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数ある最期、ある一つの象(かたち)

 少女が鎖に繋がれ横たわるのは鉄格子の奥、敷物も布団も何も無い部屋。それでも何があるのかと聞かれたらならば、申し訳程度に厠と呼べる穴が床に開いているという点だけだろう。暗く冷たい空気が張り詰めるその場所には楽も幸も感じず、ただただ不が蔓延しており、この空間に触れるだけで気が滅入る程に闇が満ちている。


 冷えた木の床には小さなシミがいくつも見えた。濃いものから薄いものまで、少し湿り気を帯びたものが。しかしシミだけで無く部屋全体が苔かキノコでも生えてきそうな湿気に包まれており、それはジメリと少女の肌に纏わり付いてくる。

 何日、何十日と風呂に入らず汚れた身体をまともに拭いていない人間がいるこの場所は、体臭とはまた違う酸っぱい臭い、 膿臭い匂いが充満していた。

 ただ一人長くそこにいるのは少女のみだが、少女は臭いなど気にも止めていない。何故ならば嗅覚が反応していないのである。あたり前の臭いに身体は何の異常も訴えてはいない。もっともそれは最近になっての事だが。


 そんな何もかもが腐敗した場所にいても、少女の瞳には曇りそうで曇らない輝きが宿っていた。まるでうたた寝を繰り返すように。



*********


 妓楼内で罪を犯した者が仕置きを受けるその場所は折檻部屋と言い、日に三度折檻が行われる。仕置きの手順は様々だが、この少女に至っては髪や身体を切られるだけでは無く、柱や木に縛りつけられ打擲、数日間食事は無し、また鞭で叩かれ熱湯を浴びせられ、傷口を焼く様な痛みを味あわせる事など、気の遠くなるような折檻を遂行されていた。男たちの日頃の鬱憤ばらしの対象になってしまった事も運の尽きと言えるだろう。


 その三度しか滅多に人が訪れない場所に、ザッザと人が地面に足を擦らせながら歩く音がした。もちろん横たわる少女が出した音ではない。

 近づく音は鉄格子の前で止まる。


「良かったね。もうすぐ此処から出られるよ」


 暗い中唯一の光である松明の光を背に、鉄格子へ影を落とす男が一人、視線の先にいる少女に向かって口を開いた。

 微笑む、という仕草が不釣り合いなこの場所で、男は静かに微笑みを見せる。実に不釣り合い、実に不自然、実に道徳観を混雑させる笑みであった。


「だからどうしたの。私は折れない」


 だがそんなことはまるで気にも止めず、返事を律儀にする。

 横たわりながらも淡々と相手へ返す言葉は強く美しくも見えるが、それは逆に相手にとったら馬鹿にされているようにも思えてしまう。


 話の意味を理解していれば。


「ああ、そう」


 少女の言葉に先程まで微笑んでいた彼の口角は下がり、同時に眉間のシワが深く刻まれる。相手を怒らせたという自覚は少女に無かったが、機嫌を損なった顔を見せられれば自分の放った言葉がいかに挑戦的なものだったのかと気づく。

 少女にとって今の言葉は自分に言い聞かせたようなものなので、けして果敢に挑むような姿勢を見せて聞かせたかったワケではない。しかしそれを相手に言ったところで状況は何も変わらないという事を、少女は嫌というほど分かっていた。分からされていた。


「反省とか、彼女への謝罪も土下座も何も無いワケ?」

「義理が無いもの」

「頭さ、イッてるんでしょ?叩けば治るかな?ねぇ…」


 頬を引き攣らせ拳を握る男の瞳には狂気が見えた。


 しかしそんな事を言われても少女には謝る義理が見当たらない。確かに自分が彼女にしたことは人としてしてはいけない事だった。ましてや人を殺そうとするなど、とち狂っていたと言われても仕方のない事。だけれど人として最低な事をしていたのは彼女も同じだった筈だ。何をあんなに必死になって私を陥れたのかは理解出来ないが、少なくとも自分が彼女にとって邪魔な存在だと疎まれていた事は間違いではないと思う。

 

「煙、の臭い?」


 ふと、鼻につんとした焦げた臭いを感じた。

 上がやけに騒がしい。


『おい火事だ!!吉原全体に火が回る前に大門まで逃げろ!』

『水じゃ消えねぇ!早くしろっ』


 鉄格子の前にいる男も何やら異常を察知したのか顔を先ほど以上に顰めさせた。

 そして何かを考える様に顎に手を当てると、少女に背を向け歩きだす。


「待ってお兄ちゃ、」

「今更兄なんて呼ばないで。じゃあね、愛理が心配だ」


 咄嗟に少女が上げた声も虚しく、兄、と呼ばれた男は後ろ髪を引かれる様子も無く、愛する者を探しに外へと走っていってしまった。


 少女を陥れた、愛しい愛しい(ひと)の元へ。


************



 このまま火事になり助けも来ないとしたならば、私は誰にも気づかれず独り朽ちて逝くのか。と妙に冷静な考えを持つ自分がいる事に、野菊は不思議と違和感を感じなかった。


 だがどうせ死ぬのなら、せめてあの人に会いたかった、と思わずにはいられない。野菊はぼんやりとその会いたいと言う人物を脳裏に浮かべた。

 何故か自分を最後まで見捨てずに色々と構ってくれたあの人。まぁ皆よりは、だけど。と一人愚痴る。

 叶いもしない夢物語を聞かされたことは何回もあった。


『いつか遠くへ行って、誰も他にいない田舎で暮らして君と二人で死んでいくのも悪くないかな。ね?』


 鉄格子を挟んだ向こう側で、何が可笑しいのか微笑みをたえながら野菊を見てそう話していた。そんな時はいつだって膝を折り曲げてしゃがみ、床へ座りこむ野菊とわざわざ目線を合わせてくるのだ。

 彼女としたら心底居心地がいいものでは無かったけれど。何処までが冗談で何処までが本気なのかが中々分からなく、こんな鎖で繋がれている状況にもかかわらず、野菊その事について悩んだ回数は数知れない。


 助けて欲しい、などという言葉を野菊がその人物に言った事は無い。

 言ったところで何も出来ない事は分かりきっており、もし助けられたとしても結局巻き込んでしまう。


 いつだって野菊がやらかした事には触れず、世間話ばかりしていた。この人、私と話すなんて馬鹿じゃないだろうか、と野菊自信が思った事は何回もあるが、それでもやはり、この牢屋のような折檻部屋にいるという事を忘れさせてくれるような一時だったというのは、変えようのない事実だった。


「けほっ、」


 喉が空気を通したがらなく、彼女の意識はだんだん遠くなってくる。

 煙が津波のように、窓もない折檻部屋へと押し寄せて来ていたのだ。当然、息が上手く出来ない彼女の呼吸は速くなる。

 吉原で火事になるとは運が悪い。大きな壁で囲われたでかい牢屋の様なこの町は、火の手が上がってしまえばたちまち建物から建物へと炎が移る。出口は大門しかないため、そこを目指して逃げなければ、全焼にも近くなるこの場所で息耐え死んでしまうだろう。

 もっとも、大門近くで火事が起きてしまえば逃げるのは皆無に等しい。


 そしてついさっき煙がこの部屋に漏れて来たかと思えば、数秒後にはたちまちあたり一面が火の海と化した。不自然な程に火のまわりが早い。こんなに直ぐに広がるものなのだろうか。

 真っ黒い油煙をあげる毒々しいほどの赤い炎は地獄への入口かと錯覚させる。墨汁のようにどす黒い煙が目に染みて痛く、野菊は目蓋を閉じた。


 遂に自分の最期がやって来るのか。





『おいで。君が目一杯息をするのに、この世は少し穢れ過ぎていたみたいだ』


 野菊は目を閉じている為気づいてはいないが、一人の人間がその炎の入口から現れていた。

 その者は鉄格子の鍵を容易く解錠すると、彼女の元へとゆっくり近づく。


『いつも最後の最期で甦る記憶に…報いられなくて情けなくてやりきれなかったよ』


 誰かの声がする。

 目が中々開けられなくてもどかしい。木が崩れる音も相まってか余計に誰の声かも分からない。

 でも身体の感覚だけはまだあるので、その誰かに身体を起こされ支えられた事は分かった。


『もしまた出会えるのなら、こんな自分を愛してくれなくても良いから、だから』


 熱くて息苦しいの筈なのに、火とは違う暖かい温もりにつつまれている感覚がする。安心する温もりだ。

 けして良い人生では無かったけれど、最後にこんな、少しだけれど穏やかな気持ちになれたのなら、まぁ悪くは無かったかなとは思える。


『もう一度』


 あぁでも、この温もりがあの人だったなら、尚も悪くは無いと思えたかな。抱き締めて、思いきりぎゅっとされて、


“愛してるよ”


 なんて言われたのなら。

 想像しただけで涙が溢れてくる。

 閉じた筈の目蓋からは抑えきれない涙の粒がポツリと頬をつたい流れ落ちた。同時にみっともない泣き声が出てしまいそうで怖く、震える唇と歯を食いしばって耐えた。


 あぁ、悔しい悔しい悔しい。

 何でこんな事になってしまったのだろう。

 私は一体なぜ此処で生きていたのだろう。いっそのこと誰にも出会わず、ずっとずっと一人のままで、恋も愛も何もかも知らずに生きていれば良かったのに。そうしたら何も失わないで、傷付かないで済んだというのに。せめて彼の人を愛するだけで自分が満足出来たのなら、同じように愛をくれることを願う心が無かったのなら、楽だったのかもしれない。けれど愚かな事に、私は恋をする事しか出来なかった。彼に恋しか出来なかった。恋をする事を教えてくれたあの人は、この想いの無くし方を教えてはくれないのだろうか。

 もしあの世に地獄があるのならば、私は喜んでそこへ行きたい。痛みや恐怖、果ての無い苦しみだけを与えられていたい。幸せな一時なんて欲しくは無い。知りたくも無い。

 


 でも…それでも。

 と記憶の中の彼に向けて、今まで言えなかった事を呟く。


「や、さしい、目が、好きで」


「わらった、顔が、好き、だったん…です」


 誰が自分を支えているのかなんて、もう気には止めていなかった。動く気配が全く無いのと、もうこの場所から逃げる事が出来ないのは分かっている。

 鎖に繋がれた足は、炎を浴びせられ熱を持った鉄の輪に焼かれている。痛さに悲鳴をする場面だとは思うが、悲鳴を上げている力も暇も最早野菊にとっては無駄に等しい。


 口に出す言葉が粗末な悲鳴で終わるなんて絶対に嫌だった。それは野菊が折檻部屋でいつも思っていた事。


「わたしをっごほっ…きらい、にならないで」

『うん』

「ずっとずっと、っく、ふ、一緒にいてもい…い」

『うん』


 不思議と声が返って来る感覚に、薄らと目を開け前を見る。

 しかし睫毛に錘を乗せたかのように重い目蓋は、隙間程にしか開かない。


 だが息もまともに出来ないのに、思わず野菊は息を飲んでしまった。


「う、そ……だぁ」


 これは幻覚だろうか。

 わたしを抱き締めて微笑むあの人の姿が間近に見えるではないか。額からは血を流していて、あちこちに火傷の痕があり痛々しい姿をしている。

 でもこんな所にあの人が居る筈は無いから、これは火事の渦中で見る、私が無意識に想像した傷を負っているあの人の、正真正銘幻だと思う。

 けれどこの際、幻覚でも何でもいい。

 私のほんの気持ちを最期に伝えたいと思った。


 ああ神様ありがとう。

 幻だけれど私のお願いを最後に叶えてくれて。


「わた…あ、たがね、」


 ゴォオ…と炎が音を立て飲み込むように押し寄せてくる。じりじりと肌をあぶられるような熱気を感じた。

 赤い炎が天井も床も空気さえまきこみ、この世にある全てを焼き尽くさんばかりの勢いで渦を巻く。

 途切れるように呟いた野菊の言葉は最後まで紡がれることなく、炎の中に燃えた。野菊を抱き締めていた“幻”と共に。



*************


 例えばこれが夢だとして、現実だとして、この想いの先に貴方がいてくれているのなら。

 叶う事の無い夢物語の続きを聞きに私は貴方にもう一度会いたい。


 だから、きっと今度こそ、その時は。

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