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始まる 受難の日々 23

「ふふ、これで完璧ね。二人とも凄く綺麗よ」


 野世さんが満足げに化粧の筆を置く。

 そして私の首周りに掛けていた白い布を取り、粉を払った。

 着物に化粧の粉が付かないようにと掛けていた布だった。


「変な感じ……です」

「慣れていないと、そういうものかしらね」


 自分の頬に触れようとして、やっぱりやめる。

 粉が顔に張り付く感じにいまひとつ慣れない。

 仕事の時は首ら辺に喉仏があるように多少筆で影を付けたりとか、目尻を赤く染めたりだとかしているけれど、こう満遍なく何かを塗るというのは初めてだった。

 唇は以前おやじ様に紅く塗ってもらったことがあるから別だけど、違和感が半端ない。

 一枚皮を被った感じ。


 私が着ている着物の形は引き振袖と言って、裾を引き摺るタイプのもの。

 ズルズルと床に裾がついていて、着た感じルーズな気分。まぁ私にとっては着流しが一番楽なんだけど。

 しかしこれは白無垢、花嫁衣装を想像してもらえば分かることなのだが、ようはそれに前帯をしただけ。白無垢も裾を引き摺っているのだけど、あんな感じ。

 だからまぁ、言っちゃなんだが……重い。

 着流しを着ている時より当然倍重い。

 しかも腹回りが細いと言われたので手拭いを三枚くらい巻かれたから、なお重い。


 でもやっぱり、遊女と言ったらこの格好なんだ、と驚きもせずに思った。

 知っていたっていうのもあるけれど、寧ろ懐かしい……ような?


「ほら野菊ちゃん。お着物せっかく着ているんだから、見てらっしゃいよ」


 振袖は赤地に金の流水紋、紫、青を使った蝶の柄、白や黄色の菊の花丸紋。帯は薄黄色に円を重ねた大柄網状の七宝と、私が着ては申し訳ないと思ってしまう程豪華なものだった。

 髪は下手に上げたり縛らずに、おろして背中へと流したまんま。

 右耳の上には黄色い菊に棒部分が金と赤の簪をさしている。胸のほうへ流れている前髪横の毛先は、何の飾りもない紅い紙紐で縛られていて、なんか変な感じ。そこだけじゃなくて全体を縛っていないとなんだか落ち着かない。

 腰まで到達している髪を見て、随分長くなったな、なんて思う。


「あとで見ます。楽しみは一番最後に残したいので」

「そう?」


 姿見があるので出来上がった自分を見てみようかともおもったけれど、私はその場で座って固まっている。固まっているというか、動こうとしなかった。

 一方愛理ちゃんは私の前にお化粧をしてもらっていたので、早速自分の姿を確認していた。髪も上げとても可愛い仕上げになっていて、引き振袖が良く似合っている。私と同じ赤だけれど、彼女のほうが数倍輝いてみえた。

 愛理ちゃんの着物の柄には昔から人々に愛でられている桜紋に、十二単のお姫様が持つ檜扇、金の鼓柄と鮮やかで美しい。後ろの柄が見たいのか、鏡に背を向けては首を振り替えしていた。


 それを見て、やっぱり女の子だもんな、と思った私だったけど、私は自分の姿を見て自分がやっぱりあの「野菊」だと思い知らされるのが怖い。

 野菊の遊女姿は最後にイラストとして出てくるのだけど、今の私はそんな彼女にそっくりなんだろうか。

 しかし残念なことにイラストでは同じく彼女も赤い着物なので、そっくりとかそういうの以前に身ぐるみが一緒の時点で容易に想像できるのは悲しいことである。


「ん~」


 でも顔はどうだろう。

 私の顔はいつも遊男仕様なのでキリッとさせているし、仕事前以外に手鏡を見ることは無きにも等しい。

 自分の姿はなるべく見ないようにしているので当然と言っちゃ当然なんだけど。

 生活していく中で、顔つきが変わったりとかしてないかな。


「食堂に皆いるそうだから、見せてくると良いわ」


 本人達より(愛理ちゃんは分からないけど)ウキウキしている野世さんが拳を振り上げて意気込んでいる。

 

「そうですね」


 ゲームでのこのイベントで、野菊は登場しない。この時だけいないように扱われていた。

 だから私もどう対処して良いのかが分からない。だから動けない。

 あそこに野菊がいたら、はたしてどんな展開になっていたんだろう。

 着物を着れない恨みで何かやらかしたりしたのかな。それとも……。


「野菊ちゃんが着ていた長着は、あの人に渡しておくわ。部屋に持っていってもらって、その場で着替えられるようにね」

「いいんですか?」

「いいのよ。着てくれたお礼って思いなさい。お礼にしては随分軽いけど」


 野世さんは私が着ていた長着を丁寧に畳むと、腕に抱えた。畳み慣れたその動作に、さすが主婦、と思ったけれど、使いパシりのようなことをさせてしまい些か申し訳ない。

 やはりおやじ様の奥様なだけあって、優しくて気のきいた懐の広い人なんだと勝手に思う。

 見れば愛理ちゃんの着物もいつの間にか隅の方で綺麗に畳んで置いてあり、さすが主婦、とまたしても思った。


「じゃあ私はこれで失礼するわね。またいつ会えるかは分からないけれど、また会いましょう」

「今日はありがとうございます」

「いえいえ、私も楽しかったわ。ありがとう」


 じゃあね、と言って野世さんは背を向ける。

 野世さんが部屋から出ていくと、必然的に愛理ちゃんと二人になった。けれど私は正座をしていてその場から動こうとはしなかった。

 今がチャンスなのに。

 早く彼女が皆のところへ行けば万々歳なのだけど、それはそれで私はどうしたら良いのか悩む。このまま私も皆のところへ行ったほうが良いのか、投げ出したほうが良いのか……。

 沈黙が落ちる密室で愛理ちゃんが鏡の前から動いた。


「ねぇ、野菊さん」

「はい?」


 正座でいる私に対して、彼女は目の前に立った。

 前を向いていても赤い着物しか目に入らないので顔を見上げると、下を向いてこちらを見る愛理ちゃんと目が合う。けれど目が合って喜べるような、そんな雰囲気ではなかった。

 名前を呼ばれたので当たり障りなく返事をしてみれば、彼女の眉毛がつり上がるのが目に入る。


「私の邪魔を……しないでくださいって前に言いましたよね」

「……うん?確か、言ってたね。前に」


 心臓が大きく跳ねた。


「なのに、なんでするんですか?」

「え?」

「なんで赤い着物なんか着てるの?なんで私と同じ物を着てるの?なんでそっちが優先なの?ねぇ、どうして?」


 今にも泣きそうな顔でそう訴えられる。顔が赤くて、瞳も少し潤んでいた。

 ……ちょっと待て。今この瞬間に何があった。


「ちょ、ちょちょちょっと待って待って、どうしたの!?私、何かしちゃった?何かしたなら謝るから泣かないでお願い!」


 私は急いで立ち上がり、手を前に伸ばしてワタワタと振る。

 なんか私泣かせるような事しちゃったのか。全力でこの涙を阻止しなければ、もれなく私は愛理ちゃんの敵認定されてしまう。


「愛理ちゃん!?」

「うるさいっ」


 しかし、さっきまで楽しそうに姿見を見ていた彼女は一体何だったんだ。あんなにはしゃいでいたじゃない。なのに何がどうしてこうなった。


 邪魔しないでって……確かあの、前に言われたやつだよね。ゲームの記憶思い出してから暫く経った時の愛理ちゃんとの話。

 でも邪魔しないで、と言われてから一応邪魔はしないようにしていた……はず。朝食を一緒に食べることはしなくなったし、あまり話さないようにもした(仕事中は仕方ないから別だけど)。

 だから愛理ちゃんの言う邪魔が良く分からない。一体何が彼女の気に触れたのだろう。


「そんなのいらないっ」


 だから理由を聞こうとしたのだけれど、聞きたくない、とばかりに両手で耳を塞ぎだしたから困った。 


 朝起きた時には、こんなことが起きるとは思っていなかった。予知夢でもなんでも見れていたら、今日こんなところには来なかったのに。


「――――私、もう、決めたから」

「…………愛理ちゃん?」

「脱いでっ」


 突然の衝撃。引力に逆らえず前につんのめった。

 着物の裾を引っ張られたので、少し前が開く。もともと開いていた所なので少しで済んだ。帯もちょっとだけずれたけれど、そこまで大きくは崩れていない。

 いきなり豹変した彼女に、私の心臓が速く動き出した。ドクドクと脈打って、心臓の音で愛理ちゃんの声が聞こえにくくなるくらいに。


「野菊が着るものじゃないっ」

「へ、」


 腰の横で握り締めた拳が小刻みに震えていた。


 これは、私に言ってる?

 野菊って私だもんね。私しかいないもんね。

でも何だろう、この感じ。

 確かに私の名前なはずなんだけど、違う誰かを指しているような、自分だけど自分ではない人のことを言われているような。

 野菊、と呼び捨てで呼ばれたから?


「待って、愛理ちゃ」

「この世界はっ、私に都合よくできてるの!私の世界なんだから…………あんたの世界じゃない!」


 胸に手を当てて必死に訴えてくる。必死を超えて怒鳴り声に近くなっているけれど。


 というか、世界?

 この世界?

 私の世界じゃない?

 どういうこと……?

 この世界は、私にとってはゲームの世界であって私の世界だと思ったことは一度も…………あれ。

 今、なんか引っ掛かった気が。


「ちょっと待って。愛理ちゃんは、私に、どうして欲しい?」

「何?」


 私の中で、何かが一つになろうとしている。


「邪魔をしてるつもりはないのだけど、愛理ちゃんは邪魔をしてると言う。でも私には何が邪魔なのかが分からないから、何も出来ない。……今も、私にどうしてほしい?」

「な、何を言ってるの?なんで抵抗しないの?普通怒るじゃない、ムカつくでしょう?張り倒したりしなさいよ」

「そうしたら愛理ちゃんはどうするの?」

「っ」

「こういうことしたら、私が皆に言いふらすって考えない?」


 たぶん、もしかて……愛理ちゃんは。


「……じゃあ、こうして」

「なに?」

「この妓楼から出ていって。今の野菊じゃ何しても、皆は私へ向いてくれない。きっと私が貴方に刺されたと言って腹から血を流しても、皆はきっと貴方の方を信じるのよ。…………何度廻ってもあの人は私に振り向いてはくれない。貴方がいるから何もかもがおかしいのっ」


 自分が何を言っているか、分かっているのだろうか。 

 いいや、半分は恐らく分かっているのだろうけど、感情が爆発して言いたいことだけが口に出ているのだと思う。冷静さが欠けている。

 何より、そんな話を私に話していること自体が正気じゃない。


「協力をするのではダメなの?」


 普通の人だったら、愛理ちゃんが何を言ってるのかはサッパリだろう。

 でもこの世界を多少理解しているから、私は愛理ちゃんが何を考えて何をしようとしているのかが何となく分かる。

 何より私が、愛理ちゃんと同じ境遇だと思うから。


 だから、もしかして、


「野菊が遊男なんて、そんなの話には」

「ねぇ愛理ちゃん」


 彼女は。




「ゲームって、知ってる?」





































 愛理ちゃんは涙を浮かべていた瞳を大きく開けて、唇を震えさせた。


「…………なんで、そんな…。あなた、もしかして」

「愛理ちゃん?」

「あ、ああ、そう、」


 一拍置いたあと、彼女はひきつった笑顔を見せた。

 でもそれは笑顔と言えるほど優しいものじゃない。汚らわしい何かを見てたえるような、そんな顔だった。

 可愛い顔には似合わない表情。不釣り合いだった。


「――あぁ、なるほど、そういうこと。だから皆に上手く取り入ってたの?自分を悪く見せないように?必死で取り繕ってたの?悪い女のくせに」

「じゃあゲームを知ってるの?」

「なら逆に、分かるでしょう?自分のこと。最後にはどうなるかって。だから私の邪魔をしないで、自分の役割を真っ当して」

「愛理ちゃん、そうじゃなくて、愛理ちゃんは愛理ちゃんじゃなくて、ゲームを知ってる違う世界の人なの?」

「違う!私はっ、私は愛理なの、最初から愛理!別の誰でもない!」


 頑なに自分のことを話そうとしない。私が聞きたいのはそんなことじゃないのに。


 今までの行動や言動は、花魁の者達が自分を好くようにしていたということは今の話の中でだいたい分かった。皆が私に向いてくれないって……つまりそういうことだよね。

 けれど肝心なのはそこじゃない。

 彼女がもしゲームを知っていて、その通りにしようとしたとして、私をシナリオ通りの悪役にしようとしているなら、それが私にとっては問題になる。

 今のように私が手を上げることを望んだ発言がまさにそうだ。


『出ていって』


 けれど愛理ちゃん?の台詞がまんま悪役なみで、そこにはびっくりした。

 私にそういうことをしたり言ったりしたら、告げ口されるとかそんなことは考えなかったのだろうか。


『私に都合のいい世界』


 都合のいい世界って、主人公である『愛理』にとっては都合のいい世界ってこと?

 確かにご都合主義なゲームだったけど。

 何にしても愛理ちゃんが悪くなる可能性はないから野菊(私)に半ば暴力的なことをしても大丈夫だと言うのか。


「私は邪魔しない。なんならこの着物だって脱ぐ」


 確かに愛理ちゃんには、そういう意味では都合の良い世界なのかもしれない。

 現に、私が皆に『愛理ちゃんにこういうことされた』『愛理ちゃんが~』なんて言う勇気がないもん。

そこは彼女のいう通り都合の良い世界の人間になってはいると思う。


「だから何だって言うの?」

「それに、野菊がいようがいまいが、所詮私は当て馬だよ。愛理ちゃんが皆の誰かとくっつくまでの盛り上がり材料にしかならない。あと、私は誰のことも好きじゃない。それに私がここで大声上げて困ることになるのは、愛理ちゃんなんだよ?!」

「馬鹿にしないでっ」

「!っう」


 愛理ちゃんはそう言うと、私の帯を手に引っかけて崩した。腹部が一瞬圧迫されて息が詰まる。

 しかしそれでも抵抗しない私を見ると、彼女はその勢いのまま部屋から飛び出して行った。






「…………ええ、と」


 ポツリとあられもない姿で一人残された私は、少し考えたあと、いそいそと帯を戻すことにする。でもそんなに上手くいかないので、前で適当に結んだ。

 着物が崩れた以上もとの形にに戻せるのは野世さんしかいない。私はそもそも分からないし(工程を良く見ていればよかった)、おやじ様もこんな着付けをしたことは無いと思うので声を掛けたところで無駄足だ。

 愛理ちゃんに対しては特に怒りもなく、寧ろよくやってくれた、と言いたい。

 お陰であんな姿を皆に見せないで済んだのだから。

 べ、別に、強がりとかじゃないよ。


 サラシ無しで着物を着ているのに違和感を感じて、胸に手を当てる。

 潰れていない胸は、緩やかに山を作っていた。

 あれだけ胸を潰して生活をしていたのに、あるものはやっぱり無くならないのかと少し落ち込む。



 部屋へ戻って着流しに着替えようかと考えていると、ひときわ大きな騒音が聞こえてきた。

「愛理」と微かに単語が聞こえてきたので、どうやら食堂にやってきた彼女の姿に皆びっくりしたのだろう。

 いつも作務衣しか着てなかった愛理ちゃんだから、こんな日があっても悪くはないと思う。


 まぁ、なんにしても、今までの行動の意味が分かった以上、私がすべきことは愛理ちゃんにどうしても敵意が無い、ということを分かってもらうか、もしくは私がこの妓楼からいなくなれば良いってこと。

 もちろん遊女に売られるとかではない理由で。

 しかし後者を選ぶとすると、なんだか苦笑が漏れてしまう。

 何をしなくても、結局はゲームの野菊と同じく此処を出ていくはめになるんじゃんか、って。


 それに、もしもこれを皆に言ったとして、私はどうしようというのだろう。

 愛理ちゃんを今度は悪者にする?(悪いことをしているのは事実だけども)

 皆から嫌われるようにする?

 違う、そうしたいのではない。

 仲良くしたいんだ。以前のように。

 

「……そっかぁ。あーあ…」


 愛理ちゃんも、この世界がゲームの世界だって知ってたんだね。

 でもそれなら、攻略の仕方だって分かるのだから、こんなことをしなくともそれを実行すればいいのに。


「攻略……攻略、ね」


 笑ってしまう。

 もう大分皆と一緒にいるけれど、同じ人間として接してきていたから、そういう言葉を使うとどうも今更ながら抵抗感がある。

 ゲームであってゲームじゃない。

 皆生きている。


「あ~~もうっ」


 セットしてもらった髪をグシャグシャと掻き回した。それ故、指に引っ掛かってしまった髪飾りがカランと畳へ落ちていく。

 ――――黄色い菊の花。


「私って誰なんだろう」


 落ちた簪を手に取って、握りしめる。


 未だに思い出せない自分のこと。

 ゲームに関しては思い出せたのに、一部分でも思い起こすことができない。


「出なきゃ」


 私は食堂ではないところへ行くことにした。

 ずっと此処にいたらおやじ様が来てしまうし、その格好どうした、とか言われても正直に言うことができない。



 今一瞬で、私が心に決めたことがある。

 彼女が私へしてくる事に関しては、特に何も思わないようにすることにした。

 きっと無関心が一番。

 必要以上に反応してはいけない。

 好き過ぎても嫌い過ぎてもいけない。

 彼女の行為に対して怒りを感じたりすることは非情に駄目な展開でもあるかもしれないから。

 感情が災いしてしまうかもしれない。

 いくら彼女がゲームを知っていた転生者だと言っても、彼女が私を悪役にする気が少しでもあるなら油断はならない。



 でも本当、まさか愛理ちゃんが私と同じゲームを知ってる人だったなんて。

 しかし、そしたら以前の愛理ちゃんは何だったのだろう。記憶を無くした、と言うまでは私と普通に仲良くしてくれていた彼女は誰だったのか。


「そうだ、中庭なら」


 あぁ、もう、何もかもが面倒臭くなってきた。


 今は誰もいないところへ行こう。部屋へ行っては、きっと誰かが来てしまう。階段ですれ違ってもごめんだ。厠も違う、裏庭は十義兄ィさま達の場だし、布団部屋も違う。

 けれどあそこ、中庭ならば夕刻までは誰も来ないだろう。前は清水兄ィさまと羅紋兄ィさまが団子を食べていたけど、普段なら仕事の時以外はそこまで人は来ない。日差しの良い大きな木の下なら、暖かくて眠りにグッスリつけるかもしれないし。




 しばらく現実逃避をしたい。

 そうしてしまえばきっと、ちょっとの間だけでも心が楽に過ごせる。

 





◆◇◆◇◆◇◆








「それは違ぇーだろ」

「えぇ~~だってさ十義さん」

「そもそもお前はそこが甘いんだよ」


 野菊と愛理がいない食堂では、待っている間におのおの暇を潰してくつろいでいた。

 あのあと朝食を食べに来た何も知らない遊男や新造達も、先にいた者達に野菊が振袖を着るのだと聞いて、食べ終わったのにも関わらずその場で待機。茶を飲んだり花札をしたりと時間をもて余していた。

 仕事の時間になるまでは好きに過ごして良い決まりだが、こうも誰もが稽古をしようとせず一ヶ所に集まっている光景は、なかなか吉原の妓楼では見られない。


「おい秋水、お前からもなんか教えてやれよ。客を惚れさせる方法」

「会った時にはもう惚れられてるんで分かりません」

「おーいおーいマジかよ」


 遊男の一人、阿倉が手練手管を飯炊きになった十義に聞き込んでいる。

 参考までにと花魁である秋水へ十義が声をかけたが、虚しくも参考にはならなかった。


「聞くなら清水兄ィさんとか宇治野兄ィさんにしたらどうです?」

「ちょっと待て。なんでそこに俺の名前が出てこねーんだよ」


 秋水の隣で足を伸ばしくつろいでいた凪風は、退屈そうにそう言い返す。手をつきながら足の指を交互に曲げるその仕草は暇人そのもの。

 一方で会話に混じることはしなかったものの聞き耳を立てていた羅紋は、自分の弟分に己の名前を上げないとは何事かと詰め寄っていった。


「みっともないですよ、本当。少しは蘭菊でも見習ったらどうですか、羅紋」

「いや宇治野兄ィさん、俺別にそこまで立派じゃ……」


 思いがけず宇治野に褒められた蘭菊は、後ろで寝息を立てて眠る自分の禿二人を見て苦笑いをした。


「何言ってるんです。今日だってちゃんと自分の下に付いた禿のことを放っておかないで一緒にご飯を食べてあげているじゃないですか。……なのにこの男は」

「まぁまぁ、宇治野落ち着いて」


 説教を始めようとする宇治野の背中を、清水が叩く。

 なんですか?これからですよ、と言う彼に対して清水は空笑いをした。

 そして秋水達のほうへ向くと、人指し指を立てて口を開く。


「とか言ってなんだけど……、なのにこの男ときたらね。始めて来た禿に順序も何も教えないで全部わかってると思って半ば放置したことがあるんだ。馬鹿だよね」

「ひっでぇなお前!放置じゃねぇよっ」

「酷いものだろう?」

「酷いっすね(蘭)」

「酷いな(秋)」

「酷いよね(凪)」



カラカラ。


 すると食堂の戸が開く。

 今か今かと野菊の登場を待っていた遊男達は、戸が開いた音と同時に視線をそちらに向けた。ブンと音が鳴りそうな程勢いが良い。

 今までのお喋りが嘘のようである。


「ん~?ん?あれは、愛理……か?」


 羅紋が目を細めて戸のところに出てきた人物を見る。

 赤い着物に……桜色の髪。

 赤い着物だとおやじ様が言っていたのが聞こえていたので見えた瞬間野菊だと思ったのだが、髪の色が明らかに違う。

 先ほど着ていた着物とはまったく違うものを着て現れたのは、愛理だった。


「「「うぉぉおおおおお!」」」

「すげーな愛理!」

「別嬪さんじゃねーのォっ」

「可愛いなぁオイ!」

「早くこっち来い、愛理!」



 その声に、愛理は左の口角を上げた。

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