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始まる 受難の日々 26

 泣きながら朝を迎えた事は、今までに数回あった。

 一、二年に一度くらいの頻度で。でも頻度と言うのもおかしい気がするから、そのぐらいの回数はあるけれど滅多にないと言ったほうがいいのかもしれない。

 まぁとりあえず、一回はあったってこと。

 起きた直後には何故涙を流しているのかをうっすら覚えていたこともあるけれど、それは本当に、0.1秒くらいの早さで記憶にモヤがかかり、だんだん何で泣いていたのかが分からなくなる。

 でも確かに覚えていたのも事実で、私はそれを忘れてしまったけれど覚えていたことは忘れていなかった。


 でもまぁ、結局忘れてるのだから何を言えるわけでもないのだけれど。



「ん……」


 額にある前髪が持ち上がった感覚がする。

 梅の香りと、外でのびのびと泳ぐ少しひんやりとした風が、頬を掠めた気がした。

 鼻はつーんとして、眉間は僅かに熱を持っている感じもする。

 一方それに比べて目蓋は妙に涼しい。というより冷たい。だからなんとなく手で拭った。

 でも手で拭ったのはいいけれど、そしたら今度は手の甲が冷たいものを纏った(ついた?)。

 なんだろう、と閉じていた目蓋をそっと開けてみる。


「………」


 瞬きを数回繰り返して目を慣れさせる。


 胸元には白、茶、黒のマーブル柄の三毛猫護がいた。その下には崩れた綺麗な帯がふにゃりとへたれている。へたれているけれど、やっぱり良いものはへたれていても綺麗なんだと思った。

 私はそれほど目が効くほうではないけれど、高いものは見た目も雰囲気も違うと感じる。

 次に目に入ったのは、誰かの着物の袖。赤ではない、黒に近い藍色の着物だった。私の着物じゃないなと思いながら、視線を下から上にむけて、ゆっくりと移動させる。


「へ……」


 私の下顎は一瞬で力を失い、口がパカリと開いた。


「大丈夫?」


 その分、瞬きが三倍に増える。私は今、目をパチパチし続けて間抜けな表情をしているに違いないけれど、目の前にいる人はそんなことお構いなしに笑いかけてきた。


「え……に、さま」


 言葉が途切れ途切れになる。


「起きた?おはよう」

「おはよ、ございます」


 藍色の着物の正体は、膝に肩肘をつけて私の髪をいじる清水兄ィさまだった。


「う、うそ」


 そう言って思わず片手で口を塞ぐ。

 私はヒッと喉をしゃくり上げて後退りしようとした。しかし私がもたれて寝ていたのは木であり、後ろに進むには木を避けなければいけないのだが、そんな反射よく出来るはずもないので、ただ背中を木に押し付けるだけに終わる。

 そしてその私の振動に、腕の中の護がニャアと鳴いた。

 え……何故に護?今更だけど。

 この場所に来たときは一人きりだったのに、いつ来たんだろう。いつも神出鬼没だから特に不思議には思わないけれど。


「怖くないから、逃げないで」


 私の目元を、兄ィさまは親指でそっと拭った。

 私はどうやら泣いていたらしい。そこまで兄ィさまを怖がったわけではないが、そもそもこれは兄ィさまを見るよりも前に流した涙だし心配はいらない。自分の目元を拭った手の甲には、キラリと水がなびられていた。


「なんで、ここに兄ィさまが」

「私だけじゃない。ほら」


 ほら、と言って肩越しに斜め後ろを指さす。


「な、なななな」

「ニ゛、ニァァッ」


 指につられて視線を投げれば、そこにはこちらをじっと見つめてくる遊男の皆がいた。

 私は護ごと自分の身体を抱き締める。

 そして目ん玉が転げ落ちそうなくらいカッと目蓋を開いた。

 なんかあっちの人達、凄いこっち見てる。すっごい見てる。

 蘭菊とか普通にいるし、相変わらずアホ面ぶら下げて口を開けてポカンとしていた。なんだあれは。

 秋水は縁側から降りてこちらへ来ようとしているし、宇治野兄ィさまとか羅紋兄ィさまも秋水につられて足を動かし始めた。朱禾兄ィさまは両目に人差し指と親指で丸を作った手を当てて、眼鏡みたいにしてこっちを見ている。

 梅木や佐久穂に、他の新造や禿まで……!


「…っ」


 何故この場所がバレた!

 見ればまだ日は高い。それほど寝転けてはいないはず。それに食堂にいるはずの人達が何でこんなに沢山いるのだ。彼女はどうした。 

 

 改めて下を向けば私はまだ引き振袖のまんま。胸はサラシをしてないし、ついでに言えば帯が取れているから若干襟がずれて胸元が外気にさらされている。


「兄ィさま、私失礼します!」


 サッと腰を上げて襟元を掴み、護を片手に抱きながら逃げようと足を踏み出した。

 けれどそんな私に対して、護は綺麗な着物をガリガリと爪研ぎをするように引っ掻き、まるで『行くのは気分じゃねーんだ』と行くのを嫌がる感じで私を追いやろうとする。

 ちょっと護!

 昔は『僕の恋人だ!』って言ってくれたじゃん(おそらく)!

 今はその恋人のピンチだぞ!


「駄目」

「ぎゃっ」


 そうモタモタしている内に素早く片手を引っ張られて、身体が後ろへと倒れる。

 思わず首に力が入った私は、奇声を上げて目をつむった。


「そんな格好でどこに行くって?」


 そのままの勢いで、私は兄ィさまの腕の中に引き込まれる。

 そして衝撃と同時に、護は腕から離れて地面に降りた。


「……部屋とか」

「ふーん?」


 部屋ねぇ、と含みで笑われた。今私を馬鹿にしたな兄ィさま。

 逃げさせまいとしているのか、力強くぎゅっと抱き込まれている感じがした。十六歳になったっていうのに、やっぱり体格差が大きいのか相手の身体にスッポリと包まれている。悔しいんだかなんだかな。

 後ろから抱き込まれている状態になって、布越しに当たる自分の背中の体温と兄ィさまの胸の体温がが重なる。やけに熱かった。自分が熱いのか相手が熱いのかどちらかは分からない。

 身体は両腕でガッチリと鍵がされていて、抜けようにも抜け出せないし。


「む……」

「ん?」


 だというのに。

 こんな時だけど、あぁ良い匂い、とか思ってしまう私はやっぱり変態なのだろうか。気だるい眠りを誘うような、爽やかって言うより穏やかな香り。秋に香る金木犀のような。

 懐かしの香りとか思い出の香りってある人にはあると思うんだけど、この匂いはそんな感じで落ち着くんです。

 木漏れ日が眩しくて目を閉じる。


「昔から思っていたけれど、野菊は少しお馬鹿さんだよね」


 どこが馬鹿だ。失礼な。


「ばっ馬鹿ではありません!注意力が足りない点は、自分でも感じますが……」

「お馬鹿は注意力が足りないんだ」

「ちょっと!」


 どうする私よ。逃げるか?逃げるか?


「それにこんな格好、してはいけないよ」

「別に……もともと、したくなんてなかったです」


 口を尖らせて拗ねる。

 こちとら好きで振り袖を着たわけじゃないんだ。兄ィさま相手に拗ねるなんてお門違いだけど。


「だろうね」

 

 私の態度を気にするでもなく、安心したような声色で頭を撫でられる。


「でも………あぁ。本当に―――…で困る」

「はい?」


 しかしそれも一瞬で、直ぐに含みのある声に戻った。

 

「ねぇ野菊。何かあった?」


 次いで彼は体勢を整えて、私の向きをクルリと腕の中で180度変える。さっきとは違い正面から向き合うと、兄ィさまは近距離でこちらの瞳を覗き込んできた。

 とても近いので相手の胸を押して距離を作ろうとするけれど、うんともすんともいわず、兄ィさまの胸にただ手を添えた形になる。

 なんて筋肉だ。


「何か、とは」


 毎回そりゃもうそうなんだけど、この人はよく目を見てくる。真偽を見分けられてるような、奥を覗くようなその黒い瞳。


「愛理と」


 私はギクリと息を呑む。つい頬がひきつりそうになった。

 なるべく顔をあまり見られないように正面から視線をずらす。


「正直に言ってね」

「……」

「何かされた?」


 私が明後日の方向に視線をやると、兄ィさまは念をおしてそう言ってきた。

 そして頬に手をあてられて、やんわりと正面を向かされる。せっかくずらしていたのに容赦がない。

 それにそうしている間にも、秋水達や他の皆がこちらへやって来ているのが目に入る。

 や、やめて。来ないで。


「君の着物が崩れているのは何故?」

「……」

「どうしてここにいたの?」


 兄ィさまには、なんと言ったら良いのか。

 着物が崩れたのは愛理ちゃんが引っ張ったからです。……とか?いやいや、言えないだろう。言ってどうする。じゃあ転んだので、とか?でも、それも逃げた理由にはならないか。

 けれど兄ィさまのこの言い方、まるで愛理ちゃんと関係があるのを確信しているような言い方だ。

 兄ィさまは一体何のためにこんな質問を……。


「お前、そんなに着たくなかったのか?」


 その声に、兄ィさまへの注意が削がれる。

 後ろから(私からすれば前)秋水を追い越した蘭菊が小走りで来て、腕を組みながらそっぽを向き、私へそう言ってきた。

 そんなに着たくなかったのかって、いや……あれだけ皆の前で嫌だと言っていたじゃないか。忘れたのかコイツ。


「……じゃあ蘭ちゃんが着る?」

「着ねーよ!!」


 兄ィさまの腕の中にいる私は、その(かいな)に抱かれながら溜め息を吐いて、蘭菊を見上げた。


「でしょう?そうでしょう?その気持ちと同じです。ご理解いただけたら恐縮ですね」

「お前なぁ」

「まぁ、蘭菊。野菊にとっちゃそうなんだろう?あんまり騒いでやるな」


 羅紋兄ィさまが、呆れた声を出す蘭菊の肩を掴んで笑う。理由についてはあまり聞こうとは思わないのか、私を見るとニッコリと笑って『すげぇ綺麗だぞ、野菊』と言ってきた。


「いやあの、こんな姿、ほめ、褒められても」


 照れるな私よ!お前は遊男だろう!

 この姿で今初めて褒め………られたので、どうして良いか分からず顔が少し熱くなる。

 さすが羅紋兄ィさまというか、昔からここぞというところを逃さず、引き際は良くてある意味要領の良い人だとは思っていた。

 こういうところが、遊男としては見習いたいとも常日頃思っている部分である。


 ……ちょい待て。話がズレた。


「いいえ、本当に綺麗で可愛らしいですよ。でも胸元は見せちゃ駄目ですからね?どんな気を起こす馬鹿者がいるやもしれませんし」

「兄ィさんて結構考えることエロ、うぇっ」

「黙りなさい」


 清水兄ィさまの後ろから私を覗き込んだ宇治野兄ィさまが、隣に来た朱禾兄ィさまの首を片手で締め上げる。秘めたる宇治野兄ィさまの本性が剥き出しになっていた。怖い。


「秋水兄ィさん何しているんです!?」

「お前、これ着ろ」


 そのまた更に後ろから、秋水が梅木を連れて何故か褌一丁で深緑の長着を差し出してくる。

 どうした秋水。いつこんな露出狂へと変貌した。

 隣にいる梅木は、コイツ正気か! というような顔で秋水の胸に手をあてて止めている。

 梅ちゃん全力で止めたげて。押し返してこの公然わいせつを。


「いいから、羽織るなりなんなりしろ」

「いやいや秋水、でもさそれ」

「そんな格好してたら風邪引く。それにお前は男だろ。こっちのほうが良いに決まってる」


 問答無用で頭から長着をかけられた私は、プハッと顔を布から脱出させて秋水を訝しげに見る。

 梅木とも目が合ったが、苦笑されたあとに視線を反らされてしまった。

 駄目か。外で褌一丁になる兄ィさんを持つのはたいへんだな。


「阿倉……やっぱ結構、清水兄ィさんと思考似てるよな、秋水」

「朱禾もそう思ってたか。俺もだぜ」

「わー!にーさまかわいいですね!」

「のぎく兄ィさまきれい!」

「のぎく兄ィさま女の子だー!」


 キャッキャと禿の子達までこちらに集まってくる。私が一人でいた趣のある庭は、いっきに小学校の休み時間の校庭へと変貌した。賑やかだ。




 そんな風にまわりが騒いでいる中、私は話途中だった清水兄ィさまへと向き直った。

 皆とのやり取りの途中でも兄ィさまは私から視線を反らしていなかった。

 ここまで真剣に来られては、こちらも反応せざるを終えなくなる。

 私は深く深呼吸をした。


「もし……もしも、私が、何かをされたとしたならば」

「……」

「兄ィさまは、どうされるおつもりですか?」


 笑いも泣きも一切なしで、見つめ返す。


「なぜ、そんなことを私に言うのですか?」




 兄ィさまは微笑んだ。

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