始まる 受難の日々 19
空には月がのぼり、吉原の町は星の瞬く音が聞こえそうなほど、静寂に包まれていた。
数刻前までは人の歩く音や男衒たちの呼び声、女性たちの高らかな笑声がひっきりなしに響いていたというのに、まるで今は違う世界にいるような錯覚さえおきる。
檻のような格子窓に慣れてはいるが、私はたまに思う事があった。
この牢屋の鉄格子のような枠を外して、一度は視界を塞ぐ物の無い、真っさらな窓から皆で夜空を眺めてみたいなぁ、なんて。
「お疲れさま」
「今日はありがとうございました」
泉ちゃんの初座敷が終わり、私の初指導も終了した。
最後のお客様が帰り男衆が酒瓶を片付けた後は、私の後ろへ周った佐久穂に羽織を脱がせてもらう。自分で出来ることなのだけれど、もうそういうものなので仕方がない。
どこかの金持ち坊っちゃんを気取っているわけではけしてないぞ。
部屋は私と佐久穂の二人きり。
この後は各々入浴となっているので、和泉には今自分の部屋に戻ってもらいお風呂セットを持ってきてもらっていた。他の禿と一緒に行って入浴の仕方とかを教わってもらえば良いかなぁ、なんて思っていたのだが、あいにく同室の禿はすでに入浴へ行っていたらしく。この際佐久穂もいることだし二人で行ってもらうことにした。
佐久穂は随分ノリ気なようで『俺が一から教えてやるぞ!』と和泉を抱き上げてクルクル回っていたし。
良いお兄ちゃんだ。
サラシで巻いている胸を二つ指で少しくつろげて、足を伸ばして座り込む。
ふぅ、ちょっとキツイな。
「私もやっぱり行こうかな」
「ダメです」
「まだどこへ、って言っていないよ」
羽織を綺麗に畳み折る佐久穂に、こちらを見向きもしないまま拒否られた。 梅木もそうだけれど、段々私の扱いが年下感覚になってきてはいやしないか。年上の威厳を誰か私にください。
胸にある指がペしッとサラシを弾いた。
「兄ィさま、もってきました」
話していれば、手ぬぐいと単衣を持った和泉が戻ってくる。
頬っぺたが赤くて可愛い。
髪が藍色なので、まるで幼い頃の秋水を見ているみたいだ。やっぱり皆昔は可愛かったよな、なんて上から目線で思う。
「じゃあ佐久穂お願い」
「はい、行ってきます」
新造の彼は小さな手を引き、二人並んで部屋を出ていった。
仲が良いな、と微笑ましく見送る。
一瞬自分が近所のオバサンに思えたけど、気にしない気にしない。あー暑いな、暑い。
「野菊…?」
手で首もとを扇いでいると、佐久穂達と入れ替わるようにして背の高い男が部屋へとやって来た。
私は座っていたので、思わずその人物を見上げた。
「大丈夫?騒がしかったみたいだけど…」
険しい顔をした凪風が姿を見せる。
あの昼以来の対面だが特に気まずい雰囲気も無く、部屋の中を慎重に見回すと近くへ寄ってきた。
襖を超えて、畳を踏みしめる。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「うん。それよりその頭どうしたの?」
向かいにいる彼の頭はくしゃくしゃだった。
よく見れば髪留めの跡が残っている。
「これ?禿に髪飾りを取ってもらっていたんだけど、中々取れなくてさ。やっと外れた時にはこうなってた」
毛先をいたずらに摘まみながら笑ってそう言った。
ふと手元をみると、手拭いと単衣を持っていることに気づく。
「お風呂?」
「うんそう、これからね。禿と一緒に入ってくる」
「良いなぁ」
「野菊は駄目でしょ」
禿と一緒に入る事を自慢されて悔しい。
なんだなんだ。私だって入りたいよ。
裸のお付き合いしたいよ。
むくれる私に凪風はプクク…と口を窄めてゲスい顔をした。
悔しさが倍増した。
もしかしてわざわざそれを言う為に此処へ来なすったのか。なんて奴だこの野郎。
というのは冗談で、悔しさを抑え適当にハイハイ、と大人の対応で受け流す。だがそんな私に何がまたツボに入ったのか、ブフと笑い出す彼。
今度は此方がゲスい目で見てやった。なんだコイツ。滅びろ。
流石にまずいと思ったのかゴホンと喉を鳴らした後ごめんごめんと謝罪をされる。
けれどそれも半笑いだったので、もう信じない。
「ちゃっぴいと護は?」
「…楼主部屋ですが何か」
「そっか」
だいたい仕事の時は庭にいたりするのだけど、まだ雨が降らない時期は楼主部屋に水がめを置いて二匹を過ごさせている。楼主部屋をペットルームみたいにして申し訳ないとは思うけれど、もとはおやじ様が言い出したことなのでありがたく使わせてもらっていた。
今頃は護なんか座布団の上でグースカ寝ているだろうし、チャッピーなんかはその護の上で腹を膨らませながら寝てるんだと思う。
しかし、つくづくあの二匹も凪風から好かれているものだ。
あの二匹が人間だったならきっと良い友人にでもなっていただろうに。まぁ今のままでも変な異種族間的な感じで友情は育まれているかもしれないが。
「あのう…」
開け放した襖の向こうから佐久穂の声がした。
ひょいと覗けばお風呂道具を持ったままの彼の姿が目に入る。おまけに直垂姿のままだ。
入浴はどうしたのだろう。
あれからまだ五分も経っていない。
隣にいた筈の和泉は見あたらなくて、いるのは彼一人だった。
「?どうしたの?」
私は凪風をどけ……通り越して小走りで近づいていく。
佐久穂の顔を良く見てみれば、どことなく暗い。
「お風呂は?」
私の言葉に、只でさえ暗かった顔が苦い表情をしだす。
そして言おうか言わまいかと迷っているのか、目をキョロキョロと泳がせて口を引き結んでいる。
「佐久穂?どうしたの?」
「それが……和泉がなかなか入ってくれなくて」
重い口を開いてもらいやっと聞けたその事情は、思ったよりもすんなりと理解できた。
「そっか…」
たまにホームシックになってしまい家に帰りたがる子供がいる。
それは決まってお風呂に入る前だったり、朝方だったりする。いつもと違う日常に心が追いついていかなくて混乱するのだ。入りたての禿がいる時はチビッ子の泣き声で朝を迎えることもあった。
無理もない。来た子たちの中には、親に騙されて此処へ来た子もいるのだから。
「全然駄目?」
「秋水兄ィさんがどうにか脱衣までさせたのですが、どうも入るまではいかないようなのです」
「じゃあ…私が行くよ。今日は一番一緒にいたしね」
此処で話をしていても仕方がないので自ら赴こうとすれば、佐久穂が頬を膨らませ始めた。
どうしたの、という意味を込めて膨らんだ風船を人差し指でつつけば、負けじと更に膨らんだ。
中々凹まない頬に唇を突きだして唸る。
「駄目なの?」
「駄目、と言いたい所なのですけれど」
仕方がないですよね、と目を伏せ首を掻きながら後ろを向いた。




