始まる 受難の日々 31
「馬鹿かお前は」
「イタッ」
おやじ様は手に持っている帳簿で私の頭をバシンと叩く。やばい、脳天にヒビが入ったかもしれない、と叩かれた私は眉を歪めながらおでこ辺りを擦った。
「すみません」
「全く。すまんで済めば、奉行はおらん」
早朝五時。
一夜を共にした松代様を妓楼の外に送り出して一息ついたあと、私は妓楼の玄関口、番頭がいつも座っている所でお叱りを受けていた。叱られている内容は、言わずもがな「閨」ではないが閨をしたことである。
あのあと梅木には、そういう事になりましたとおやじ様へ伝えてもらい、無事に閨モドキの許可を得られた。けれど、確認もしないでお前が先に客へ肯定の言葉をかけたら駄目だと言えないだろうが、という伝言があったことも朝まで忘れていなかった。多分こっぴどく怒られるのだろうと薄々思ってはいたけれど、何の前触れもなく頭を叩かれるとは思わなかった。……いいや、何となく予想はできていた気もする。
まだこの時間は朝五時と言っても外は薄暗い。妓楼の中は提灯と行灯のお陰で明るいけれど、もうそろそろ蝋燭の火も尽きそうだった。
閨だった遊男達は私と同じ様に自分の客を外まで送り届けていたので、外から帰ってきた兄ィ様方や同い年の遊男達には不思議な目で見られている。怒られている姿を見られるのは結構、いやかなり恥ずかしい。それだけのことをしてしまった自分が悪いのだけど、さすがに私も今回の松代様には敵わなかったので多目にみてもらいたい。
「最初から最後まで、部屋で何をしていたか正直に答えてくれ」
「は、はい」
丸めた帳簿をもう片方の手につけたり離したりパシパシしながらそう言われる。
こうなれば私も従うしかないので、返事をしたあとにゆっくり息を吸った。
脇を通る遊男達は、まだまだ何事かと私とおやじ様のやり取りを遠巻きに見ている。階段の横からも上からも視線を感じて、見世物になっている気分になった。気をきかせて一目散に散るとか出来ないのかお前達。
玄関横の提灯の火が一つ消える。
「布団で…………」
「布団で?」
「朝まで一緒に寝ていました」
「で?」
「え? それだけです。あっ、私は起きてましたよ勿論。寝たフリです寝たフリ」
おやじ様に正直に言えと言われたので正直に言ったら、何故か変な顔をされた。いやそりゃおかしいだろ、と私に言いたいようなそんな顔。けれどそんな顔をされたってそれ以上もそれ以下も話すことがないので、これしか言えない。
「片瀬様、ずっと寝てましたよ」
松代様はずっと寝ていた。気持ち良さそうな顔で私の横で寝ていて、イビキも少しかいていた。私は何かあってはいけないので、天使のような顔でスヤスヤ眠りについている松代様を羨ましげに見つめながら、肘を立てて横になっていた。おかげさまで私の逞しい左肘が赤くなっている。
「でもおやじ様。お酒も……あんな大量にいただいて、いつも妓楼へ来ていただいて、一昨日はあんな目に遇わせて、それでも来てくれて、『何もしなくていいから、一緒に朝までいたい』と言われたらですよ」
「ん……んんん」
「とても断れませんでした」
一つ一つの言葉を丁寧にゆっくりと、おやじ様に言い聞かせる。どれだけ断りにくい状況で、どれだけ松代様が今まで妓楼に貢献してくれていたのかを分かって欲しい。
するとおやじ様は苦い顔をして首をぎこちなく縦に振った。楼主である彼にとって私の客である松代様は、兄ィさま達の馴染みである雪野様や淕様みたいな存在で見世側にとってはVIP的な人。次いでお高い酒も差し入れてくれる上客なので、そう無下には出来ないししたくもないだろう。そんなものなので、色々考えるところがあるのか眉間にシワを寄せるものの諦めた顔を見せた。
「……そうか」
「片瀬様には、この事は内緒にしてもらうように言ったので大丈夫だとは思うのですが」
「そりゃそうだ。他の客が聞いたら寝耳に水よ」
当たり前だバカ野郎と額を小突かれる。
「つうか、大丈夫だろうなお前」
「何がですか」
「バレてねぇだろうな」
「それは……大丈夫だと……思いますけど」
けど? 自信を持って言わんかい! なんて、またまた今度は頭を小突かれた。
けれど対策はちゃんとしたつもりである。
梅木には布団が敷いてある部屋へ行く前に、厠でこっそりと胸に巻きつけているサラシを締めてもらったり。
『ちょ、ギブギブッ、いやほんともう』
『ぎぶ? なんですかそれ。はい、もうひと頑張りですよ』
『あぁああ!』
なんて会話を交わしながら人知れず二人で戦っていた。梅木は容赦なかった。兄ィさんの為なので全力で巻かせてもらいますと意気込みを聞かされた時は、まさかあんな死にそうな目に遇うなんて思いもしない。なんだか秋水と凪風を足して二で割ったような感じがする。気のせいだろうか。
全力で胸を無くしたあとは、軽く身体を動かした。寝床に入れば、腕やら首やら肩やら筋肉に力を入れなければならないので、気が抜けない。
結局松代様は布団が敷かれた部屋に運ばれても寝たままで起きることはなかったので、バレなかったとかいう以前に彼女自身私と寝た記憶が薄いのは確かだと思う。
『えっ、もう朝でしたの!? 嘘よ、なんてこと!!』
起きた時の第一声は、欠伸をしかけた私の耳によく届いた。
「ならいいが。まぁ、過ぎたこたぁしょうがねぇ。今後は気をつけるんだぞ。あとは俺と相談してからにしてくれ」
「はい」
「朝風呂にでも入ってきな。……ほらほらおメェらも!野菊が入る前に入っちまえよ」
私達の会話を見守っていた遊男達に向けて、蜘蛛の子を散らすように手を叩く。
皆は慌てて風呂へ行き、かくいう私もおやじ様にもう一度頭を叩かれたあとその場をあとにした。
「お前やるなー!」
「! ……いえいえ。羅紋兄ィさまには敵いません」
「そりゃそうだ」
私が階段を登ろうとすると、ただ一人そこに残っていた羅紋兄ィさまが一段上から見下ろしてくる。びっくりしたものの、満面の笑みの彼を見たら私もつられて笑ってしまった。茶色い木の手すりに肘をつきながら、羅紋兄ィさまは私の頭を撫でる。叩かれたり撫でられたりと、私の頭は忙しい。
兄ィさまの片方の手には、髪の毛につけていたであろう髪飾りが握られていて、髪には跡がついていた。最近は前髪を伸ばしているのか、ただ切るのが面倒臭いだけなのかは知らないが、目元まで髪が伸びきっている。髪の隙間から覗く優しげな垂れ目は、楽しそうに細められていた。
「お、考えてみりゃ今日が本当の元服になるな」
「いや元服って」
女と寝るなんざ度胸があるじゃねーの。と、褒められているのかよく分からないが、凄く笑っているので深く考えないことにする。
思う存分頭を撫で尽くしたあと、ほら二階行くぞ、なんて言って兄ィさまは私の腕を引っ張った。
同時に玄関横のもう一つの提灯の火も消えて、一階は薄暗くなる。
「よく起きていられたな」
「でも今凄く眠いです」
ク……と、あくびを噛み締めた。鼻がツンとして涙が出そうになる。
「俺ら早く出るから待ってろ」
「いえ大丈夫です。大層なことはしていませんし、皆と比べたら全然です。それにやることがあるので」
「そうか?」
そうなんです。
それからお互い部屋に戻る為にと別れたけれど、途中にあるあの人の部屋の前で正座をし始めた私を見て、羅紋兄ィさまはさっきみたいに笑った。
「はははっ。やることってそれか? 何すんだか知らねーが、野菊は好きだな、本当」
「やっぱりこんな時間から待つのは変ですか? 兄ィさまに朝一番で話したいことがありまして」
「アイツが起きるまで正座はキツいんじゃねぇの? それに目立つぜ?」
「う……。では皆がお風呂から上がるまで座ってます。もしかしたら厠に起きたりするかもしれないし」
「そうか。まぁでも、あいつ寝起きは少しアレだから気を付けな」
「アレ?」
「アレだ。アレ」
いやだからアレとはなんなんだ、と首をかしげる私に羅紋兄ィさまは意地の悪い顔でニカリと歯を見せると、自分の部屋へと帰っていった。
そしてまたお風呂の為に道具を持って部屋から出てくると、正座をしている私の後ろで一度止まり、手拭いを頭にかけてくる。
「これ、やるよ」
「髪飾り……? 良いのですか?」
手拭いをかけられたと思ったら、今度は先程兄ィさまが手に持っていた髪飾りを渡された。いつも彼の頭を飾っていたものなので、そんな簡単にもらっても良いのか迷う。
「凪風の趣味じゃないしよ。新しい物を買ったもんだからな、誰かにやろうかと思ったんだが……。さすがにちっとボロいか」
「いえ寧ろ、全然ボロくないので貰っても良いものなのかなって」
「大丈夫だ。そうだ、つけてやるよ」
良いことを思い付いた、と言わんばかりに廊下へ座り込み、私の一つ縛りの髪をほどきだす。
また正面に来ては、顔の横の髪をいじって飾りの位置を直していた。編み込まれている感覚がする。
「よし。今度はその飾りで座敷に出たらどうだ?」
「似合います?」
「おう。めちゃくちゃ似合ってる」
髪飾りにソッと触れて、羅紋兄ィさまを見た。
兄ィさまはさっきと変わらず、やっぱり楽しそうに笑っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「馬鹿なの?」
「イタッ」
しかし清水兄ィさまの部屋の前で正座していた私を、羅紋兄ィさまが去ったあと凪風に何故かコンマ数秒で見つけられて耳を引っ張られる始末となる。
「いたたたた、痛いってばちょっと」
「あぁもう全く」
何をしようとしてるんだか……とぶつぶつ言われながら、私はそのまま彼の部屋まで引っ張られて行った。耳が千切れそうだった。
閨じゃない人達がまだ寝ているから、変に暴れられない。音を立てず静かに抵抗しようと足を踏みつけたりしたけれど、結局引き摺られて終わった。
部屋に連れていかれれば、ポイ、と畳に放り投げられて、昨日のおやじ様のように扱われる。凪風は閨だったのか、お風呂上がりで髪の毛が濡れていた。全然拭ききれていないので、雫がポツポツと畳に落ちている。部屋の中は行灯の光で照らされていて、まだ朝焼けも見えないせいか真夜中のような感じがした。
「あそこに座って何をしてたわけ。というか何その髪飾り。羅紋兄ィさんのだよね」
腕を組み、仁王立ちで見下ろされる。
「……。いや、その」
「何」
「愛理ちゃんの件、少し待ってもらおうと」
「だからさ、馬鹿なの?」
そう私に言うと、箪笥の引き出しから手拭いを取り出して自分の頭に被せた。毛先にも布を当てて水分を拭き取る。つややかな銀色の髪が行灯の光りに照らされて、キラキラ輝いていた。
座ったままの私は、ただそれを見ていた。
「野菊はさ」
すると頭に被せていた手拭いを首に引っ掻けて、逆に凪風はそんな私を見返す。
「僕が君の、本当の意味で兄ィさまなの、分かってるよね?」
「え……」
「分かってるよね」
確信を持った声は、私の耳へやけに響いた。
それに私の跳ね上がった肩は、はい分かってます、なんて言っているのも同然で、凪風も返事は待っていないようだった。
本当の意味での兄ィさまとは、私が凪風の妹で、凪風が私の兄だということだろう。義理ではあるけれど。
凪風はやっぱり、私が志乃だということを知っていたようだ。
「それに他にも分かってるでしょ」
その言葉に私の視線は凪風から外れて畳に移る。
分かっていることなんて色々ありすぎて、彼に話すことが出来ない。けれど求められている内容は薄々分かっていた。
愛理ちゃんのことを清水兄ィさまに話そうとした私を、ここへ連れてきた凪風。愛理ちゃんから地味に逃げていた私に以前かけてきた言葉。思わずゲームを知っている転生者だと疑ったけれど、何かが私と決定的に違い、結局は転生者だと判断出来なかったし聞けなかった。
「……愛理ちゃんのこと?」
畳の目を指先でなぞりながら、そう聞いた。
これしか頭には浮かばなかった。
私の心臓は今、どくどくと脈うって忙しない。何事もないような平然な顔をして放った言葉だけれど、どんな反応が返ってくるのかと心配で胃が収縮している。心配というより緊張って言ったほうが合っているかもしれない。
「僕は知ってるよ。君が嫉妬に狂って、女の遊郭へ送られたことがあることを」
畳の目を弄る私の手が止まる。
「けれどそれは偽りで、本当は彼女によって引き起こされたことだったことも」
私を見下ろす凪風の顔を見た。
「ねぇ、野菊にはその記憶があるよね。ないとは言わせない」
有り無を言わせない表情で私を見る彼は、目線を合わせるためか、しゃがんで私の肩を掴んだ。
まだ濡れている凪風の髪の毛先からは、雫が一滴私の足の甲に落ちる。
「僕は全部話すよ。だから野菊も話して。この「世」について知っていることを」
朝焼けはまだまだ見えそうになかった。
あとがき。
本日は番外地にて、番外編『酒乱(時系列・野菊五歳時)』をupしました。また活動報告にてお知らせがあります。
宜しければ覗いてみてください。
 




