凪風の記憶(キロク) 3
彼女は人の心に入るのが上手かった。
蛇のように隙間を縫って、他人にはけして分からない核心へと触れてくる。
僕たちが欲しい言葉も、好きなものも、何もかもを分かりきっているように、それを僕らの前に差し出した。
この妓楼の中では、けして満たされないもの。
それを容易く埋めてくれた彼女は、僕達にとって光のような存在だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「あなた……」
暖かい布団で横たわる僕を、傍で見守る妻。
視界は歪んでいる。
冷たいものが目尻をつたい、耳の付け根へと流れていった。一度出たら溢れて止まらない。枕が湿っていくのが分かる。嗚咽を噛み殺しながら、彼女から目を逸らすように反対側を向いた。
「あぁ泣かないで、また会えるわ」
布団から僅かに出ていた手を握られる。
あぁ、僕は何を見てきたんだ。
馬鹿じゃ無いのか。愚か者か。
こんな人生をまた繰り返したのか僕は。
女の尻を追いかけ回す阿呆に成り下がった。
何度こんな思いをするのだろう。
もう嫌だ、疲れたんだ。
死ぬことよりも辛い。
考えれば分かる事じゃないか。愛理が嘘をついている事くらい、何で分からなかったんだ。
愛理と夫婦になるのはこれで何十回目になるだろうか。落ちたものだ、自分は。それでも花魁だったのかお前はと嘲笑いたくなる。
『どうかな』
ふと、ある事に気がつく。
あの男。
自分が覚えている限りでは、愛理に落ちた事も、当然彼女と夫婦になった事も見たことが無い。
いや、愛理が好きだと言っていたのに結局は何の行動も起こさず、馴染みの客に身請けされて行ったり、吉原の大火事で命を落としたり、年季が明けて自由になっても『契りをかわすことはない』だとかで、愛理が迫っても受け入れなかった記憶が焼き付いている。
受け入れて貰えなかった故に傷心した彼女を慰め、流す様にして愛理を手に入れたのは今回で五回を超えている。とんだ恥だ。
しかし他の花魁や遊男は皆そうだったのに、何故あの人だけは無いのだ。
今までの記憶があるのだろうか。
それならば、もっと彼女を助けてくれていたら良かったのに。
……駄目だな、僕は。
また人任せなのか。
けれどもう一つ不思議なことがある。
これまで何度も妓楼に存在していた花魁の兄ィさんがいない。
茶色髪の浅護兄ィさんだ。渚佐兄ィさんとは同い年であり、男らしいとか兄貴肌と言うよりかは、どちらかと言えば姉御肌的な人。綺麗な男で、宇治野兄ィさんの性格をもう少しきつめにしたような、母というよりは姑のような男だった。
前回は確かにいたはずだった。
その男だって、何度も愛理と夫婦になっていた記憶がある。
「あなた、私幸せだったわ」
あぁ、妻の顔が醜く歪んで見える。
幸せなんかにしてやるんじゃなかった。
幸せになるんじゃなかった。
「きみ、を……」
震える手を彼女へと伸ばす。
連れていけるなら、君を僕と共に地獄へ送ろう。
これは永遠の誓いとは程遠い、永遠の終わりを望んで。
あとがき。
これにて一旦、回想は終了です。




