始まる 受難の日々 29
おやじ様の部屋は広いけど、物があまり無くてつまらない。清水兄ィさまのように白い布をあちこちに掛けているような殺風景さではないけれど、眺めるような物が無いのは退屈だ。おやじ様には煙管という大変有害な娯楽があるから良いけど、吸って吐かれた空気をただただ吸い込まされている私はどうしたら良い。副流煙で早死にしたらどうしてくれる。
「おやじ様」
「なんだ」
「臭いです」
「ジジィが臭いのはいつの時代もご愛嬌だ」
そうじゃないわ。
「野菊?」
加齢臭と勘違いしているバカおやじの相手をしていると、楼主部屋の戸襖が開かれる。
と同時に私の名前も呼ばれた。
「あ、凪風」
「もう出ていいよ」
座りながら振り返って見てみれば、凪風が私を迎えに来ていた。一声、来なよ、と声を掛けられたので私は腰を上げる。
ハイハイ分かりました。
「ニャーン」
よっこらしょと片腕をついて立ち上がれば、離れたところに座っていた護が私の足元へ喉をゴロゴロ鳴らしてすり寄ってきた。よしよしと屈んで頭を撫で付ける。
一方チャッピーは相変わらず凪風の肩に乗っていて、もはやそこが定位置となっていた。私から凪風に浮気をするとはいい度胸をしているじゃないか、チャッピーよ。
「チャッピー、おいで?」
「ゲ、ゲコ(すまん、行かん)」
なんで!
そこの悪魔より私のほうが嫌ってか!
凪風の髪の毛の中へピョンと隠れたチャッピーを見て、下唇を咬む。
いつからそんなに仲良しなっていたのか甚だ疑問だけど、チャッピーに拒否されたショックは海よりも深い。悲しい。寂しい。
「うっグスン。……それで? 凪風は何してたの?」
「色々ね」
色々って何だ。気になるじゃないか。
「それよりおやじ様、変なことを野菊に言ってませんよね」
「変なことって何だ? お前の恥ずかしい秘密とかか?」
私の質問を軽く流した凪風は、近くで浮く煙を手で払いながらおやじ様に声をかける。
けれど彼の問いの意味が分からないのか、話しかけられた当の本人は首を捻るばかり。その様子に凪風は若干イラッとしたようで、眉毛をピクピクさせていた。
でもそれより私が気になるのは、凪風の恥ずかしい秘密、の部分。一体どんな秘密が……。
「例えばさっきの紙の内容を、それとなく伝えたりとか、ですよ」
「教えてねぇよ」
「へー。そうですか」
怪しげな視線を送る相手がおやじ様ならともかく、私に向けながら「ふーん」と言うこの男。別に知らないし、とそれとなく視線を右にずらすと、凪風はおやじ様から煙管をヒョイと取り上げて袖口で煙管を磨き出す。
「新しいの買ったらどうです?」
「その古いのが良いんだ。耳の裏をかくのに丁度良くてな」
磨き終わった煙管を凪風がおやじ様に返すと、そう言って早速耳の裏をかき始めた。
「じゃあおやじ様、失礼します。あぁ後、煙草が表に届いてましたよ」
「はいよ。気ぃつけてな」
「私も失礼します」
スパスパとニコチン中毒者みたいに煙管を吸い続けるおやじ様を横目に、座布団をチョンと足で蹴飛ばす。まぁ蹴飛ばすと言ってもただ蹴飛ばしているのではなくて、もとあった位置に戻しただけだ。けれどそれを見ていた凪風は、足癖が悪い、とジト目で私を見て来る。別に座敷では足癖の「あ」の字も出していないんだから、私生活でくらい足が出たって良いだろうさ。それに凪風だって足癖が悪いの知ってるんだぞ。蘭菊によく足で蹴りを入れているのを私は見逃してない。少なくとも他人に危害を与えていない私の足は、こいつよりマシなはず。
足元にいる護を腕に抱き上げて凪風と向かい合う。
「じゃあ行こう」
「うん」
奴と一緒に楼主部屋から出て、お客を迎える予定である一階の座敷の廊下を歩いた。妓楼の中は夜見世にむけて賑やかになっていて、私も気持ちを入れ換えて仕事に臨まなければ、と胸に手を当てる。
いつまでもムカムカしてちゃしょうがない。こうなれば部屋に置いてある水がめに頭でも叩きつけて思考をリセットしよう。大丈夫、赤いドロドロの液体が出ない程度にするから。
「おー凪風、と……女!?」
「あぁ、この人野菊ですよ」
廊下で指をさしてくる男衆に、凪風がこれまた同じように私を指さして言う。
さっきからすれ違う番頭さんや下働きの人達に「野菊か!?」と身体を仰け反らせて吃驚されていた。度々そんな反応をもらうので、正直嘘臭くも見えてくる。またまたそんなに驚かなくても、と思ったけれど、もし皆が女装していたら私も余裕で驚いていただろうなとも思ったので、そこは一人納得した。性癖をうっすら疑ってしまうくらいには。
「十義さんから聞いてません?愛理も着てましたけど」
「愛理は知っているが野菊のこたぁ知らねぇっすよ」
「あんなに総出で捜しまわってたのに?」
「捜していたのは知っていましたけど、こんなんになってるなんて誰も言わなかったぜ」
「へぇ、そう。………男衆に見せたくなかったのか」
そうして顎に指をあててニヤリと笑っている凪風を、私は不審な目で見つめる。ただの何気ない会話が一気に悪代官達の会談に見えてきた。
「護、あの人怖い」
「ニャー(安心して。何かあったら顔引っ掻いてやるから)」
ひと鳴きでそんな長ったらしいお言葉を護から頂く(あくまで野菊の解釈です)。腕の中で私に抱っこされているっていうのに、まるで私が護に抱っこされているみたいだ。なんだろう、抱擁力があるってこういうことを言うのかな。とにかく格好いい。
「護が人間だったなら、きっと男前な美丈夫だったのかもしれないね」
「ニャーン」
「髪はそうだなぁ、茶色で猫っ毛。それに猫目で、肌は白くて、赤い紙紐で一つ縛りで、」
そうやって思い描いているうちに脳裏へ浮かんできたのは、この世界に存在していない一人の花魁の姿だった。
記憶が正しければ、それは浅護という人で、今私が上げたような特徴を持っている人だった。
「ふふ。もしかして、浅護だったりする?」
「ニャーム」
「んなわけないか」
護の背中を撫でて目を閉じる。
「野菊、ほらさっさと行くよ」
「自分が話してたんじゃん!」
気がつけば凪風は前に進んでいて、周りにいる男衆は私をじーっと見ていた。やめてくれ、そんなに見るな恥ずかしい。
小走りで凪風に追い付けば、思いっきり足を踏みつけた。
確かに私の足癖は悪い。
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隅でいいです。構わないでくださいよ。2巻
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