表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
87/123

凪風の記憶(キロク) 2

 今思えば、きっと野菊にはなすすべが無かったのだと思った。

 先手必勝だ。

 野菊が否定して声を荒げた所で、皆は愛理が言っていたことを信じてしまっただろう。野菊が愛理を悪く言えば、やはり、と疑いは解けない。

 長い付き合いであるはずの彼女を信じ切れなかったのは、その時はもう愛理の方が遊男と接触する機会が野菊より多く、真実が見えなかったからだと僕は思う。

 それと不自然な程に、皆が愛理を好いていたから。


 野菊には遊男とばかり話している、と言うくせに、そういう自分はどうなんだ、という当たり前の考えが思いつかなかった時点で、そうとう毒されていたのだと思った。






◆◇◆◇◆◇◆◇◆





 野菊への態度が、皆徐々に変わっていった。

 秋水は洗濯を良く野菊に頼んでいたが、愛理に頼むようになっていた。蘭菊は甘味の盗み食いを野菊に誘ったりしていたが、最近では愛理を誘うようになった。楽しそうにしている。

 宇治野兄ィさんは近からず遠からずの距離を保ち、羅紋兄ィさんからは愛理の話を良く聞くようになった。


『渚佐兄ィさん、どうしたんです?』

『あ? ああ……』


 そして渚佐兄ィさんのほうは、彼女とあまり将棋をしなくなった。話しもそこまでしないようになり、互いが互いを避けているようにも感じる。どうしたのかと彼に聞けば、愛理について尋ねてみたら喧嘩になった、と話された。渚佐兄ィさんからすれば、野菊の事を按じて話を聞き出そうとしたみたいなのだが、何かが勘に触ったのか、野菊は自分を放っておいてくれ、と言い切ったらしい。


『不貞腐れていると、不細工になるよ』

『もう、話しかけないでください! 元々不細工なんです!』

『待った、冗談だからその振り上げた棒を早く下に下ろしなさい』


 けれど清水兄ィさんは変わらなかった。声をかけて野菊が無視をしても、最終的には喧嘩をしながら会話を交わしていた。

 しかし一方で、愛理にも優しく接している。一度愛理のことが好きなのかと聞いたことがあるが、女性には優しくするのが遊男だろう、と誤魔化すようなことを言われた。

 でも野菊には喧嘩言葉をかけるのに、愛理には優しく接するようにしている。だから絶対にこの人は愛理のことの方が好きなのだ、と僕は思った。好かれたい相手には優しくする、それは自分の中では当然の方程式だった。


『清水さん』

『なに? どうしたの』


 それからも清水兄ィさんは愛理の相談に乗っているのにも関わらず、相変わらず野菊とは言い合いをしていた。普段と変わりなく、時折冗談も交えながら声をかけていた。何も変わらない。野菊の返しにはたまに棘が入るようになったが、基本は同じだった。


『……』


 僕はそれに無性に腹が立った。

 愛理にいい顔をしながら、野菊にも変わらぬ態度で接する。ズルい男だと。好きなら好きと認めたらいいのにと。


 それに恐らく、愛理は清水兄ィさんのことが好きだ。端から見ていても何となくそれを感じる。彼の前に出れば頬は上気し、いつもより声は高くなる。口数も多くなり、髪を耳に掛ける仕草が目についた。

 それもあってか、余計に許せなかった。

 自分が手に入れられないものを、簡単に持っていってしまう兄ィさんが。

 

 僕は愛理を好きだと自覚した瞬間、彼女の話に意見を合わせるようになった。家族よりなにより、愛しい人を取る。自分の中ではそんな形になっていた。


 本当にズルい男は、自分だと気づきもせずに。






 六月の暮れ、僕が十九の時。野菊が愛理の首を絞めるという騒ぎが起こった。目撃したのはあの渚佐兄ィさんで、取り押さえたのも彼だったらしい。

 助けられた彼女は、楼主部屋の隅で屈まって震えていた。自分の両腕を抱きしめて泣いていて、とても怖がっている。それを見た僕はすぐに駆け寄って、背中を擦って優しく声をかけた。大丈夫、何も怖くない、と。あの人よりも頼りになる男なんだと必死に慰めた。

 そして彼女の気分が落ち着いた頃、どうして野菊に首を絞められたのかと聞くと、いきなりされたので分からない、と答えられた。ならば野菊は、なんの理由も無しに彼女を襲ったことになる。

 しかし大方、自分と彼女の扱いの差に不満が爆発したのだろうと思った。


『私、彼女に部屋に呼ばれてそこに行ってみたら『首に手をあててみて?』って急に言われたから手をあててたんですっ、なんでか分かんなかったけど、不思議に思って手をあてた瞬間に渚左さんが入ってきて、そしたら彼女が悲鳴をあげたんですっ』


 一方で首を絞めた野菊は、おやじ様相手に弁明をしていた。

 私はやっていない、ワザと首を絞めさせられたのだと。


 けれどそれを聞いて信じる者はいなかった。

 ワザと首を絞めさせるなんて、そんなことが出来るはずないだろうと。どんなに一生懸命野菊が訴えても、おやじ様は耳を貸さなかった。

 それもそうだろう。渚佐兄ィさんが見ているし、何より愛理のあの怯え様、どこをどう弁解しようと到底無理な話だった。

 絞めた理由を聞いても、私はやってない、の一点張りで話にもならない。


 『嫌! おやじ様ぁあ!』 


 野菊は折檻部屋に入れられた。自分がやったときちんと認めるまで、仕置きを受けさせるという事だった。仕置きは本来規則を破った客や、遊男に行われるもの。下働きにさせるのは初めてのことである。


『折檻部屋より、もう吉原から出してあげたほうが良いのでは?』

『仕置きは下働きにするものではないかと』


 しかしこれに苦言を放つ者がいた。

 宇治野兄ィさんと清水兄ィさん、渚佐兄ィさんだった。

 彼らは、少々やり過ぎではないか、とおやじ様に意見した。こんなことをするのなら吉原の外に出したほうがまだ良いのではないかと。

 

 僕は可笑しな話だと思った。渚佐兄ィさんは目撃者だというのに、なぜそんなことが言えるのだろうと。それに彼だって愛理に好意を持っていることを知っている。柄にもなく花を渡している姿だって見たんだ。それなのに好きな人を痛めつけた彼女を助けようとするなんて変な話にしか聞こえない。吉原から出るという逃げ道を与えるなんて、正気かと思った。


『いいや……』


 しかしおやじ様は野菊を妓楼から出すことは出来ないと言った。反省の余地を与えるから、妓楼で働かせ続けると。





 けれど、それは良くない判断だった。

 折檻部屋から出されて数日後、野菊は愛理に、とても大切なモノを壊された、と逆上して彼女をあろうことか刃物で刺そうとしたのである。

 野菊の手に握られていたのは、二つに折れた髪飾り。

 それは昔、宇治野兄ィさんと清水兄ィさんが野菊に与えた蝶の髪飾りだった。


 つい最近まで折檻を受けて、途方もない痛みを味わった彼女。最後には『申し訳ありません』と耐えかねて白状したというのに。

 

 今度は殺傷事にまで発展し、明らかな殺意があったとして、野菊は罰として女の妓楼に売られることとなった。そこは吉原とは違い、無法地帯にも等しい場所。色に狂った男たちが密かに通う、女も狂った場所。

 野菊はまた折檻部屋に入り、仕置きを受けてから送られることとなった。


『反省とか、彼女への謝罪も土下座も何も無いワケ?』

『義理が無いもの』

『頭さ、イッてるんでしょ? 叩けば治るかな? ねぇ…』


 明日にも女の廓へ送られていく彼女を、僕は見下してあざ笑う。散々愛理をいたぶっておいて、開き直りした態度をとる野菊に心底呆れた。どこにそんな虚勢を張れる神経を持っているんだか。自分が可愛がっていた妹は、こんな女だったろうかと不思議にも思う。

 いや……それに妹とは言っても、所詮血は繋がっていない。赤の他人だ。


『野菊さんとは血が繋がってはいないんでしょう?』

『そうだけど……』

『なら他人じゃない。いくら一緒に過ごしていたと言っても、赤の他人には変わりないわ。大事なのは、凪風くんが今どう思っているかよ』


 妹だから悪くは言えない、と悩んでいた僕を解放してくれたのは、他でもない愛理だった。





『…………だ!』

『……げっ!』


 そうして折檻部屋にいると、上が騒がしくなっていることに気がついた。


『おい火事だ!! 吉原全体に大火が回る前に大門まで逃げろ!』

『水じゃ消えねぇ! 早くしろっ』


 胸騒ぎがする。耳を澄ませてみれば、『大火が回っている』『逃げろ』という男衆の会話が聞こえてきた。大火が回っているという事は、つまり、この妓楼か吉原の何処かで火事が起きたということになる。

 一番に頭に浮かんだのは、愛理のことだった。

 きっと怖い思いをしているに違いない。傍にいてあげなければいけない。とそれだけが自分の身体を動かす。

 折檻部屋から去る僕の後ろから聞こえてくる声には、耳を貸さなかった。


『なんでこんなに……!』


 部屋から出ると、驚くことに出火していたのはこの妓楼からだったようで、廊下には煙が蔓延していた。ここに来るまでは何とも無かったのに、こんなあっという間に火が回っていることに、些か疑問さえ感じるほど。

 皆が逃げ惑う中、僕は鼻と口を袖で押さえて愛理を探すことにした。ここで死ぬのは嫌だが、彼女を失うのはもっと嫌だった。

 すると煙の向こう側から、人影が見える。

 愛理かと思ったが、背丈はまったく違い、男の物だった。

 その顔が見えた瞬間気分が下がったが、顔に傷を負っているその男を見て、僕は一応声を掛けた。


「こっちは出口じゃないですよ」

「なんだ、まだ君はこんな所にいたのか。愛理なら外へ行ったよ」


 男はそう言うと、手拭いを僕のほうに投げてきた。どうやらこれで口を押さえろという事らしい。

 ありがとうございます、と言いかけた僕だったが、彼の手にある物を見て動きを止める。


「……貴方は、なんで……」

「?」

「ずっと前から、野菊(アレ)と逃げようとしていたんですか」


 彼が右手に持つ鉄格子の鍵は、鈍く光っていた。


「どうかな」


 赤い灼熱の炎は背後に迫っている。

 というのに、黒色の長めの前髪から覗く彼の瞳は、いやに涼やかな輝きを放っていた。


「随分とあっさりしているんですね」


 皆野菊という少女から離れて行くのに反して、この男だけは何かが違った。興味のないそぶりを見せながらも何処かその行動には優しさにも似たものがあった。愛理に仇なす彼女に怒りを募らせていたのにも関わらず、どちらかと言えばその怒りはその行動故に行き着く彼女の終末を理解しているのか、自分がどう扱われてしまうのか、等、説教にも似たものであり。

 愛理の事が好きな恋敵だと思っていた時期もあったが、今はその考えが間違っていたとさえ思っている。


 彼は恐らく、誰にも勘づかれないように愛理を好きなふりをして、野菊と共に逃げようとしていたのだ。彼女が明日廓へ送られる今日の晩に。

 

 それは多分、あの野菊自身でさえ知らなかったこと。


「僕達を裏切るのですか」


 まさか天月の花魁である彼が、仕置きされ廓へ売られる程の人間と逃げようとするなんて、誰も思わない。″清水兄ィさん”を信頼しきっているおやじ様は、もっと想像がつかないだろう。


「おやじ様はもう、あの子を吉原の外に出す気はなかった。……しかしこんな日に火事になるなんて私もツイてないね、本当。一体……誰が火を付けたんだか」


 炎に包まれそうになる壁や廊下を指さして、そう笑った。

 こんな時に笑うなんて、と、僕は少し怖くなった。


「君は早く、愛しい彼女の元へ行くといい。まだ間に合うよ」

「言われなくともそのつもりです。……兄ィさんはどうするんですか」


 そう聞きながら、僕は足早にその場を去ろうとする。この時間が勿体ない。こんな所で話している暇があるなら、一刻も早く彼女の元へと向かいたかった。


「今まで彼女とは喧嘩ばかりだったが、最後くらい素直になってもいいだろうか」


 兄ィさんの横を通り過ぎた時、ふとそんな言葉が返ってきた。

 僕は思わず振り返る。

 真っ直ぐに僕へ向けるその瞳は、さっきとは違い炎が揺らめいていた。


「君と同じく心のままに、傍にいたい人のところへ」





 それが清水兄ィさんとの、最後の会話だった。



 火事が鎮火した後、妓楼の中から複数の遊男の遺体が見つかった。その中には悲しくも、蘭菊の姿もあった。右腕は焼けただれていて、とても見てはいられなかった。顔は綺麗なのに、そこだけが酷く炎症していて、やりきれなかった。


 清水兄ィさんと野菊の身体も一緒に見つかった。きっと逃げるという選択肢は無かったのだろう。重なるようにして倒れていたという。

 僕はそれこそ見れなかった。

 死体を好き好んで見るような人間では無いし、ましてや世話になった兄ィさん、同業者である彼の末路を直視することは出来なかった。

 他人とは言え、妹の姿も。





 ……いいや、それだけじゃない。

 僕はそれを聞いて、場違いにも思ってしまったんだ。

 何故だかは分からない。分かりたくはない。けれど心の奥底に追いやっていた、大事な僕の一部が顔を覗かせて言ったんだ。



 彼が羨ましいと。

あとがき。


あと一話で凪風の回想は終了です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ