凪風の記憶(キロク) 1
世界が終わるとき、世界の始まりを僕は見る。
今までの罪が浮き彫りになるように。
人生を終えるとき、僕は自分の愚かさに気づく。何度も何度も。
「あなた……」
薄目で見える妻の顔。長年連れ添ってきた彼女には、本来ならば世話をかけた、ありがとう、君がいてくれて良かった、なんて言葉をかけるべきなのだろう。
けれど。
「きみ、は」
己のシワ枯れた手。かつて花魁といわれた男も、六十を越えれば枯れ葉になる。どんな花も、生きていれば必ず朽ちる時が来る。友人達も皆年をとった。面影はあるが、やはり若さには敵わない。
けれどただ一人、年をとらぬままの姿で記憶に残る人がいた。
永遠に年老いることのない、綺麗な姿のまま。
始まりは、もうずっと前から。どれくらい前からなのかは分からない。
脳裏に過ぎるのはあの女の子の泣き顔。妹の、顔。妹と言っても良いのか迷うが、確かにあの人は自分と家族と共に幼少期を過ごした女の子。
僕の今回の人生を振り返る。走馬燈ではない、そんな一瞬で終わらせられるような物ではなかった。終わらせてはいけない物だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
生活が苦しくなり、親に器量が良いと言われ売られた先は、吉原一の高級妓楼とされる天月妓楼という見世だった。
どこよりも輝き、どこよりも品がある佇まい。
楼主は一目で僕を気に入った。
お金を貰った両親はとても喜んで、ありがとうと笑って僕の元から去った。
その両親の後を追う小さな存在は、僕がどうして一緒に来ないのかを気にしながらも、僕の元から離れて行った。
最初は嫌々だった妓楼での生活。けれどここで過ごしていくうちに、段々と元の生活より充実していく。
同い年の秋水という少年や、一つ下の蘭菊。厳しいけれど優しい兄遊男達。仕事内容はとても人様に言えたものではないけれど、確かに言えるのは、家族といる時よりもホッとしていたということ。
ならばそんな家族といる小さなあの子は、今どうしているのかと心配になる。
どうせならあの子も男なら良かった。
男なら、一緒に売られて、近くで見ていられたのかもしれないというのに。
妓楼へ売られて五年。
自分が妓楼に売られたのち、妹である志乃と再会したのは、彼女が十歳になる頃であった。
僕が拾って家に連れてきたのは志乃が二歳くらいの時。生き別れたのが五歳の時。三年程しか本当の家族として過ごせなかったけれど、それでも一度も忘れることはなかった。
おやじ様が連れてきた志乃は野菊という名前になっていたが、僕には一目で志乃だと分かった。黒い髪も、透き通るような白い肌も、大きな瞳も、何一つ変わりはない。あの小さな志乃がそのまま大きくなったようなものだった。
それは相手も同じだったようで、ぼくを見た彼女は「おにぃ……」と言葉を言いかけたものだから、それが確信につながった。
柄にもなく奇跡だと思った。
僕らは直ぐに打ち解けた。
僕が親に売られてからの辛い生活や、どうしておやじ様に拾われたのかという経緯まで事細かく聞いて、少しでも寄り添おうとした。
拾われたのは親に口減らしとして捨てられ、たまたま行き着いた吉原の裏通りに座っていた時だと言う。僕に会いたくて、無意識ながら来たらしい。
そしてそこにちょうどおやじ様が通りかかり、話しをかけられたのだと言っていた。
名前に関しては、呼ばれなさすぎていつしか自分の名前を忘れていたらしく、彼女がいた道端に咲いていた野菊をおやじ様が見て、その名前をつけられたらしい。
自分の見世の楼主ながら適当だと思った。
嫌な顔はせず両親の事もけして悪くは言わず、あれからああだった、こうだった、など野菊は色々話してくれる。もともと前向きな性格なのか、過ぎたことはしょうがない、と話の最後には必ずそんな決め台詞を言っていた。
そんな彼女だからか、妓楼の男達からは心良く受け入れられ、結構可愛がられていた。
仕事もてきぱきとこなし、文句も何一つ言わない。
女が妓楼で働くことはあまりよいことではないので、野菊は常に黒の作務衣を着て過ごしていた。女を出されては妓楼では働かせられない、とおやじ様に言われていたようで、化粧もせず簪もせず、頬に炭を張りつけながら生活を送っている。
全く嫌味の無い娘。
僕が花魁になる頃には、すっかり妓楼にも慣れて新人の下働きにも指導をするようになっていた。おやじ様には、そろそろ妓楼を出て他に働き場所でも探してやるぞ、と言われていたらしいのだが、彼女はそれを頑なに拒んだそうだ。理由は定かではないが、きっと義理の兄である僕や他の皆と別れるのが嫌だったのだと勝手に思う。そうでなければ、男ばかりの廓でみすぼらしい格好のまま過ごさなくてはならないこんな生活を、続けたいとは思わないだろう。
僕以外で彼女が一際仲良くしていたのは、天月の稼ぎ頭である清水兄ィさんや渚佐兄ィさんだった。女である彼女が遊男と普憫に接触することはあまり望ましいものではないが、かくいう自分も話しに行ったりと触れ合っている。なので人のことは言えまいと黙って見ていた。
また彼女もあまり遊男と接するのは宜しくないと分かっているようで、挨拶以外では特に話しかけたりはしてこない。けれど相手から来られたら話さないわけにもいかないので、それに付き合っているという感じだった。
渚佐兄ィさんにはよく将棋の勝負を持ちかけられている所を見た。意外にも野菊は将棋が得意なようで、自分の仕事の合間を縫っては渚佐兄ィさんに付き合っていた。どこで覚えたのかは知らないが、三度に一回は勝利していたようで、渚佐兄ィさんも『遠慮がない』と楽しそうに話していた記憶がある。
清水兄ィさんとは、よく言い合いをしている姿を見かけていた。ああいえばこういう、という感じで、よくケンカをしていた。喧嘩とは言っても所詮、痴話喧嘩みたいなものだったが。
『君のその尻に敷かれている座布団が可哀想でならない』
『うるさいんですけど。何なんですか。まさかあれですか、作業してた時にたまたまシミを付けてしまったコレの事を言っているんですか』
『シミを付けられたうえに敷かれるなんて、そろそろ解放してあげなよ』
『わ、悪いと思ってるから使ってるんです! 罪滅ぼしに私専用にしてるんです! それにあなたのその羽織だって可哀想でならないですけど?』
『何がだい?』
『この前見たんですよ、その赤い羽織で朱禾さんの鼻水を拭っていた所を。いくら鼻水が酷く出ていて拭くものが無かったからって、汚物を付けるなんて羽織が気の毒です』
『きちんと洗ってもらったし、この前それを君が洗っていたんじゃないか』
『は? 私が洗わせていただいていたのは羅紋さんの赤い羽織ですけど』
『あれ私のだよ』
『……いやぁぁああ!!』
と、こんな場面が日常茶飯事だった。
毎日皆楽しそうで、僕も実際楽しかった。野菊が来てからはよりいっそうそう感じていた。
しかしそれが変わったのは、ある少女が妓楼へ来たことから始まる。
「愛理です。皆さん、どうぞよろしくお願いします」
桜色の髪の、綺麗な少女が遊男達の前に現れる。
おやじ様が連れてきた彼女は、なんでも身寄りがなく道端で倒れていた所を救われたと話していた。実際おやじ様に聞いてみれば、道端と言うよりかは妓楼の後ろに倒れていたのだという。彼女に言わせれば、そこも道端だったのだろうと思った。
愛理は良く働いた。いつも笑顔で、皆に毎日の挨拶も欠かさない。あの野菊の分の仕事まで手伝っているようで、彼女の存在は徐々に妓楼の中で大きくなっていった。
そしてそんなある日、愛理が僕に泣きついてきた。朝食を食べた後で、いつものように裏庭へ行った時のことだった。
泣きついてきた彼女にどうしたのかと理由を問えば、『野菊さんに怒られて』と涙を手の甲で拭いながらそう言われる。怒られて、とは愛理が何かやってしまったのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしく、他のことが原因だと彼女は話した。野菊の仕事を手伝おうとしたら、自分の分は自分でやるから手は出さないで、と言われたのだという。しかしそれは普通の事で野菊自身怒ったつもりはまったくないのだろうと思ったのだが、愛理は悪い方に考えてしまう性質らしく、野菊にはそのあと気分を悪くさせない程度に助言した。
傷つきやすいみたいだから、勘違いするようなことは言わない方が良いかもしれない、と。
しかしそれからまた、同じようなことが続くことになる。
『野菊さんにここが悪いと言われた』
『野菊さんはいつも遊男と話している』
『野菊さんは自分の失敗に甘い』
『野菊さんが私に厳しい』
『野菊さんといるのが辛い』
愛理には会うたびにそんな話を聞かせられた。他の遊男もその話は聞いていたらしく、それが続けば直接野菊に聞く者もいる。
野菊は少なくとも思い当たるふしがあるのか、全力で否定はしていなかった。あれが悪かったのかもしれない、もしかしたら、と俯きながら。
しかし野菊が仕事を教えていた梅木という下働きは、それを全力で否定していた。なんでも、言い方が違うと。
【野菊さんにここが悪いと言われた】
『もう少しゆっくりやったほうが、良いんじゃないかな』
【野菊さんはいつも遊男と話している】
『清水さん! またそんな所で寝て何してるんですか!』
【野菊さんは自分の失敗に甘い】
『う、ごめん。洗濯したのに汚れが……』
【野菊さんが私に厳しい】
『そこはそうじゃなくて、こうだよ』
【野菊さんといるのが辛い】
『ね、愛理さん』
どれもキツい言い方ではなく、寧ろ柔らかく気にかけるような会話だったと。
僕も野菊に聞いてみたが、やはりキツい言い方はしていなかったようで、愛理の考えすぎだと納得した。
けれどそれからも愛理は野菊の事を皆に相談していた。仕事も失敗は特に見られない彼女。真面目な人だと皆が思っている。だからか、愛理がそう話していくうちに段々と野菊の印象は嫌でも変わっていった。誰も愛理の言うような野菊の姿を見ていなかったからか、憶測が憶測を呼ぶ。野菊はだんまりで、野菊の味方をしていた下働きの一人が言うことも、誰も聞かなくなった。
愛理はあの清水兄ィさんにも話していた。
いずれもそれは中庭での会話で、それを見かけた僕は隠れて見守っていた。
『私、そんなに不出来なんでしょうか。自信がないです』
『……さぁ。そんなことは無いと思うけど』
『でも……』
『大丈夫じゃないかな。気にしすぎだよ』
愛理の背中を擦って慰めていた。
その姿を見て、僕の胸はチクリと痛みが走る。いつも自分に相談しに来ていたのに、他の男へ頼っているところを見せられると無性に悔しくなった。あんなにすがってくれたのにと。仕事以外で触れる、野菊を除いては初めての女性。
彼女の意見を肯定すれば、僕だけを頼ってくれるのだろうか。
いつの間にか、僕は愛理を好きになっていた。




