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始まる 受難の日々 14


 寝入っているのかな?

 こんなに良いお天気で洗濯日和の今日だから、きっと沢山洗って疲れたのだろう。洗濯物は回りに手拭いが二枚程しか無かったけれど、これで最後だったのかな。


「ノギちゃん…」


 花の蕾を連想させるお口から、なんと私の名前が出てきた。


「ごめんね」


 思わず前屈みになる。な、なにがなんだ。

 何の夢を見ているのかがとても気になるけれど、私はそこではなく、彼女の口から『ノギちゃん』という言葉が出てきた事に衝撃を受けていた。


 だってノギちゃん、だよノギちゃん。

 記憶を失ってしまい暫く呼ばれ無かったあの呼び名は、今の愛理ちゃんと仲良くならない限り一生呼ばれないと思っていたのに。

 彼女は…まぁ寝言だろうが、確かに前のあだ名で私を呼んでくれたのだ。


「……」

「愛理、ちゃん?」


 その後に続く謝罪の意図は全く読めないけれど、もし今話を掛けたら私を思い出して、今度はその目蓋を開いて、澄んだあの美しい碧の瞳に私を映して名前を呼んでくれるだろうか。

 淡い期待が胸に宿る。


 そよ風に彼女の髪が揺らめいた。


「愛理ちゃ、っんむ」

「しー…」


 愛理ちゃんに再び声を掛けようと身を乗りだし名を呼ぼうとすれば、突然誰かに後ろから手で口を抑えられた。

 予想だにしない事に、口から心臓が出そうになる。しかし口は塞がれているので、この表現が合っているのかは甚だ疑問ではある。

 下目で見えるこの手は完璧に男の手。

 それにこの香り。

 確か彼には好むお香があり、部屋では良く焚いていた記憶がある。護もその香りが好きなせいなのか、度々彼に抱っこをされては待ってましたとばかりに匂いを嗅いでいたものだ。


 身じろぎをすれば、口を抑える手とは違う手がお腹にまわる。


「ん゛んんん?(なぎかぜ?)」

「しー…。あれだけ気をつけていたかと思えば…、なんで二人きりになってるわけ?気をつけなよ」


 透きとおる銀の糸がサラリと頬に流れ落ちる。むず痒い感覚に身体を揺らし目を細めれば、更に拘束がキツくなり身動きがとれなくなった。

 うなり声に近い発声で本人かを問えば、首もとに顔を近づけられた気配と共に、潜めた低い音でそっとそう咎められる。否、咎められるのは私では無いだろう。お前だ。

 愛理ちゃんは目の前で安らかに眠りへと落ちている。いつまで眠っているのかが分からないのと同時に、いつ起きるのかも予想がつかない。

 折角のチャンスを凪風に邪魔された感が拭えないのだが、そんなことを言っている場合では無い。


 彼女から距離をとろうと少しずつ後ろへ足を引く。しかし凪風がどうしても後ろへ行こうとしないので、私は後ろ背に彼へ地味に衝突するばかり。ジャリジャリと草履に砂が擦られる音がする。


「移動したい?」

「ん!ん!(したいっ、したい!)」


 てかさせろ。

 そう必死に言えば少しずつだが、納屋の表の方までまわってくれる。くれる、なんてまるで恩人に対する言い方だけれど、私は全く彼に感謝等していない。寧ろ今にでも足を踏んづけて、チャンスを逃した報いを受けさせたい程である。


「んーんふんっ(もう離せ!)」

「………」


 しかし一向に離してはくれなくて困る。

 もう愛理ちゃんから離れたのだから、解放して欲しい。

 和泉ちゃんのいる自室にも早く帰りたい。


「…」

「…」


 後ろに視線をやり、お互い無言で睨み合う。

 腕も振り回したいというのに、見事に長い腕にホールドされて敵わない。こういう時、たいそう自分が女であるという事と筋力不足で体格も宜しく無いという事を嫌でも思い知らされてしまう。

 そして毎度ながら嫌悪感に陥る自分がもっと嫌いだ。



「こらこら、あまり苛めてはいけないよ」


 無言の攻防戦を続けていると、言葉の割には楽しそうな声が私達の動きを止めた。妓楼側へ振り向けば声の主が欠伸をしながらこちらへ歩いて向かっている姿を認める。

 視線を下におろしその人の足元に目をやれば、彼の足は裸足だった。

 天下の花魁が外で裸足。

 な、なんてことなの。とカルチャーショックを受ける。


「清水兄ィさん、なんでここに…」


 凪風が疑問を声に出した。


 そう、今此処へ忍びよろしくやって来たのは清水兄ィさま。

 しかし登場が唐突だな。

 本当、たまにこの人は忍者か何かにでもなれるのではなかろうか、と思う事がある。気配消すの上手すぎだよ。サスケだよ。

 そんな神出鬼没を極める兄ィさまは、欠伸を隠していた手を口から胸元へ移し両腕を組むと怠そうに答えた。


「あぁ、良く見えるんだ。あそこは」


 含みのある視線を後ろにやり、自分がいた場所を暗に教える。


「橋、ですか?」


 私は斜め横を指さして首を傾げる。

 妓楼の外廊下には川も無いと言うのに、井戸や納屋がある裏手の離れた所、邪魔にならないその位置に、赤色の小さな橋が外廊下に繋がるようにしてそこにあった。

 オブジェのような物だと言っても過言ではないだろう。飾りに限りなく近い物だ。

 それにその近くには桜の木が植えてあり、桜が花を咲かせる頃にはその赤い橋に乗って花見をする事も一興で、実に情緒がある。


 そのような所にいたと言うことは、まだ蕾も開かない、蕾事態もまだ少ない桜の木を楽しんでいたのだろうか。


「でも楽しそうだね。何をしているのかな」


 私達二人を見て目を細める。


「僕は愛理が嫌いで仕方がないんです。だから野菊を彼女に近づけたくは無い」

「ん、ん!?」


 凪風から放たれた衝撃の言葉に、私はブルブルと震えた。

 あの、言っている事がワケわからないのだけど。


「そう。でも私は前に言った通り彼女が嫌いではないから」


 その『彼女』とは誰を指すのか。


「いつまでも甘い考えを持っているから駄目なんですよ」

「甘いなんて心外だな。女性には優しくするというのが私達だろう。それにね、そんな事をしていても…心からの笑顔が見れないのなら、何の意味も無いだろう?」

「…何を言って」


 兄ィさまの言葉に凪風の手が私の口から一瞬離れる。


 それを良いことに、私は今聞かなくても良い事を口に出してしまう。

 自分や二人を落ち着かせるのなら他にももっと話はあったはずで、今日は良い天気ですね、とか、裸足で痛くは無いのですか、とか、今の話はどういう意味なのですか、とか色々と、それはもう。


「あの、あの」

「ん?」

「私と秋水は夫婦に、その…見えるのでしょうか」


 しん、と辺りが静まりかえる。


 自分で言って、何言ってんだ、と思った。

 話の腰を折る、と言うのはまさにこんな感じなのだろうなとは理解しているが。


「清水兄ィさまには、私は、どう見えているのでしょうか」


 動揺して、尚も話を続ける。


「私、あの、あの」



 この話を野菊が切り出した理由として近いものは、現実逃避にも似たものである。

 そしてそれは無意識下に野菊が気にしていたと言っても良い出来事。普段ならば気にしない、あれは彼女にとってなんて事の無い会話だった。

 しかし今、自分だけが理解のできない、わけの分からない状況になってしまい野菊は頭の中が空回りに超が付いて真っ白になっていた。

 真っ白とは言い過ぎだが、うっすらと今のこの状態が少し可笑しいなと思える程には。


 凪風が愛理を嫌いだとか、自分を近づけたくは無いだとか、彼の言動にはいつも謎が多くて頭が痛くなっていた。謎の言葉を投げ掛ける癖に、オブラートに包むように肝心な事は必要は無いとばかりに教えてくれないからしまりが悪くてどうしようもなかった。

 けれどもしっかり聞かなかった自分も悪いという事は、野菊もとっくの昔にわかっている。


 でも今はそんな事では無く、自分の口から出てきた内容は凪風にするはずの質問でも追求でも無い、清水が自分へ言った昨日の言葉に対する質問。それほど今重要では無い事を何故この期に及んでするのか。


「私、えっと…待ってくださいね、ちょっとなんか」


 額を押さえて、視線をさ迷わせる。

 様子のおかしな彼女に、男二人は目を少し丸めた。

 何度も言うが、野菊の頭の中はほぼ真っ白。霧の中をさ迷うような混乱にある。

 そして何度も言うが、それを彼女は無意識に気にしていたのだ。通常は意識されていない心の領域において、自覚もあまりなしに胸へつっかえていた事。

 それは要約すれば、かなり気にしていたともいえる。


 正常な思考回路だったならば、きっと野菊はこんな質問をしてはいなかっただろう。しかし空回りの思考回路に支配されてしまっている彼女は、今は自分が清水にどう見られているのかが気になると言う。夫婦と言われたのならば、自分は彼にどう見られているのか。秋水との仲も含めてである。

 そしてその言葉の中には、到底そのような物事に対する察知能力に優れた者にしか分からない事も含まれていた。

 それは質問をした野菊自体にもまだまだ分からないモノ。


 清水兄ィさまは私がした急な問い掛けに瞬きをする。

 そんな兄ィさまが口を開くより先に、凪風が私の腕を引っ張り井戸の方へと促した。


「そんな事を聞いて野菊はどうしたいわけ。…ほら洗濯途中なんでしょ、早くしたら」

「へ、あ…っうん!清水兄ィさま、変な事を聞いてごめんなさい」


 そう声を掛けられると僅かばかりに我へ返り、おかしな言葉を兄ィさまに向かい口走ってしまった事を謝る。

 凪風に腕を引かれる分だけ距離が開いて行った。


「野菊」

「はっ、はい」


 呼ばれて後ろを振り向けば、困ったような、眉根を寄せて罰の悪い顔をした清水がいた。しかしそれでいて目元がほんのり赤くなっている事に、野菊は気づかない。


「早く大人になりなさい」



 頭上で雀が鳴いた。

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