人物は私の半分と言ってもいい身近な存在。むしろ姉妹のような感覚にも思える。近さという意味で。
なので命を絶ったと聞くと、複雑というかショッキングというか。
とりあえず気分は宜しくない。
嘘でも本当でも。
「愛理ちゃんが?」
「……野菊は、やっぱり覚えてないわけ?」
凪風は険しい顔をして首を傾げる。
いやだって、ぶっちゃけ意味が分からん。
でもじゃあそれが本当だったとして、凪風が愛理ちゃんを嫌う理由はそのことに関係しているのだろうか。本当に彼の言う通り、この世界が廻っているというなら、愛理ちゃんも廻っているという事になる。凪風がそういう記憶を持っているとするならば、毎度私をそういう形にもっていっている彼女を警戒していたとか、そんな感じなのだろうか。
『……じゃあ、こうして』
『なに?』
『この妓楼から出ていって。今の野菊じゃ何しても、皆は私へ向いてくれない。きっと私が貴方に刺されたと言って腹から血を流しても、皆はきっと貴方の方を信じるのよ。…………何度廻ってもあの人は私に振り向いてはくれない。貴方がいるから何もかもがおかしいのっ』
凪風の話を聞きながら、私は愛理ちゃんの言葉を思い出していた。
あの振袖を着て、二人で対峙していたとき。
確か愛理ちゃんは『何度廻っても』と言っていた。
凪風の言っていることと、何となく噛み合っている。
愛理だってきっと覚えているはずだよ、って言っていたけれど、もしかしなくても、本当に愛理ちゃんは世界が廻っているということを認識している。
でも、ただ何が分からないって、私もその廻っていることを知っているんじゃないのか、と暗に言われていることだ。私が凪風のようにこの世の動きを知っているから、色々挙動不審だったのだと思っているらしい。
でも私はこの世界に来たのは初めてだ。何回も繰り返しているなんていう記憶は一切持っていない。この世界にいた野菊と、私の魂的な物が入れ替わっちゃったとかなら、話はまとまるけれど。
覚えていないも何も、私はその何度も人生を繰り返していた野菊ではないし、ただ私にとってこの世界は異世界で、ゲームの世界の印象が最初は強かった。自分が何者だったのかについては未だに何も思い出せないけれど、自分がいた世界ではないことは確かで……。
「痛っ」
「どうしたの?」
「ううん、頭がちょっと」
頭が痛い。片頭痛かな。
「凪風はいつから知ってたの? 最初から?」
「……」
「凪風?」
「………十歳の夏」
「中途半端だね」
「あのさ、人のこと言ってる場合じゃないでしょ。自分のほうが中途半端だって分かってる?」
ていうかそんなファンタジーなことあるかよ、と思う私だったけれど、自分も自分で転生とか色々ファンタジーな体験をしているので、彼の言うことを馬鹿にすることは出来ない。私の体験を話せば、凪風のほうからもお前の方が摩訶不思議だよとか言われそうだ。
自分のことを考えたら、例え凪風が『実は空飛べるんだ』と背中から白い羽を生やして妓楼から飛び立っても、受け入れる心持ちである。
それくらい、今のこの現状は何が起きたって否定できるものじゃない。
「でも私、そういう記憶は持ってないんだけど……」
「ないの?」
「無いっていうか」
「じゃあなんで愛理を避けたり僕らを避けたりし始めてたの?」
ゲームとかたぶん凪風に話してもワケが分からないだろうから、そこはオブラートに包んで説明した方が良いのか。
「覚えてないっていうか……。私がその……思い出した限りでは、愛理ちゃんの恋の邪魔? をしてきていたから、仕置きをされて遊郭に売られちゃうとかで」
「それで?」
「それで、今年になってそれを思い出したから、あんまり関わらない方が良いと思って」
「あの時は近づいていたくせに?」
「ええい! ネチネチうるさいな! 皆のことも、前がどうだったとかは一切覚えてないし」
でもそれよりも前に、凪風は私に対して、何か違和感が無いのだろうか。
凪風の言うように、野菊も何回も廻っているのなら、今回の私は中身が違う。姿形は同じでも、以前の野菊と性格から仕草まで違っていたら、凪風だって不思議に思うに違いない。
今の私は愛理ちゃんに手を出すような無法者じゃないし。……少しイラっとはしたが。
「凪風はさ」
「ん?」
「その前の私と今の私、どこか違うとか感じないの?」
例えば言葉づかいが違うだとか、好物が違うだとか、もう少しドギツイ性格をしていただとか、ご飯と味噌汁は混ぜない派だっとか、色々。あれ、コイツ野菊なのか? と思うような場面が少なくともあったはず。
まぁ私が愛理ちゃんを疎ましく思っていない時点で、その違いは大きい。
「違うと言えば違うような。でも根本的に阿保な部分は変わってない」
阿保だったんだ。
「それにそうは言っても、成長の過程で色々変わっているところもあると思うよ。ただ……寝相が酷いのは変わってないし。まず遊男になってる時点で、色々変わってるからなんとも言えないね」
「そう」
「あとは、そうだな。野菊は誰かを好きになったことはある?」
凪風は、いつぞやの愛理ちゃんのような質問をしてくる。
「ううん。全く」
「本当に誰にも? 誰にも心が動いたことはない?」
前のめりになって私に詰め寄ってくる。
ぐいぐいと寄ってきて、かなり近い。思わず胸板に手をやって距離を置くも、彼は奥を覗きこむように、私の瞳を見つめてきた。窓から漏れ込む朝焼けが、凪風の灰色の瞳に映る。
羅紋兄ィさまに付けてもらった髪飾りが、目の端で揺れた。
「心……ねぇ」
頭がドクンと脈を打つ。
「! 痛ったい」
「野菊?」
さっきからズキズキと頭が痛い。話に集中したいのに、痛みが鬱陶しくて、何かを思い出そうとしても痛みのせいで吹っ飛ぶ。
ずっと起きていたせいかな。
寝不足がいけないのかもしれない。
「ないって言ったらないよ。皆のことは好きだけど、そう言うのじゃない」
「じゃあ前の君と今の君の違う点を挙げるとするなら、そこぐらいかな」
「?」
「恋という物に全く興味も草も生えてないところ」
それはそれで僕は構わないんだけど、と小さく一言を付け足して凪風は私から離れた。そしてまだ濡れている髪の毛をぐしゃぐしゃと手拭いで拭く。
「恋……?」
あの酷い寝相も、以前の『野菊』と一緒。
なんだか、ゲームの世界に迷い込んだというより、ゲームの世界の“ような”場所にきてしまっている感じである。
繰り返している訳も仕組みも分からないけど……。
そういえば、凪風の口ぶりからするに、以前の野菊には好きな人がいたようだけど、一体誰のことが好きだったのかな。
彼は一応全部知ってるみたいだし、それも分かるだろうか。
「前の私って、誰のことが好きだったの?」
「さぁ」
「良いじゃん、減るもんじゃないし」
「絶対に教えない」
そんなの知ってどうするの、と鼻を摘ままれる。
だって気になるじゃないか。
彼が言っているように、この世が何度も廻っていて、そのたびに私は愛理ちゃんと男の人を巡ってバトルをしていたのなら、気になるのもしょうがないじゃないか。
そしてそれから頑張って聞き出そうとするも、結局誰だったのかは聞けなかった。
「ふん、強情」
「……今のうちに言っておくよ」
腰に手を当ててそっぽを向く私を見て苦笑する凪風は、聞いてくれる? とさっきまでの態度が嘘のように私に対して下手に話し出す。
改まった姿勢に、腰に手を当てたまま思わず首を引っ込めた。
「?」
「もし今までのことを全て思い出したら、僕達のことは許さないで」
「凪風達を?」
「今は思い出さなくても、いつか思い出すかもしれない。僕みたいに。君は忘れてしまっているけど、思い出せば僕達を見る目は変わってしまう」
「そんなことあるわけ」
「だから、もしそうなってしまったとしても、僕等は君を咎められない。いっそ野菊、君に殺されてしまったとしても、それが本望だと思えるよ」
何故かいきなり、そんなことをサラッと言いのけた彼に。
「……なに、それ。変なの……、変、だよ」
私はビックリするよりも何よりも、言い知れぬ恐怖を感じた。




