始まる 受難の日々 24
一月七日は人日の節句
三月三日は上巳の節句
五月五日は端午の節句
七月七日は七夕の節句
九月九日は重陽の節句
いずれもこれらは奇数であるが、その数が重なりあう日は悪いことが起こるとされている。
奇数は陽、偶数は陰。偶数は縁起が悪いものであり、奇数は縁起の良いもの。
けれど奇数が重なりあうその日は、奇数と言えども重なりあえば偶数になるという考えで、縁起の悪い日だと言われている。すなわち陰の気がはびこる厄日であるということ。
それを祓うため祝い事や祭りをして悪い気をとるというのが本来の目的であり、もとの理由なのだが、人々にはあまり知れ渡ってはいない。
知れ渡っていないというよりは、忘れ去られていると言える。
ただその日の行事を遂行し、祝いの意味も時代が変わる度に作りかえて楽しむ。
何も知らずに、ただ楽しむ。だから邪気を払えるのかもしれなく、特に悪いことでもない。
けれど見るものによれば、それがどんなに滑稽と映るのかも、分からないだろう。
◆◇◆◇◆◇◆
愛理は食堂に入り、遊男達がいるところへと寄って行った。
囲碁や花札をしていた者達は急いで立ち上がり、未だご飯を食べていた者はゲホゲホとおかずを喉に詰まらせながら口へとかきこむ。
「皆さんっ、遅くなりました。楼主部屋で着替えていたんですけど、思ったより大変で」
息を僅かに切らし、眉を下げて申し訳ない顔を見せる愛理に、周りの男達は「いやいや」と声を上げた。調理場から阿倉や花魁達と会話をしていた十義は、愛理が近くに来るやいなや上機嫌でその場から飛び出して行く。
その身軽でおちゃらけた姿に、正面で話していた清水や宇治野はお互いを見合い呆れた顔をした。
「おお!どっかの姫さん並に綺麗じゃねーか!」
両手を上げて自分を褒めちぎる十義に、愛理は頬を赤く火照らせてうつ向く。
そのさまもまた可愛いので周りからは次々と称賛の言葉がかけられた。新造や禿も自分達の兄ィさんが壁になって見えないが、無理矢理割り込んで見ようと隙間をぬっていく。
「ちょいと回ってみ?」
「そっそんな、恥ずかしいですよ」
「良いじゃんよ。ほら、クルリと回ってさ」
「無理です~」
いつもより妖艶な彼女の姿。
さっきまで着ていた着物とは違い、うなじが綺麗に見えていて、それでいて花嫁衣装のような引き振袖から少しのぞく足がとても綺麗だった。桜色の髪には梅の花と桃の花の簪がさしてあり、良く似合っている。
食堂の中心は一気に、華やかな娘を囲んでのお祭り状態となっていた。
渡し口のところで遠目に見ていた宇治野達も、愛理を近くで見てみようかと腰を浮かせたが、ふいにそれぞれの動きが止まった。
羅紋は顎に手をあてて唸るし、宇治野はまた腰をおろす。蘭菊は凪風を見て、凪風は愛理を見ていた。
『どっかの姫さん並みに』
愛理を褒めた十義の言葉に、宇治野が昨日話したことを思い出している。三人は『姫』という単語に意識を奪われていた。
昨日は閨だったためにそれを知らない清水は、湯飲みを片手に、皆止まってどうしたのだと宇治野の肩を叩いたけれど、叩かれた宇治野は「あとで教えます」と言って愛理の方を見ている。
唯一腰を上げようともしなかった凪風を見た清水だが、相手もこちらを見ていたようで視線が交わった。普通なら何かしら反応するだろうが、お互いそれに動揺することも驚くこともなく、ただじっとしていた。
何を話したワケではないが何かが通じている、そんな気さえ起こさせる。
秋水は和泉と風呂に入っていたので、もちろんそんな話は知らない。だから愛理のほうを見ていた彼は、皆のその姿に気がついていなかった。
「あ、蘭菊くん!」
何かを探るように見つめ合う二人は、愛理が声を出した途端弾かれるように視線を外す。
手を振られながら名前を呼ばれた蘭菊は『お、俺?』と自分に指をさして慌てた。さっきまで遊男達に囲まれていたので当分は抜け出すことは出来ないと思っていたのに、と、蘭菊はふいを突かれる。
んん、と喉を唸らせて宇治野を見ると、意をけしたように愛理のところへ歩きだそうとした。
しかし一歩目で止まると、近くにいた羅紋に目を向けてポソリと言葉をこぼす。
「昨日の話は、あくまで頭の中に入れとくだけです」
「ああ、そうだな。別にあいつの身分がどうだろうと、俺達には関係がないしな」
そう言葉を交わすと、蘭菊は愛理のもとへと行った。
「……いちおう、姿拝みます?」
「まぁ、悪いことじゃない」
「清水は行きますか?」
「私はまだいいかな」
蘭菊が行ったのを羽切りに、宇治野達はそれに続いた。
良く考えてみれば、愛理がどこかの姫だったとしてもそれは自分達にとって影響のあるものではない。彼女自身の問題であって、自分達に何が出来るわけでもないのである。本人がこちらに何も言って来ない以上、予想でしかないというのも事実。おやじ様がどう話をつけて妓楼へ入れたのかは預かり知らないところだが、模索しても仕方がないことだった。
「凪風?」
秋水も行こうとしたが座りっぱなしの凪風を見て、お前も行かないのかと頭を軽く叩く。
それに対し、痛いな、なんて言って頭を擦る凪風はやはり立つ気がないらしく、秋水は再び腰をおろした。
「どうした」
「どうしても見なきゃいけないって決まりはないでしょ」
「それは、そうだが……」
意外な彼の発言に秋水は言葉を濁した。
しかし意外ではない部分もある。凪風の愛理を見る目は、時折鋭くて、何をそんなに威嚇するのかと疑問に思ったこともあったからだ。
どうしてそんな目で見るのかを以前正直に聞いてみたことがあるけれど、それに対しての返答は『桜色って苦手なんだよね』と実に釈然としないもの。のらりくらりと本心を隠す友人のこういうところは苦手でもあるが、そんなところも含めての彼だとも思っているので、それ以上は聞かなかった。
それに、見れば清水も未だに座って茶を飲んでいる。随分長く飲んでいるが、冷めてないのかそのお茶は、と秋水は心の中で突っ込んだ。
呑気だなと思うのと同時に、この人は愛理にそれほど興味がないのか、とここにきて彼は改めて思った。
自分の気のせいだとは思っていたけれど、以前からこの兄は愛理に対して穏和なようで実のところ冷たいような気がしていた。
挨拶はしても、ただそれだけ。
たまに褒めるようなことを言っても、それは取りたくもないご機嫌を無理矢理取っているような、不自然な感じ。ほとんどの者はその違いに気づいてはいないようだけれど、ずっと彼と一緒にいる者なら薄々何かしら感じているだろう。
しかしそれは愛理が階段から落ちてからの話であり、凪風も同様だが、愛理が記憶を無くすまでは普通に接していたはず。
一体何があったのかと問い詰めたいところだが、すんなりと素直に答えてくれる二人ではない、と思い立って早々に秋水は諦めた。
「だいたい、あれは遊女の格好だよ」
「遊女って、町に一つ二つしかない女の妓楼のやつか?」
「最近じゃ女性にあんな格好している人が多いみたいだけど知らない?」
噂に聞く程度で、実物を見たことがない秋水は愛理のあの格好が遊女のものだと初めて知る。
女性の花嫁衣装に似た豪華なものだとは思っていたが、遊女のものとなると少し見方が違ってきてしまう。
「なんで遊女なんだ?」
「流行りらしいよ。僕の客でも二人くらいいたんだけど、その日は何もせずに帰ってもらった。変な感じだし」
「確かにあれは綺麗だが……。じゃああれを野菊も着たってことだろう?遊男が遊女の衣装を着るなんて可笑しい話だよな」
秋水が苦笑いで放った言葉に、凪風はハッとして清水を見た。しかしさっきまでそこにあった姿はなく、どこに行ったのかと周りを見渡すと食堂の戸が今しがた閉まったのが目に入る。
「秋水、ちょっとごめん」
「?」
凪風は慌てて立ち上がり、秋水に声をかけて食堂から出て行った。
いつまで経っても動こうとしなかったくせにどうしたんだ、と不思議に思った彼だが、ふと後ろを見れば清水がいないことに気がつく。
「……なんなんだ?」
「あの、秋水兄ィさん」
二人して此処からいなくなったことに首を傾げた。
すると遊男達の輪から抜け出して来た梅木が、顔をキョロキョロとさせて此方へとやって来る。
癖のある金髪は首を揺らす度にはねていた。
あちこち見ているので何か探しているものでもあるのかと秋水が聞けば、梅木はそれにも首を横に振る。
じゃあなんだ、とまた聞けば、返ってきたのは自分も先程から思っていたことだった。
「野菊兄ィさんは、まだ来ないのですか?」
◆◇◆◇◆◇◆
静まりかえった廊下。
全員が食堂に集まっているさなか、そこを歩く者は凪風と清水以外、誰一人としていなかった。歩くだけで軋む木の床板は、お互いの存在を強調している。
黙々と歩く清水の後ろ姿を追いかける凪風は、楼主部屋へと続く廊下を曲がろうとする彼を引き留めた。
「兄ィさん、待ってください」
「何?」
しかし此方に振り向かず歩く姿を見て、眉根を寄せる。
「待ってください!」
凪風は歩き速めて清水の前へと回り込んだ。
幼い頃から届くことのなかった目線は、歳を重ねた今、対等に並んでいる。もう小さくはない。
凪風は彼に怒鳴られようとも、前から退く気はなかった。
しかし目の前に来た彼に対して不機嫌になるでもなく、清水は静かに言う。
「君とはまた今度話そう。今はよしてくれ」
そして自分の前に立つ凪風を避けて前に進んだ。……けれど、彼はそれを許さなかった。壁に手を張り付けて清水の行く手を阻む。
二度も道を塞がれた清水は、それでも声を荒げることなく、代わりに溜め息を吐いた。その姿はどことなく我が儘な小さな子どもの相手をしているようにも見える。
しかし清水にとっては、それは凪風を子どもだと思っているワケではなく、これからのことを考えての溜め息だったのだが、それを知らない彼のほうは自分に溜め息を吐かれたのだと勘違いをした。
だから当然悔しくなり、壁へ付けた手は拳が握られる。
「どこに行くのですか」
「分かっているんだろう?君もこんなことをしていないで探しなさい」
「言われなくても、僕だって」
「言い争うつもりはないんだ」
清水は、彼を今度こそ通り越した。
「……ただ、いつまでも笑顔でいてほしいから」
そしてすれ違いざま清水が言った言葉に、凪風はしばらくのあいだそこから動けなかった。
「あの子に泣かれるのも、亡くしてしまうのも、私が私を許さない」
◆◇◆◇◆◇◆
愛理の着物を近くで見ていた羅紋は、豪華だと思いつつ振袖の袖を持ち上げた。
「すげーなコレ。野菊もどんな着物を着るのやら」
「そうですねぇ。同じ物を着るのだとしたら、俺は些か心配になりますよ」
「…………だな。それ言えるわ」
宇治野は悩ましげに唸った。
「…………ん?」
さっきまで腑抜けた顔で愛理を見ていた朱禾が、表情を固まらせて瞼をパチリとさせる。
ん?ちょっと待て。
自分が楽しみに待っていたのはこれではないよな。と。
「なぁ、野菊はまだ来ないのか?」
「そういえば遅いな」
愛理の変化に驚いて囲っていた男達が、羅紋と宇治野の会話を耳にして、ふともう一人のいるはずの彼女を探す。
何だかやきもきして食堂の戸口を見るけれど、野菊は一向にやって来る気配がしなかった。
まさか愛理がこんな綺麗な姿で現れるとは思わなかった一同は良いものを見れた、と満足していたが、野菊を思い出せば急に物足りなさが芽生える。
着飾った彼女を目の前に失礼だけれども、いつも男の格好しかしていないあの野菊が、今日は女の姿に変身をしている。
野菊を昔から知っている男達はもちろん、まだまだ年端のいかない新造や、なんやかんやで野菊が可愛がっていた禿達にとっては、そのことに好奇心をたくさんつのらせていた。
妹であり弟であり、姉であり兄であり、誰かにとっては初恋の人でもある、そんな女の子。
男の姿の彼女も勿論本当の姿なのだろうが、本当に本当の女の姿になっているのなら、やはりその姿を見てみたいというのは自然なこと。
ましてや家族のような中での紅一点、という存在ならなおさらだ。
「一緒に着替えたんだろ?」
「少し着崩れてしまったので、たぶん直しているんだと思います」
「着崩れ?」
「ほら、裾長いじゃないですか。歩き難いですし、帯も複雑なので大変なんです」
愛理はそう言うが、暫く経っても現れてこない。
遊男の一人が楼主部屋を見に行くも、誰もいなかった。
「どうしたんだ?」
番頭と話を終えた龍沂が、遊男達が集まっているこの食堂へと戻って来た。冊子を片手に騒がしい男達を一見すると、どうもただ騒がしいというワケではないのだと察知する。
困り顔で寄って来た遊男達に何かあったのかと尋ねた。
「野菊がどこにいるか知ってます?」
「いいや?まだ来てねぇのかアイツ。部屋に行っても見当たらないから、てっきりこっちに来てんだと思ったんだが……お!」
遊男達の後ろにいる愛理を見つけた龍沂は、冊子を丸めて横に振る。
「愛理~綺麗じゃねぇか」
「……ありがとうございます」
にこやかな龍沂に対して、愛理は心ここにあらずというような声を出した。それに気づかぬ龍沂ではなく、彼女のほうへと行き『どうかしたのか?』となるべく声を抑えて聞く。
「あの、」
「ん?」
「私、実は、野菊さんと喧嘩をしてしまったのです」
「…………はぁ?」
野菊と愛理が喧嘩?
龍沂の周りにいた男達もすっとんきょうな声をあげた。
だってあの野菊が女の子と喧嘩だなんてのは、悪いけれど想像がつかない。喧嘩をするならだいたい男だろうし(主に蘭菊)、女にはべらぼうに甘いはずである。ましてや仕事仲間である愛理にはそれはもうベタ惚れだったと思うし、最近ではあまり話す所を見ないが……変わらず好きであるのには変わりないと思っていた。
けれど今愛理の口から聞かされたのは『野菊と喧嘩をした』ということ。
どういうことなんだ。
「私が、赤い着物を着たいって言ったのですけど」
「そういえば着物赤いな」
今更かよ、と遊男達は内心ツッコむ。
「同じ着物は嫌だと、言われて」
「野菊がか?」
「私はべつに、嫌がらせで赤いものを選んだのでは無いのですけど、少し……怒らせてしまって」
そんな器の小さい男にした覚えは無いのだが…。
寧ろお揃いを喜べるような、そんな性格なんじゃないのかと龍沂は不思議に思う。
宇治野や羅紋もそれを聞いていたが、何となく野菊がそんなことを言うだろうかと疑問を抱いていた。
蘭菊や他の者もみなそうだった。それは有り得ないのではないのかと。それか、何かと理由をつけて着物を着たがらなかったか。
龍沂は自分の妻に仕度を任せていたのを思い出す。
「野世にでも聞いてくるか…」
「ええと、野世さんに聞いても分からないかと」
「なんでだ?」
「野世さんが部屋から去ったあとに言い合いになってしまったので」
「言い合いになったあとどうしたんだ?」
「……着物を脱ぐと仰られて、私は逃げるようにここに来ました」
遊男の一人が思い出したように頷いた。
「だから着崩れ直してるって、お前言ってたのか」
「っはい、そうなんです」
「だがなぁ」
愛理のことを疑う気は全くないが、野菊がそう言ったのだとして、何故野菊はそんな行動に出たのかと全員は考える。
「あ!」
「?梅木どうした?」
秋水と遠巻きに見ていた梅木が突然手を上げた。
いきなり声を出したので、隣にいた彼は思わず手を構える。
「兄ィさんて、普段から地味な色ばっかり着てたじゃないですか。明るい色は嫌だ的なことも前に言っていましたし」
「まぁ、そうだな」
「今回も、着物を着るの嫌がってましたよね」
愛理の傍にいる蘭菊は、だんだん梅木が何を言いたいのかが分かって来た。
「…………あいつ、もしかして」
「愛理さんと同じ色なのを口実にして、わざと着ないなんて言ったんじゃないですか?逃れたんですよ、兄ィさん。振袖の呪縛から」
「「「「……」」」」
あぁ、なるほど。
皆の心が総一致した。
「…………よぉぉおし!皆!あいつを探しだせー!!」
「「「「「おぉーっす!!」」」」」
龍沂の掛け声に、遊男達が拳を上げた。
「なんだこれ」
勢いよく食堂を出ていく男達を見て、秋水は手首を掻いた。
凪風や清水は戻ってくる気配もなく、皆は野菊探し。今日は一体何の日なのだとツッコまずにはいられない。
梅木も野菊を探しに行った中、ポツリとここに残るのは、野菊と喧嘩をしたと言った張本人・愛理だけである。
ここにいつまでいても仕方がないと立ち上がる秋水だったが、愛理の横を通り過ぎた時、耳障りのあまり良くない言葉が呟かれたような気がした。
『いなくなればいいのに』
あとがき。
五節句については諸説ありますので、その内の一つと見てください。




