始まる 受難の日々 30
「エスカレーターが欲しい……」
「えすか、れた? なにそれ」
「なんでもない」
一段二段と階段を登る。ギシギシと木が軋む音に日常を感じつつ息を吐いた。
一階から二階までの階段は長くはないけれど短くもない。けれど引き振り袖の裾が引っ掛からないように裾を上げて登るのは結構面倒でしんどかった。いつの時代も女の服装は男より厄介だ。今からでも女男関係ない服装を定着させてみようかな。あと三百年もすれば世にスカートが誕生して、女子学生には寒いなかでも足を出すことを強要される時代がやってくる。でもそこで凄いのは寒くても寒くても我慢して、いや嬉々としてスカートを履き続ける女の子達だろうか。結局どんな格好でも女の子は自分を一番可愛く見せてくれる服を着たいもの。今の時点では確かにこの引き振り袖は女性の魅力を引き立ててくれるので、無くすのは惜しい。止めだやめ。それは困る。
「野菊、早いってば」
「凪風が遅いんでしょ」
しかし思ったより一階から二階までの階段は自分でも吃驚するくらい早く登れて、前にいた凪風を追い越すほどだった。私が速いのか凪風が遅いのかは定かではないけど、こいつ案外ノロマなんだな、とほくそ笑む。
けれどそんな私になにか感じるものがあったのか。
彼は前髪をフッと息で吹かせて下唇を出すと、転んでも知らないからね、と今度は私を追い抜かした。歩調を遅くし加減をされていたのか、と気づいたのは階段を登りきったあとのこと。気を使って損した、とぶつくさ言う凪風の顔は、どこか羅紋兄ィさまが不貞腐れた時の顔に似ている。師弟は似るものなのか。
というか気を使わせて損させたのは謝るけど、後半は完全に気を使われていなかった気がする。別に気を使って欲しい訳じゃなかったけど、寧ろたまに歩みを止めて数歩下がってきたりしていたし。その度に後ろにいる私はのけぞる。階段から落とす気かよ、と大きく舌打ちしたぐらいだ。気を使うなら徹底して欲しい。(←何様)
二階に着けば、そこは遊男の生活区域なので当然皆がいる。各々部屋で座敷の準備をしていて、禿の声や誰かが弾く三味線の音も聞こえてきていた。
行灯の明かりではない光が部屋から漏れている。
「座敷に出る準備、ちゃんとしなよね」
「分かってるよ。いつもの通りやるだけ」
「今日のことは頭から抜いて、何も気にせずにだよ?分かってる?」
「分かってる、分かってる。まったく煩い白髪だなぁ」
「白髪じゃなくて銀ね、間違えないでくれる? 銀だから」
「はいはいはい、分かってます、よ!」
「あ、こらっ」
ピシャリ。
くどいのでさっさと戸を閉める。戸越しに呆れた声が聞こえたけれど、数秒すれば私の部屋の前から気配は消えた。
……なんて格好良く言ってみたけど、気配じゃなくて足音が遠ざかっていったから普通に分かった。気配を感じるという感覚を体験したことがないので、一度くらい言ってみたかった。許して欲しい。
「はぁ」
そうして後ろ手に戸襖を閉めたあと、私は背中をそこに擦り付けたまま畳の上にへにゃへにゃとへたり込む。
凪風にああ言われたものの、自分の部屋に着いたら肩の力が一気に抜けてしまった。ついでに息もしやすくなって、肺まで酸素が十分に行き渡る。調子に乗ってスーハーと何回も呼吸を繰り返せば、案の定頭がクラクラとしてきたので直ぐに止めた。口の中はヘモグロビンの味がする。(意味不)
どうやら自分でも気づかない内に、息を詰まらせていたみたいだ。不思議なことに、一人になるまでそんな状態になっていたとは微塵も気づかなかった。それだけ身体が緊張していたってことなんだろうけど。
「疲れた……」
曲げていた足を伸ばして天井を見上げる。
伸ばした勢いで着物の裾がめくり上がってしまったけれど、誰の目を気にすることもないので、そのまま放置。
天井の木目が顔に見える所がある。
そいつらを話し相手にするわけじゃないけど、何を考えようか、と頭の中で自分に問いかけた。
しかし多すぎて何から考えようか決められず、考えることを早くも一時中断する。なので結局何も考えぬままへたりこんでいるままになった。自分で言ってても正直意味が分からない。
「やばっ」
いや、ちょっと待て。と窓の外を見る。
何をへたりこんでいる暇があるのか。
私には仕事が待っているではないか。もうすぐ和泉も来るし、いつまでもこんなみっともない格好をしてはいられない。
「長着、長着」
そう思い立てば後は早い。
帯を片端から勢い良く解いて、振り袖を脱ぎ捨てる。箪笥から仕事で着る長着を選んで適当に……はいけないので、頭の中でどれに何を合わせるのかを瞬時に決めて、袖に腕を通した。
「……」
だけど、途中で手が止まる。
袖に中途半端に腕を入れたまま、ダランと長着が畳の上に垂れた。
私が邪魔だと言う愛理ちゃん。ゲームを知っている素振りを見せ、転生者とも思える。
そしてその愛理ちゃんを、知ってか知らずか家に返すと言う清水兄ィさま。
そんな清水兄ィさまのお母さんは、ゲームと違い生きている。
兄ィさまの妓楼へ来た経緯も大分違う。
凪風は私が知らない何かを知っている。
他の皆はどうだか分からないけれど、私が知っている皆の生い立ちが、もしかしたら全く違うものかもしれない可能性がある。
そしたらこの世界はなんなのか。
ゲームの設定をもとにした、独立したただ一つの世界なのか。
私はこの世界の、何なのか。
「宇宙だって、どうなってるのかも分からないのになぁ……」
宇宙の仕組みを考えるくらい途方もない。
地球がある宇宙とはなんなのか。宇宙には果てがあるのか。宇宙は一つの大きな箱に入っていて、何億何兆光年も先に行けば角に当たって壁を叩けるのか。もしそうだとしたら、この箱の外はどんな世界なのか。太陽よりも木星よりも大きな生き物が住んでいる場所にある、誰かの箱の一つに過ぎないのか。
考えれば考えるほど疑問は出てきて、解決もされないまま増えていくばかりである。
愛理ちゃんを城に返す。はたしてこれは良い判断なのか。
自分の身を思えば、それは良い判断なのかもしれない。彼女がワタシに望むことは私がいなくなることなのだとハッキリ分かったし、危害を加えられたらそれこそ手遅れだ。
でも、この胸のシコリは何なのだろう。
完全に悪い人間ならば良い。酷い女の子だったならば。あの恐ろしい部分だけを出会って最初に見せられていたら、私はきっと完全に彼女を悪人認定し、おやじ様に報告していたに違いない。それくらい今の愛理ちゃんは酷い、の一言に尽きる。
兄ィさまは明日にでも愛理ちゃんを例の城主と会わせると言っていた。設定通りの話でないとは言っても、その城主の娘は百パーセント彼女で間違いない。
けれど変わってしまったとは言え、友人を老い呆けた色狂いの所へ嫁に行かせようとする親の元へ返すのを喜んで、それで良いのか。
良い時を無視して、今の悪い彼女を見せられただけで、放り投げて良いのか。
愛理ちゃんと出会って四年ばかり。
その内の一年にも満たない、半年にも満たない中での不可解な彼女の部分を見ただけで。
あの階段で頭を打った時に、愛理ちゃんの中で何かが変わってしまったのは確かだった。まるで二重人格のように、人がコロッと変わってしまっている。愛理ちゃんの皮を被った何かが動いている感じで、少し奇妙だった。
「あれ……?」
すると私の中で、ある一つの仮説が浮かぶ。
私がある日突然野菊になったように、もし愛理ちゃんもそんな感じで転生者? に人格を乗っ取られてしまったとしたならば?
頭を打つまでの愛理ちゃんは確かに愛理ちゃんで、今の彼女の意識は愛理ちゃんではない別の誰かさんだとしたら?
どんな経緯で違う世界から、ゲームのある世界から転生したのかは分からない。私も自分のことは分からない。
そもそも私の立てた転生者と入れ替わり論が合っているのかも疑わしいし、あまりにも非現実的過ぎる。
でも私にとっては、この世界で目を覚ました時から、全てが非現実だった。
『ごめんね、ノギちゃん』
まだきっと、愛理ちゃんの中には残っている。
確かに聞こえたんだ、彼女の私を呼ぶ声が。
「まだ……間に合うのかな」
清水兄ィさまと一度きちんと話さなければ。全てが終わったら全部話す、なんて言っていたけれど、それではきっともう遅い。
仕事が終わったらお風呂へ入る前に引き止めようか。今日が閨だったら仕方ないけど、もし閨だったら明日朝一で部屋の前で待機するしかない。
その愛理ちゃんの可能性を話せた所で、解決策なんてのは何も思いついてはいないから正直意味はないのだけれど。残っている可能性に気づいていて見てみぬフリをするということは、どうしてもできそうになかった。
「のぎく兄ィさま、いますか?」
「いるよ」
あれでもないこれでもないと思案していると、控えめなヒヨッ子声が私を呼ぶ。和泉だ。
私は慌てて入ってどうぞ、と和泉を中へ促して呼び返す。いけないいけない、今は座敷の準備に集中しなきゃ。
「和泉、ちゃんと時間に来て偉いね」
彼が仕事をしはじめて三日しか経っていないけど、覚えも良いし時間はちゃんと守るし、言葉遣いもしっかりしているしで文句なく良い『禿』だと思っている。
「さっき、あの、僕……」
なのに恐る恐る、といった感じで和泉は襖から顔をのぞかせた。まるで怖い何かに立ち向かおうとしているみたいで、瞳は潤んでいる。怖い何かって私……。いいや違う、私は怖くなんかないもん。
何をそんなにビビっているのか知らないけど、いつまで待っても部屋の中に入って来ないので、トントンと畳を人指し指で叩いてこっちへ来るように催促する。
「さっき?」
「ごめんなさい!」
そしたら凄い勢いで頭を下げられた。私の結ばれていないままの髪が揺れて、こっちに風が送られてくるくらい頭をパタパタと上下させている。あれだけ頭を振れば、脳みその上下が反転するかもしれない。
「おおっと!? 和泉ちゃん何してんのっ」
そんなことになっては困るので、直ぐに和泉の近くへ駆け寄ってしゃがみこみ、肩を掴んだ。ちっちゃい肩だ。けれど肩を掴んでも頭を振るのをやめないので、肩ではなく頭を片手でガシッと掴むことにする。鷲掴みだ。こちらもちっちゃい頭なので掴むことは容易にできた。
するとやっと頭が止まって、和泉が私を見る。見たっていうか、目がクラクラ? 頭がクラクラ? しているのか焦点が定まっていなかったけれど。目が渦巻きになっている。
「どうしたのかな?」
「うー」
「和泉ちゃーん? おーい?」
そうして何度か名前を呼べば、焦点が定まってきたのか数回瞬きをした。
良かった。色んな意味で壊れてしまったのかと思ってヒヤヒヤした。
「あの、兄ィさま」
「な、何?」
「きがえのおてつだいを、してもいいですか?」
「え、うん、そりゃもちろん」
いいよ、と吃りながら私は中途半端に袖へ通していた腕をパタパタはためかせた。随分あっけらかんとした態度の和泉に、はて? さっきのは何だったのかと心の中で首を捻る。
さっきのごめんなさいって何のこと? と着替えさせてもらっている最中にでも聞いてみようか。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「今日も来てしまいましたわ野菊様!」
「元気いっぱいだね松代」
夜見世が始まった。
松代様が興奮気味に私へ向かって抱きついてくる。襖を開けられて早々正面から来られたので思わず後ろへ反りそうになった。寸でのところで足を踏ん張り受け止めたけれど、衝撃が凄くてやっぱり逃げりゃ良かったかもと冗談半分で思う。けどなんか可愛いからやっぱり受け止めて良かったとも思う。
「あっやだ、ごめんなさい、私ったらはしたないわね」
「そこも松代らしいから大丈夫」
一拍置いたあと、抱きついたことに焦った声を出す松代様は上目遣いで私を見てくる。
小動物みたいって、こんな感じな人のことを言うんだろうな。
「それは、褒められてます?」
「もちろん」
顎下に来た頭を撫でてあやすけれど、地味に彼女の簪が喉辺りに当たって痛い。鋭利な凶器にもなり得るそれは、絶対に松代様の趣味じゃないやつだ。粗方彼女の父親の趣味なのだろうと薄々悟る。以前にも似た感じの、簪ではなかったけれど着物を着てきたことがあった。いつもと雰囲気が違うから新鮮だね、なんて褒め言葉とも微妙な感想とも取れる声を上げたら『父上がお前に似合うと言って、先月贈ってくださったの』と言う。おやじフィルターには松代様がどう映って入るのだか、普段から可愛らしい感じの柄と色で、彼女自身も青より桃色が似合う。冬様が綺麗系なら、松代様は逆にかわいい系。だから大人っぽい紫や黒の色や曼珠沙華の柄を着飾らせると、松代様の場合は色々不自然に見えてしまう。子どもが背伸びをしてお化粧をしているような感じだ。別に悪いとは思わないけど、それくらいの違和感はある。
それと松代様ごしに、彼女の父親からの妙な圧力を感じる。
これはそう、なんていうか、わざと自分の娘の身なりを悪くして、相手の男を牽制しているみたいな……。
『松代は可愛くないから、さっさと離してくれ』
と遠回しに言われているような気もしなくはない。
しかし残念ながら松代様は変わらず可愛いし、もしそう思われているのだとしても自分から客を離すことは出来ないので、意味はないのだが。
「松代様、こちらへどうぞ」
「ありがとう梅木ちゃん」
立ったままの私と松代様を、屏風の前にある座布団へと梅木が促してくれる。
和泉は梅木の隣に立っていて、後ろに付いていた。あれから結局何が「ごめんなさい」なのかを聞いても一向に口を割らなかったけれど、楽しそうに着替えを手伝ってくれていたから愁いは晴れたんだろうか……。
「松代はあれから大丈夫? 気分が悪くなったりしていない?」
「昨日のことですか? 全然大丈夫です。むしろ野菊様の背中にしがみつけて良かったですわ」
赤い座布団に二人して腰を落ち着けた。
昨日の今日でまさか来てくれるとは思っていなかったから一応大丈夫だったのかを確認する。あんなキモ男に刃物をちらつかせられるなんて、お嬢様の松代様には結構衝撃的だったのではないのかと心配だった。本人が大丈夫と言っているなら大丈夫なのだろうけど、今日松代様が持ち込んで来たお酒の量が半端ない量なので、気が気じゃない。
松代様の家は老舗の大きな酒屋さんで、江戸城の殿様にも献上されることが多い。よく妓楼にも松代様の家は酒を寄付してくれるので、そんな日はこちらも大盤振る舞いで色々なお酒を奢らせてもらうのだけど……。そういう時はだいぶ飲んでいって、酔っぱらってしまう。
「梅木、三味線弾いていて。なんでもいいよ、心休まる曲ならなんでも」
「分かりました」
口元に手を添えて、こそっと梅木に耳打ちする。
「あまり盛り上がると酒を飲む速さが尋常じゃないからね。和泉は梅木の隣に置いてやってくれ」
「はい兄ィさん。じゃあ和泉、僕の三味線を持ってきて貰えるかな?」
「はい!」
和泉が部屋の隅にある三味線を取りに行った。
「あぁでも、気分を害すといけないから出来るだけ彼女が好きそうな曲……桜乙女や春之宵十三ノ月でお願い出来ると助かる」
梅木は私の色んな注文に分かりました、と頷くと襖の横に座り込んで弾く準備を始める。
「今日は美味しいお酒をたくさん持ってきましたのよ。……そうだわ! 私と飲み比べ勝負をいたしません?」
「君と飲み比べ?」
松代様は良いことを思い付いたとでもいうように両手を叩く。座っているのに飛び跳ねているようで、私はそれを目を細くして眺めた。
まさか酒を飲ませ過ぎたらいけないと気を付けていた矢先に飲み比べの提案を本人からされようとは。
梅木が心配そうな目で私をチラッと見た。
「飲み比べか……」
どうしようかと彼女の頭を撫で付けて暫し考えに集中するけれど、飲みたいなぁと愚図っている松代様の声がいちいち耳に貼り付いて取れない。
駄目だ駄目。
「良いよ。じゃあもし先に潰れたら、罰として」
「罰として相手の言うことを何でも聞く、というのはどうでしょう! 楽しそうな案ではないですか?」
「え? うーん」
私としては罰として口を聞かないという提案をするつもりだったのだけど、そんな風に楽しそうに言われたら意見をへし折ることが出来ない。
口を聞かないという賭けをしたら、もしかしたら飲むのを控えてくれるのかもしれないと思ったのに、今日の松代様は私の思考クラッシャーだ。ことごとく提案が潰れていく。
「しょうがない。分かったよ」
「本当ですか? 先に潰れたほうはなんでも言うことを聞くのですよ? 絶対ですよ?」
「なんでもね」
どこからそんな自身が湧いてくるのやら、松代様は私に勝つ気でいる。彼女はある一定のラインを越えてしまえば酔いが回り始めるので、そこを分かっている私としては簡単な賭けだった。松代様は酒屋のお嬢様だけれど、こと自分が飲めるお酒の量に関しては疎いところがある。
「負けませんわ!」
「松代、身体は大事にするんだよ」
それからは、男衆が部屋の前に持ってきていてくれた酒の入っている大量の栓付き徳利を、和泉がおぼつかない足取りで一生懸命部屋の中に運んで来てくれたりした。私はその間を上手く使い、急にお腹へお酒を入れるのはまずいので、下働きの男衆に軽い食事を持って来させてつまみのような物を彼女に食べてもらう。松代様の好物は数の子と鮪の刺身で、その他にも色んな食べ物を用意した。残念ながら彼女の好物は私の嫌いな数の子なのだけれど、私も共に食べる事を毎度強要されるので苦しみながらこの時間を乗り越えていく。
私が用意した松代様専用の盃はすでに彼女の手にあり、和泉が持ってきたお酒をその盃に注いでいった。
一杯目はお互いにゆっくりと喉へお酒を流し込んだ。選んだお酒は比較的甘口のお酒。彼女自身甘口が好きなようだから選んだのだけれど、油断するとあっという間に酔ってしまうのが甘口の悪いところ。なので途中から違うお酒に変えたり水を休み休み飲ませては、松代様の酔いが酷くならないように努めた。
飲み比べなので私も松代様と同じようにお酒を飲んでいるけれど、酔いは全然回っていない。仕事柄、酒にのまれてはいけないのだと心して身体に教え込んでいるせいか、飲んでも飲んでも酔うことはなかった。それに彼女より先には絶対潰れられない。潰れてたまるものですか。
「そういえば野菊様、お母様から聞いたお話なのですけど」
二十五杯目に差し掛かろうとした時、松代様がそう言ってお猪口を畳に置いた。
呂律が回っていないわけではないけれど、ほんのり頬に赤みがさしている。
彼女が飲むことを中断したので、私は直ぐ様近くに置いてある水をお碗に入れて松代様のお猪口の隣に置いた。
「松代の母君?」
「竹取物語って知っていますでしょ?」
「なよ竹のかぐや姫か。懐かしいなぁ」
古文をおやじ様から習ったときに、竹取物語もやった。もしかしたらかぐや姫が男だったりするのかもとか思ったけど、そこはやはりかぐや姫も女で変わりは無かった。なんだ、と安心した手前少しつまらないと思ってしまったのは内緒である。
しかしそれがどうしたのだろう。
「かぐや姫は五人の男性に求婚されたのに、なぜ誰も好きにならなかったのだと思います?」
「それは……好みが違ったんじゃない?」
「ぶっぶー」
違いまーす!と両腕を×にしてこちらに乗り出してくる。やはり大分お酒が回っていたのか、酔っぱらいのノリになってきた。松代様の酒癖は悪い方ではないけど、時折頭のネジが吹っ飛んでしまう時がある。詳しいことは言えないけれど、一度は閨寸前の行為をけしかけてきたことがあって色々大変な思いをした。どうにか鎮めたけれど、経験というものは人を強くするものなのだと人知れず悟った。 だからあまり酔わせないようにと気を付けていたのに、またしくじるとは私も大分駄目な男だと思う。
そもそも松代様は私(花魁)に対してそのような事ができる立場であり、拒否をする私がいけない。しかしこればかりは仕方がないので、私はそれを倍で返せるような努力をしていこうと思う。
「かぐや姫はこの世に降りて下界を見るかわりに、恋する心を天の神に取られていたのですって」
丸い格子窓から見える月を眺めては、うっとりとした表情で私を見た。
今日はちょうど満月で、光輝く夜のお天道様が良く見える。
「初めて聞いたなそんな話」
「私もお母様から最近聞いた話ですので、なんだか他の人にも話したくなってしまいましたの」
松代様はそう言うと、まだまだ話し足りないのか、隣に居たのに私の正面へ回った。それはもうニコニコ笑っていて、酔っていても饒舌な彼女に拍手を贈りたい。
しかし松代様がお母さまから聞いたという話が、妙に私の気をそそる。
「他にも何かあるの?」
「もともと月にいた時は成人した月の巫女だったらしいのですが、下界を近くで見てみたいという彼女の願いを神様が叶えたのだと聞きました」
月の都にいた輝夜という巫女が成人女性だったという話はちらっと聞いたことがあるけど、それからどうやって竹の中に入ったのかは知らなかったのでフムフムと頷く。こういう手の殆どの話は、都市伝説みたいな嘘か本当かも分からないものなので、娯楽として聞くには面白かった。
私自身、捏造裏話とか大好きなので聞いていて楽しい。
って、私が楽しませてもらってどうするんだ。
「けれど万が一にでも下界で恋をして、天に帰るのを嫌がってしまってはいけないという事から、彼女を下界に降ろす際に恋も知らぬ赤子に戻して、恋する心を持たぬよう心を抜き取ったらしいのです」
恐ろしいわ、と松代様は自分の肩を抱く。
それを聞いていた私は、これはまるで異国にある人魚姫のようなお話だと思った。
代償こそは違うけれど、人魚姫も陸の世界と王子様に憧れて、魔女から声を無くす代わりに足を貰っている。松代様の話では、かぐや姫は恋する心を失う代わりに下界へ降ろして貰っていたらしいけど、いつの世も願いを叶えるには自分の身を削るような代償が無いとダメなのかと苦笑する。そりゃタダで願いを叶えるなんていう都合の良い話はあまり無いから、それが普通なのだろうけど。神様だって魔女だって、きっとそれなりの労力を使うのだろうし。
無料で何回も願いを聞いていたら、この世も条理も可笑しくなってしまう。
「あら、飲んでいた最中でしたわね」
「いいよ。それよりこれをお飲み」
私は襖近くにいた梅木に頼み、冷たい水ではなく白湯を松代様に持ってきて貰った。またお酒を飲みそうになったので、肩を支えながらお酒だよ、とホラを吹いて湯のみを口へ運んであげる。これお酒じゃないわ野菊様、と直ぐにバレたけれど、大人しく飲んでくれているので良しとした。
「けれどかぐや姫って、幸せだったのかしら?」
白湯を飲んで一息ついた彼女は、湯のみの口を付けた部分を親指で拭う。
「どうして?」
「恋を忘れるなんて、女としてあり得ないことだわ。しかも五人の殿方から求婚されていますのに、それを棒に振るなんて。私だったら五人とも受けますのに!」
「それは……すごいね」
「ただし、野菊様のようなお人だったならば、のお話ですけど」
冗談めかして舌を出す。
吃驚した。いくら女の人が狼みたいな世界でも、流石に見境なく男の人に飛びつくとなると色々怖い。あと酔っ払いの発言は危ない。
「でもかぐや姫は、月の都で罪を犯したから下界に罰として下ろされたのではなかったかな。終盤にそんな記述があったと記憶しているのだけど」
かぐや姫というお話は、理想郷である月の都で彼女が大罪を犯したために、罰として天では汚れた世界と言われている下界に送られたと書かれている。その罪というのは詳しく描かれていないから分からない。
「あら、でもお母さまはこうも言っていましたわ」
「何?」
「五人の求婚を断ったのは、実はかぐや姫が月で犯した罪が男女関係のことだったからなのだと。なので異性とそのような関係になるのを拒むことこそが彼女が受ける罰であり、恋心も無くされ、誰とも恋をすることは許されないという事です。……かぐや姫はきっと、誰かの旦那さんに手を出したのではないのかしら」
やりますわね、流石かぐや姫ですわ。
なんてかぐや姫に尊敬の眼差しを向ける松代様に、私はため息をついた。
「俺が言うのもなんだけど、それはやめてね? 分かった?」
「もちろん! 野菊様しか見ませんわ!」
そうだけど、そうじゃないよ松代。けれどそんな所も可愛いから項垂れるしかない。
「けれどどちらにせよ、かぐや姫が恋心を無くしていたのは間違いないのです。最後は帝に何か感じたものがあったのか、不死の薬を渡して去ったようですけれど。あまり良いお話ではないですわね」
「忘れてはいたけれど、奥底では好きだったのかもしれないね」
酔っ払いとは思えないくらい饒舌になっている松代様だけれど、話を一度区切ったと思えば、私に手を伸ばしてすり寄って来た。
胸辺りに顔を押し付けて来るので、気分でも悪くなったのかと心配になる。
彼女の顔をそっと覗きこんだ。
「野菊様……」
「松代、気分が悪い? 横になろうか」
「今日、今日なのですけど、朝まで共にいては駄目ですか」
そう恥ずかしそうに言われた一言に、私の動きは一時停止する。
松代様、今なんと。
「何もいたしませんし、隣で寝ていただけるだけでよいのです!」
お酒のせいなのか拒否されるのが嫌なのか、涙目になって訴えてくる。
梅木の三味線の音がベンッと一度途切れたけれど、直ぐに持ち直して弾き続けていた。梅木のほうも私と同じく動揺したらしい。
「でもその、君の家の人は?」
「言ってありますわ」
昨日怖い思いをさせてしまったこともあるし、あまり拒否するのも可哀想だった。
しかし何故か胸より胃が痛い。
「松代、その簪は誰かからの贈り物?」
「え、これですか? これは今日父上から頂いた物なんです。せっかくだから付けていってみなさいと言われたので差したのですが、似合いませんか?」
「ううん。粋だと思うよ」
けれどこれで何故松代様の簪がいつもと違うのかが分かった気がする。
娘からそんな話を聞かされたら、父親はいてもたってもいられないだろうに。松代様自身、基本夜を明かすことは以前通っていた妓楼でもあまり無かったようで、本人でも自分は珍しいほうだと言っていた。
だからそんな娘に慣れきっている父親は、一夜を遊男と明かすなんて寝耳に水だったはず。それ故に牽制とも取れる簪を差させたのかもしれない。
「駄目と言われるのは承知です。承知ですけど、私……昨日思ってしまったのです」
「このまま死ぬのは嫌だと。死ぬのなら、最後になるのなら、どうせなら、一度でも良いから好きな御方と一晩共に明かしておけば良かったと」
最後のほうは目を瞑ってそう言われる。
長浜が部屋へ刃物を持ってやって来た時のことだろうか。
大丈夫とは言っていたが、やっぱり怖い思いをしたのは間違いなく、松代様をこんな気持ちにさせてしまった長浜を私はきっと一生許せない。あんな豚蛙、焼かれてしまえばいいのに。
「松代」
松代様の頭から鋭利な簪を引き抜いて、赤茶色の髪に触れる。
パサリと束ねていた部分は肩に落ちた。
「分かった、朝まで一緒にいてくれるんだね」
「はいっ」
「嬉しいよ」
そんな私の言葉に、本当ですか? とお伺いをたてた後、わーい野菊様! なんていう掛け声と共に、座敷に来たとき同様抱きついてくる。最近は誰かに抱きつかれることが多い気がする。
「でも松代、これは誰にも言ってはいけないよ。もちろん冬にも言わないでおくれ」
「わかりましたわ、家の者にも釘を刺しておきます!」
「……俺はいつか刺されそうだな…」
女の人に。
閨を受け付けているような遊男だったなら全然問題はないのに、普段からやらないから、他の客にも同等のものを与えないといけないのに。これでは贔屓と言われてしまっても仕方がない。
朝から晩までこんな感じで、心休まずってまさにこの事を言うのだとため息を吐いた。もちろん松代様に気づかれない程度に。
「梅木」
「はい」
彼女を座布団に座らせたまま、私は三味線を弾いている梅木に近づいた。近づいてくる私に気づいた彼は演奏を中断して立ち上がる。
「おやじ様に、今日は閨……いや、うん。片瀬様と朝まで一緒に過ごすことになったと伝えてくれ」
松代様に聞こえないように小さな声で話す。
片瀬とは松代様の家名だ。
「分かりました。……大丈夫ですか?」
「まぁね。男は度胸さ」
しかし、度胸があってもどうにもならないことはあります、と梅木に小声で言われる。
「だって昨日あんなことがあったし、それにあんなことを言われたら余計に断りづらいだろう?」
「でももしそのような流れになったらどうするのです? またバレぬ程度の床技を使って誤魔化すのですか?」
「誤魔化すって、人聞きの悪い……」
「僕は貴女……兄ィさんを心配しているんですよ。どうしても夜を共に明かすと言うならば、閨の前にサラシをきつく巻き直してくださいね。手伝いますから。それと」
「ま、まつよ様っ」
「かぁわいいわねぇ~よしよーし」
和泉が酔っぱらいに絡まれている。抱っこされてどうしたら良いのか分からないのか、あたふたと手を振る和泉は確かに可愛い。松代様が頬をすりすりする気持ちもわかる。
さっきまで酔いを感じさせていなかったのに、いきなり壊れ始めた。一晩過ごせると分かってホッと気が抜けたのかもしれない。
けれどあの様子だと、彼女はそろそろ眠りに入りそうだ。瞼は半開きで、たまに欠伸をして涙目になっている。目を手の甲で擦る松代様の仕草は小さい子どものようで、とてもじゃないけれど私を襲ってくるような雰囲気は微塵も感じとれない。これだったら朝まで寝てくれれば心配はないし、隣で見守っているだけですむ。
「そういえば松代様の迎えの人は?」
「それが、今の話を聞いたから納得できたのですけど、どうやら最初から泊まるつもりで来ていたようで。いつもならそこら辺の酒屋で待っているのですが、番頭によると直ぐに吉原の大門をくぐって出ていったそうですよ」
なるほど。
梅木と私は、和泉を抱きながら畳に伏せって寝ている松代様を見る。いびきをかかないので寝ていることに気づかなかったけれど、途中から話し声が聞こえなくなっていたので、やっぱりなと笑った。硬直している和泉と目が合えば、口をパクパクしているのが見えて『にいさま』と私を呼んでいるのが分かった。あれは完全にビビっている。第三者から見れば、美女が子どもを抱いて寝ているという微笑ましい光景なのに、和泉の青い顔色のせいで人間に食用として狩られた兎みたいに見えた。
でもあれは松代様にビビっているってより、 酔っぱらった人にビビっているように感じる。
なるほどね、和泉は酒飲みの酔っぱらいが苦手なのか。
「あ、」
しかしこれじゃあ清水兄ィさまに話が出来ない。ということに今更ながら気づく。
「どうしました?」
「ううん、なんでもない」
私は梅木の肩を叩いて、和泉を松代様の腕から救出しに向かう。
しょうがないので、明日の朝兄ィさまの部屋の前で待機をすることに決定した。




