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始まる 受難の日々 17

 宇治野が今日(こんにち)、客を迎えたのは椿の間。そして客として天月へ出向いたのは札差(ふださし)を職とする・長浜兵衛谷之允(ながはまへえたにのすけ)という男。

 札差とは蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とした商人の事であり、また取次業の他にその蔵米を担保にして金融業を行い巨富を畜え、腐る程の金を持つ大金持ち人間であるとされていた。


 簡単に言えば札差とは旗本、御家人相手のサラ金業者である。


「花魁、今日もまた美しいなぁ」

「………」


 しかし宇治野は三日目となる座敷においても、この人間を馴染みにする気などは毛ほどもなかった。

 男であるから、という理由ではない。

 同性であれ良い客ならば喜んで…とお世辞にも心からはあまり思えないけれど、嫌悪するほどではない。

 神が自分たち遊男を自由にする条件として男と寝ろと言うならば両手を挙げて襲っていくだろうとも思う。…結局素面では嫌だということにはなるが。


 しかしこの長浜という男は座敷での礼儀はおろか、触れてはいけない花魁の手を握り、あまつさえ新造にも手出しをしようとする始末。

 本来ならば出禁の域に達するのだが、この男に至っては今回に限り下手に追いやる事が出来なかった。そうというのも、彼には悪い噂がある。

 この吉原、一度入れば身分は関係無く、無礼をすれば手打ちにされ、妓楼にはまたとなく入れない。ともすれば、いくらこの国で一番偉かろうとも、足を踏み入れてしまえば忽ち綺麗な花に溺れる蝶にしかなり得ないのである。

 しかし、いつの時代も『金』が存在する。

 その『金』があればある程、この吉原(くに)では優遇される。


 いくら出禁にされたとしても、この長浜は有り余る金を使い大門をこじ開け、何度でも吉原へ入ってくる。

 そしてこの男の一番タチの悪い所は、自分好みの遊男を見つけたら最後、大金を叩いて身請けをし、使えなくなるまで買い殺すという少々…どころではない変態であるという点だった。


 そんな長浜が今度目につけた遊男は天月妓楼の宇治野花魁。吉原で一番お高いと称される天月の遊男は、それこそいくら金を持っていると言われる長浜でさえ手がつけられなかった。

 いや、手はつけられたが、天月の遊男を一時の間買うよりも身請けをしたかったのだ。しかし身請けの金額は城を買うよりも高い。意味は少々違うが、正に傾城と言われるだけのことはある。


 宇治野を指名した理由としては、単純に彼の好みに合っていたからだ。女のようで女では無い。この男の性癖は女のような男が好物だと言う事だ。

 女が夜遊び当然の世界では、長浜の癖はたいそう狂っているものとされている。そもそも男が夜の町に繰り出す事自体が可笑しな事であり、常識から外れていた。しかも求めるものが異性ではなく同性。


「宇治野花魁よ。そろそろ心を許してはくれぬのか?」

「…」

「そういけずにならなくとも良かろうに」

「……」


 宇治野は先程から声を掛けられているのにもかかわらず、その瞳は相も変わらず男に向くことは無く真っ直ぐに前を見据えたままであった。

 沈黙を守る宇治野の行為は、花魁の姿勢そのもの。

 心を許さぬ相手には容易に言葉を返さない。

 そしてその代わりにその場を切り盛りするのが新造や男芸者の役目である。酒を注ぎ、芸を見せ、客にせめてもの奉仕をするのだ。


「花魁、私はなぁ」


 しかし客の男の様子がおかしい。

 新造がその様子にしっかりと気づき、宇治野へそっと耳打ちする。話している小声は、この場がしんとしていれば客に気づかれてしまうだろうが、幸い男芸者が奏でる三味線の音によって守られている為、内容が漏れる恐れはほぼ無い。


『花魁、お逃げください。頃合いです』


 その言葉にゆっくりと瞼を閉じた宇治野は、再び目を開き長浜を見つめる。


 実はこの座敷、ある目的があって仕組まれたものである。天月だけの問題では無く、吉原全体で仕組まれたと言っても良いだろう。


「私はなぁ」


 宇治野は、自分は人を見た目で判断する人間では無い。と今まで思っていたのだが、今回ばかりはそうとも言い切れそうにないと思った。

 長浜の脂ぎった額には、先程手拭いで拭いたとは思えない程の汗。目玉は蛙のようにギョロリとしている。 腹はだらしない程に出ており、日々の生活習慣、特に食生活が大分豪快であろう事が想像出来た。自己管理能力が低いことも要因だろう。

 そして大概見た目がだらしない人間は性格もだらしない。自己中心的な人物が多いのもこの分類の人間である。

 第一、この男に至っては噂が歩いて出回っている事もあり、そうした先入観がまず含まれてしまっているので、見た目で判断がどうのこうのと言う話ではなかった。


「私はなぁ、私はなぁ、この座敷に財産を賭けているのだよ。金金金金金金金金の固まりを三日間渡し続けているのだ」


 長浜が虚ろな目で宇治野を見つめ返す。

 新造は静かに襖の前に座り、後ろ手に戸へ手を掛けた。


「花魁は厠の為、一度お座敷を下がらせていただきます」

「か、厠だと?」

「何か?花魁も人の子です。当然でしょう」


 厠で座敷を抜け出す花魁など、長浜は聞いた事がない。それは最もで、本来ならば厠に行きたい等そんな痴態を見せて遊男が座敷を下がるなんてあり得ないのだ。


「馬鹿にしているのか!?」

「…長浜様、失礼いたします」


 宇治野は早々に羽織と裾をおさえて立ち上がると、長浜を一拍程見つめてから部屋を後にした。


「っぇあ?あ、ああ」


 それまで口を開かなかった花魁が口を開いて初めて喋ったので、長浜は不意を突かれてつい返事をしてしまう。



 しかしその後。

 花魁は厠へ向かって暫く経つというのに、一向に部屋へと戻って来る気配が無かった。


 そしてそれを怪しんだ長浜が行動に起こした故の結果がこれに繋がる。




***************



「気持ち悪っ」


 この好色爺が!

 と心の中であくたくをつくのは良いが、ついたからと言って状況は何も変わらない。気持ち悪さも変わらない。寧ろより一層吐きそうな程の嫌悪感が襲ってくる。

 もしやこの人、噂で聞いていた例の「長浜変態之助」?


「和泉、佐久穂」


 気持ち悪がっているのは私だけではない。この場にいる全員が奴を生理的に受け付けていない事は、周りを一々見渡さなくても確か。

 体を震わせている松代様を背中に庇い、臨時で座敷に上がってくれている新造の佐久穂と和泉ちゃんに手を振り、後ろへ下がるよう指示する。


「はて。何の御用でしょうか」

「私は長浜兵衛谷之允だ。その羽織、そなたはやはり野菊花魁ではないか。道理で高級な香りがするわけだなぁ。私の食指も動く」


 ニタリ、と舌舐めずりをして男が此方に近寄ってくる。

 やはりこいつはあの長浜だったか。


 長浜という男は女性のような男子には滅法目がなく、そのくせ遊男の扱いは随分粗末なものだと聞いていた。そんな奴が宇治野兄ィさまを買っていただなんて…。

 奴の見た目を比喩するのなら、あれはガマ。ガマガエルだ。しかし一体何を詰め込んだらあんな体になるというのか。わがままボディにも程がある。

 言っちゃ悪いが、人間じゃないうちのチャッピーの方が何百倍もかっこいいよ。

 

「これは規則違反ですよ」

「お前は金を払わずとも私に話を掛けてくれるのか。あぁ、そうかそうか、やはり最初から野菊花魁にするべきだったんだ。長府の奴め。良いように私をタブらかしおって」


 長浜は笑みを浮かべながらハァハァと息を荒くする。


 き、きもおぉぉおぉおいっ!

 腐るっ、目が腐る!

 気持ち悪いんですけど!!


 話掛けるって言っても、これどこからどう見てもうざがって追い払っているようにしか見えないよね。

 日本語が通じないよコイツ!

 長く正視することに耐えられなくて、亀のように手足を縮めこめたい気持ちになる。もしも私に甲羅があったのなら、直ぐに首も引っ込めてこの不審者から逃げていただろう。

 今だけ亀になりたい。

 因みに希望が叶うならゾウ亀。


「野菊花魁よ、その玉のような肌に触れさせておくれ」


 ジリ、とまた男は寄ってくる。


 というかちょっと!

 この人の事を誰か追いかけてたんじゃないの!?

 さっきまで明らかに誰かと逃走劇繰り広げていたようなやり取りしていたよね?

 何で誰も奴の背後にいないんだ!!


「…仰る意味が良く分かりませんが」


 と心の内で大声を上げながらも、とぼけたフリをして後ろへ少し下がった。松代様も私の動きに合わせてくれる。

 しかし男はその様子に余裕の笑みを浮かべると、懐に手をやりチラリと銀に光る刃を私に見せつけた。

 それは短刀だった。

 

「……」


 なんだかもう、私は言葉を出す気にもなれない。


 …何で今ここで出すのだろう。

 こう言っては不謹慎だけど、出しどき結構あったよね。別にこの場面じゃ無くても良かったよね。この人マジ何しに来たんだろう。


 しかしだからと言って降参するつもりは無いし、松代様もいるわけだから、要求に応え客としてわざと相手にすることも戸惑われる。


「野菊様?」


 松代様は後ろに隠れながらも、男の持つ刀をバッチリ見てしまったようで、ビクリと体を震えさせたのが背中ごしに伝わってきた。

 ごめんね松代様。怖いよね。

 

「大丈夫だよ松代」


 私の護身刀は、今座っている畳の下にある。

 縁から三番目の目を剥がせば、切れ味の良い刀が鞘に収まったまま姿を表す。護身術程度には刀の扱い方をおやじ様から習っていたので、扱い方を知らないワケでは無い。しかし本当に害をなそうとする人物から刃物を向けられた事が無いので、多少なりとも不安がある。練習は所詮練習だ。

 私は男に不審に思われないようゆっくりと畳の目に手を這わせた。一つめ、二つめ、となぞっていく。


 私だって本当は震えたい程この状況が怖い。


「ならば、此方へ来て俺と話をしますか?」


 とりあえず口先だけは宥めに入ってみた。

 時間稼ぎにもならないとは思うが。


「私はな、そんなものでは満足出来ないのだよ。交わしたいのは口ではなく、綺麗な男子の体だ」


 男は意気揚々と言い放つ。

 ダメだコイツ。


 特にクサい臭いはしないというのに、私は腐敗臭でも嗅いでしまったかのようにヒクついた表情をしてしまった。


「さぁほれ、早く」


 畳みの三つめの目に指が当たる。


 私はけして知らなかったワケでは無い。

 噂で聞いていただけだが、この男が行ってきた吉原(仲間たち)への仕打ちを。

 ある者は男として不能にされ、ある者は奴に買われ命を落とした。それに安い遊男であれば、お構いなしに針や毒物を使い心中紛いのこともさせていたと聞く。長浜の周りの者は皆奴がおかしいとは思いながらも、誰も彼を止めようとはしなかった。それは罪である。それはこの吉原で生きている人間や妓楼の楼主たちも同じ事。もちろん私もだ。誰か一人でもこの事に声をあげていたのなら、もしかしたら違った結果になっていたのかもしれないのに。

 どれだけ皆が無念で残酷だったか。

 こんな奴が何故外で大手をふって歩いているのか。

 何故みんなはこの男より下の人間であるのか。



 けれども、そんな『何故』なんて。

 此処で生きていれば誰に聞かされなくとも、おのずと理由を分かってしまっていた自分が大嫌いになる。


 目を掴む指先に力が入った。

 長浜を見る。


「貴方は、本当に…」


 一度地獄を見た方が良いと思う。




カタリ、


「貴方が野菊を買おうだなんて何千何億年も早いな。高望みにも程がある」


 しかし突如、その声と共に男の首に刃が突き立てられた。


「なにっ」


 ゆらりと不安定だった空間が、場面を切り裂かれるように一瞬でピンと緊張の糸を張りつめる。

 いきなりの事に、刀を手にしようとした私も相手も目を丸くし唖然としていれば、その後ろからは更に黒い袴を着た人たちが声を高らかにしてやってきた。


「お縄をちょうだいする!」

「そこへ額をつけろ!」


 服装からするに、彼らはこの吉原の警察とも言える方々。三郎兵衛会所の人達だ。吉原の大門を入るとすぐ左手にあるのは「三郎兵衛会所」という吉原独自の警察署であり、そこは各見世から派遣された男が遊男の脱走を監視する場所となっていた。岡引の詰め所も目の前に構えてある。

 吉原で起きる様々な事件等は、主にこの男達を中心として解決にまわっていた。


 と言うことは、これは何かの事件なのか。

 

「その次は誰を狙うつもりだった?まさか端屋の遊女では無いだろうね」


 その声は清水兄ィさま。

 話していくにつれ不機嫌で重々しい唸り声になっていくその様は、まるで閻魔大王が罪人に地獄行きを言いつけているようなものであった。

 それになんと男の首に刃物を押し当てているのはその兄ィさま本人である。鋭い切れ長の瞳が、背後から長浜を強く射貫いていた。

 何故兄ィさまがそんな事をしていらっしゃるのか。


 おいてけぼりな状況はまだ続く。



「長浜。貴様はもうこの吉原には入る事は出来ない。ついでに言えば、貴様の家はもう無いも同然になっている。残念だったな」


 ぽかーんとしていれば、また新たな人物が部屋へと入ってきた。服装は三郎たちよりも立派なもので、頭には笠を被り、黒い羽織の背にはデカデカと『奉』と書いてある。


「なっなんだお前らは!?どういう事だ!!」


 それを見た長浜は急に狼狽え始めた。


「貴様の大好きな金はもう無いと言う事だ。分かれ、下衆が。この天月に手を出した事がそもそもの間違いだったな。吉原の頂点とも言える者が集まり、尚且つ吉原の要と言っても過言では無い楼主の大見世で暴れ回るとは…」

「離せ!私はまだっ」

「好きに騒げば良い。…清水殿、ありがとう。後はこちらでお縄にしよう」


 長浜の周りを皆が囲んでいる。

 刀で拘束していた兄ィさまもその様子を見て、男の首から刀を引いた。


「お父様、清水様、お見事ですわ」


 すると雪野様が手を叩き、ひょこりと襖から顔を覗かせた。

 お、お父様?


「少しやり過ぎな感じもするけどな」

「でもあの男には丁度良いくらいでしょう」


 続いて羅紋兄ィさまと宇治野兄ィさまが部屋へと入って来る。


「宇治野花魁、羅紋花魁、清水殿、協力感謝する」


 お父様と呼ばれた男の人は、その三人に向かってお辞儀をする。

 なんだこれは。

 私の預かり知らないところで何が起きているというのか。きっと後ろにいる松代様や和泉と佐久穂の方がわけわからん状態だろうが。


「いやいや、どう使ってくれても構わねぇぞ。いつもこの妓楼に金を落としてくれている事だしな」


 娘が。

 と笑いをこらえながら後からやって来たのはおやじ様だった。


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