始まる 受難の日々 11
部屋に籠る私は、別に引きこもりのニートでもコミュ障な人見知りでも無い。
「寒いねーチャッピー。火鉢の近くは暖かい?」
「ゲー(寝るから話かけるな)」
「なんか超冷たい」
冬眠をしない代わりにかなり眠気があるのか、寒い時期になると火鉢の近くでグータラしだすこの蛙。そんなニート蛙にも邪険にされる私は一体なんなのか。とりあえず生き物には違いない。
あのあと慎重に兄ィさまと妓楼に帰ってきたが、直ぐ様入口で繋いでいた手を離し「すいませんでした」と言って私は自室へと向かった。
そんな私に怒る素振りも見せず、ただただ笑顔で「いいよ」と頷き見送ってくれた兄ィさまには頭が上がらない。しかしそうやって直ぐに逃げてしまった私だけれど、すっかり忘れていた事がある。あの兄ィさまの唐紅の羽織を本人に返さなければいけないという事だ。
あぁ本当、今日はなんて日なんだ…どうせならあの羽織を持って外に出るんだったよ。
「…行こう、かな」
意を決して化粧台の横にたたんで置いてあるそれを手に取り、清水兄ィさまの部屋に行こうと重い腰をあげ立ち上がる。護も再び探さなければいけないし、このままずーっと呑気にゆっくりとしてもいられない。本音を言えば一人ゴロゴロしていたいけれど。
部屋着用の茶色い羽織を着て、先程閉めたばかりの襖へと再び手を掛ける。
「ニャア」
と同時に自室の戸の向こう側から猫の声が聞こえた。
この声は護?
「野菊、いるかー?」
ら、蘭菊じゃない!
石のように固まった私の姿勢は、戸を開けようと前屈みになり襖に手を掛けたまま。
ダラダラと嫌な汗がこめかみに流れる。
だから何で追ってくるのじゃコヤツは!
「いる、けども…」
蛇のようなしつこさに、あぁもういいや…と半ば投げやりな気分になったので返事をする。諦めろ馬鹿者、という天からの御告げが聞こえた気がしたのですアーメン。
「なんだ居んじゃん」
声を返せば蘭菊から疲れ呆れながらもホッとしたようなそんな明るい返事が返ってきた。
ところで、ゲームの中の蘭菊についてだが。
ゲーム設定での蘭菊の生い立ちは皆と少し違う。違うと言っても彼の場合、大名の子であるという事は変わり無い。皆と違う部分とは、蘭菊の場合は不実の子と言われていても、父親がしっかりと認知していたという所。母親をド田舎へ追いやる事も無く、同じ敷地の離れで暮らしていたのだ。他の花魁たちと比べても父親からの扱いは一番マシだったと言える。
しかしそんな彼に、最悪の転機が7歳の時に訪れる。
父親の正妻の遣いである女房に、目障りだからと妓楼へ売られてしまうのだ。もちろん女房の独断ではなく、正妻の命令でやったということが後々語られる。
一度吉原に入ってしまえば売られた者が出ることは愚か、売られた者を外者が探すことも難しい。父親や母親が探した所で、蘭菊が見つかっても既にどうこう出来る状況ではなかった。
そして問題はゲームで主人公が癒さなければならない蘭菊の心の傷。
要は自分を売った女房に幼いながらも恋心を抱いていた蘭菊。小さいけれど立派だったその初恋は、売られた時を境に彼の心を蝕んだ。女は見掛けじゃ信用出来ない、裏切る、汚い、好きになってはいけない物、だと認識してしまうようになった幼い彼。親から売られる事はあっても、恋をした人に売られるなんて事は早々ない。恋に破れるよりたちが悪い。
そうして女性に対し皮肉になった彼を主人公の愛理が癒し、凝り固まったガチガチのハートを溶かしていくのだ。
でも女性、不信?蘭菊が。
ま、まぁ女性不信だったのなら昔から私にツンツンしてたワケに納得はいく。
でもゲームの内容を思い出してからずっと思っていたけど、……別に不信になってなくね?
だって宇治野兄ィさまのお得意様の橋架様を見て、
『あの人美人だよな。それにひきかえお前はなんだキノコか』
『月とスッポ―いや野菊か』
なんて事を言っていたり。
他の兄ィさま達に来たお客を見ても、
『俺はお前と逆の感じのあぁいう美人が好きなだけだ。ん、あ?ち…ちょ、待てよ、今のは言葉のアヤで別にお前が美人だなんて言ってねーからな!お前と逆のっつーのはあれだな、こう出る所が出て引き締まる所が』
『……で?(冷めた目をした野菊)』
と別段女性を苦手とした所は見受けられなかった。
それはつまり蘭菊がゲームどおりのキャラクターになってはいないという事。
全くコイツに至ってはもう何が何だか私自身分からない。愛理ちゃんとそれなりに上手くやっているのは分かるけれど。
「チャッピー寒がりだから、あまり戸は開けられないからね」
そう言って襖を少し開け蘭菊に顔を見せる。途端、目一杯の笑顔が私を出迎えた。
「お前の屏風出来たみたいだぞ!」
「えっ、嘘!」
「ほら此方来い!おやじ様の部屋に届いて置いてあるんだ」
開けた襖の外から右手を掴まれ、今朝食堂で引っ張られたように廊下へと引き摺られた。
「で、でもこれ」
しかし兄ィさまの羽織を届ける任務が私にはある。
握り締めている羽織を見ながら、蘭菊は何を思ったのか私の手から清水兄ィさまの羽織を片手で勢いよくブン取った。その一連の動作に唖然として口を開けていると羽織を手に入れた彼も一時停止しており異様な空気が流れる。
そして弾かれた様に蘭菊が私のほうを向くが、それは一瞬の事で直ぐにそっぽを向き口を尖らせて嫌そうな顔をしながら私に言葉を放った。
「んなもん俺が届けてやる」
************
屏風とは、小さい襖のような物を何枚も横に並べくっ付けた言わば手軽な仕切りのような物で、一枚一枚の板を屈折させて初めて自立し物になる。屏風には絵師による様々な芸術が描かれており、華や動物、風景に人物や日常的な光景美があったりする。
屏風は部屋を飾るのに欠かせない物。昔はそうでも無かったのだが、ある年から座敷に屏風を置くと言う習慣がついた。普通の遊男ならば妓楼で扱う何枚かの屏風をその時その時でつかう部屋に借りて置くのが一般的なのだが、部屋持ちの花魁なら尚のこと屏風を持っていなければいけない。部屋持ちとしての一種のステータスだと言えよう。
一階に降り蘭菊に連れられたのは楼主部屋。別名おやじ様のサボり部屋とも言う。
蘭菊が戸の外から声を掛ければ、声を掛けられた人物は至極ドスの効いた返事をし部屋の中へと入るよう促す言葉を私たちに掛けた。そして促されるままに中へと入った私たちを迎えたのは。
「花が綺麗ですね」
「四季を描いたんだそうだ」
おやじ様が茶を飲みながらそう説明してくれた。
右から春夏秋冬の花が順番に描かれているのがわかる。基本屏風絵は右から左に流し見るため、描き方としては道理の通った作品だ。
「あと二つ作って貰ったんだが、どうだ?」
「二つも!?」
「大きさの違うやつなんだが、四曲と二曲がある。菊の花が主体だ」
兄ィさまたちも自分の物はもっている。蘭菊たちにも二ヶ月程前に注文していたものが届いていた。皆オーダーメイドなので自分の希望の柄や色が一つの屏風になっているとあって、届いた日にはそれはもう狂喜乱舞ものだった。(過剰だったのは蘭菊だけ)
そんな様子に指をくわえて羨ましがっていた私だが、自分だってちゃんと注文はしていた。ただ頼んだのが皆より遅かったのだ。
ちょいと嫉妬心を覗かせていた私に苦笑する皆が、ここぞとばかりに屏風を私に見せびらかせて来たのを覚えている。でもあれは見せびらかせているのでは無く、たんに「こんな立派なものが届くんだぜ。もうちょっとの辛抱だ、お前男だろ?」と勇気づけてくれていたのかもしれない。
しかし、これで私にも屏風という武器が手に入ったわけだが。
「やっぱ凄ぇよな~。六曲の普通にデカいやつも良いけど二曲の趣も好きなんだよな俺」
「おいオメェのじゃねーからな蘭菊」
私よりも興奮気味な隣の馬鹿ならぬ蘭菊は、目をキラキラと輝かせて屏風に魅入っている。これ私よりも感動してるよね。私の立場は一体…。
でも他人が喜んで見ているのを見ると、こちらの気分も自然と上がってくる。げんに私の顔はその蘭菊の喜びようと屏風の素晴らしさに口角が上がるのを抑えきれていない。女友達同士で「これ超可愛くない!?」と可愛いらしいキーホルダーを指差してキャッキャと騒ぐ感覚に近いなと思えば、それもそれで可笑しな話だと一人笑いの渦に呑み込まれ腹を抱えてしまう。
「ぷふ、あっはっはっは!蘭ちゃん興奮し過ぎっ」
「だってスゲーじゃん!」
「はっははははもうやめてお腹痛いー」
腹を抱えながら蘭菊を指差し笑うと、心外だとでも言うように真剣な顔をする。そして覚めやまらぬ感動を伝えようと両手を握り締め、凄いんだ、と此方を振り返り必死になって伝えてくる蘭菊に腹が捩れた。
なにこの子可愛いんだけど。
「…お前ら大丈夫か頭」
馬鹿丸出しの光景におやじ様が微妙な顔つきで伺ってくる。
「もうすぐ夜見世の時間になる。お前野菊の部屋にこれを持っていってやってくれ。今手伝い何人か寄越すから待ってろ」
「それで俺呼んだんですか。…人使いが荒いオヤジだな」
荒い荒い、と部屋を出ていったおやじ様に文句を言う彼だが、その後には何故か心底安心したという声で笑い掛けられた。朝の不機嫌さはどこへやら。当の私も笑いながら、だよねー、なんて言って普段道理話が出来ている。そこでハッとこの状況に目を見開き口元に手を当てて、視線を蘭菊から遠ざけた。
ちょっとちょっと何を呑気に会話しちゃってるの自分!ここ一階だしもし万が一彼女にこんな所見られて聴かれていたらどうすんの!
口が動かない分瞬きを通常の三倍くらい多くパチパチしていれば、少ししか距離が空いてない所にいる蘭菊が畳を踏み歩いて近づいてくる音がする。
「ああ、やっぱな。やっぱりいつものお前が良い」
そう笑顔で言って首元に顔を埋めてくると、口元を抑えたままの私に構うことなく、らしくない行動で背中に腕を回されぎゅっと抱き締められた。
笑顔というか安心したような顔に近い気がした。
「そう、かな」
「言っとくけどな、お前に避けられると気分が悪くなる。なんでお前なんかに気分を損なわれなきゃいけないんだっつーの」
宇治野兄ィさまの教育の賜物なのかなんなのか、背中をポンポンと叩く仕草は母そのもの。
ツンデレの癖に生意気な。しかしツンデレらしくツンな発言をしている限り蘭菊の調子は絶好調だと勝手に推測する。
「べ、別にね、皆が嫌いなワケじゃない。寧ろ大好きだし、これはえっと…そう!修行みたいな」
「修行?」
思わず口から出てしまった言い訳に、私はピンとくる。そうだ、この手の上手い言い訳があったじゃないか。花魁で女の身であるが故の悩みが。
今から私が言おうとしていることはあながち間違いでは無いのだが、今回のゲームの運命云々はあまりそれとは関係無いので嘘をつくにも等しい。
急に面を上げ明るくなった私に怪しげな顔を見せながらも、蘭菊はその真意を問おうと首を傾げ私の言葉を繰り返した。
「うん、自分を鍛える。皆と一緒にいるとどうしても男には敵わないって、こう…れ、劣等感が生まれるから、だから自分なりに…そのもう少し皆と離れて」
「なんだそーいう事かよ~」
「え…」
最後まで説明しきって無いのに結構簡単に納得される。思わず『え?』と声が漏れてしまった。自分で言うのもなんだけど、些か味気ない。
しかし納得してくれたのならそれで良いか、グッジョブ!と心の中で親指を立てる。
「蘭ちゃん宇治野兄ィさまに似てるね。直ぐに抱き締めて背中撫でてくれるとことか秋水もそうだけど蘭ちゃんも」
安心した私はつい調子にのってベラベラと喋りだす。しかしそれが悪かったのか蘭菊の動きが止まった。
「は?…うぁ!?いつまでくっついてんだよクソ!」
「くそ?クソ!?蘭ちゃんがくっついて来たんじゃん!!」
汚い物にでも触れたように手をペッぺと払う彼に、先程とは違いイラッと感が増す。この野郎…と腹が立ったので私の方からしたのでは無いと端的に言えば、ばつが悪い顔をしてそっぽを向き口笛をぴゅーぴゅーと吹き出した。
かごめかごめを吹かないで欲しい。妙に上手いし。蛇でも呼び寄せそうだ。
「おーし待たせたな。コイツらと運べ」
しかし彼の吹く口笛でやって来たのは蛇ではなく、ついさっき手伝いを呼びに部屋の外へと行っていたおやじ様だった。
勢い良く襖を開けたおやじ様の後ろにはワラワラと人の気配が幾つもする。
「兄ィさま!ぼくたちは力もちですのでぞんぶんにこきつかってください!」
気になって覗いて見れば、弾かれたように小さい人間が突飛してきた。
「兄ィさま!」
「兄ィさまおれもです!」
「ちからもちなのです!」
ピョコピョコと小さな禿ちゃん達四人が子ガモのようにおやじ様の後を付いてやって来た。
なんの集団だこれは。
おやじ様がなんか保母さんに見えてきたぞ。その更に後ろにいる下働きの男たちはその保母見習いみたいに見えた。なんだか無性に眼科へ行きたい。
禿の皆は私と蘭菊の前に並ぶとそれぞれ片手を上げだし、いかに己が力持ちであるのかということを主張してくれる。
しかし改めて四人を良く見てみれば、共通する点がひとつ。皆、ある人物の部屋付きだという所だ。
「こらこら、飴を食べながら喋ったら喉につかえますよ」
そうして眉を潜める私の前にいるおやじ様の、更に後ろからやって来たのは脳裏にたった今浮かべた人。四人の禿の頭へ順番に手を置き嗜めながらも優しく微笑む方は、
「宇治野兄ィさんですか?ありがとうございます!兄ィさんで良かった~」
宇治野兄ィさまその人だった。
蘭菊は喜んでいるようだが、羅紋兄ィさま含め私は最近全くめっきりこれっぽっちも宇治野兄ィさまとお話していないので非常に気まずい。
蘭菊の後ろにいた私に気づいた兄ィさまは、彼に軽く挨拶をすると此方に笑顔を見せてくれた。なので私も軽く微笑んでお辞儀するが、直視するのも躊躇いがあるため直ぐ様禿ちゃん達だけに視線を固定する。
「良いね~飴貰ったの?美味しい?」
「野菊、久しぶりですね」
禿ちゃん達が舐めている飴について話し掛けたら、違う方向から私が話掛けられた。
「はははい、お久しぶりです」
身の縮む思いでカラクリ人形のように会釈をする。しかし目線は相変わらずチビッ子たちに向けたまま。
「うじの兄ィさまにいただいたのです!」
「おいしいのです!」
「あまいのです!」
ぎこちない私の様子とは裏腹に、ピヨピヨと可愛らしいピヨコたちが我先にと飴の美味さを前のめりになってまで伝えてくる。マジ超可愛い。
ほくほく顔で高揚しピンク色になっている頬には、飴の形らしき曲線がポコンと突き出ているのが見える。…これはピヨコではなく、もしやハムスターか。
先ほどまでガチガチに固まっていた顔が嘘のように緩む口元を抑えきれない私は、他人から見れば変質者かと思われる程にだらしなく変態的な顔をしているだろう。しかしこればかりは仕方がない。私は昔から可愛らしき物や者たちに弱いのだ。
しかもお気づきだろうか。
この子たちの喋り方が完全に宇治野兄ィさまの敬語喋りと同じになっている事を。
いや、年上の先輩に敬語を使うのは普通なのだが、その敬語の雰囲気というかなんというか。例えるならば、ある所にあまり似ていない兄弟がいたとして全然声とか見た目も被る所がないのにふとした瞬間に見せる仕草が似ていて「あ」と思い直し良く良く兄弟を見てみれば「なんだやっぱ兄弟だな」と納得できる雰囲気を纏っていたという事実に気づいた時の感じ。
…う?いやちょっと待てよ、考えといて何だが分かりにくいな。しかもちょっと違う気もしてきた。だから結局何が言いたいの私。
「屏風は重いですからね。慎重に持ち上げましょう」
兄ィさまが着物の袖を捲り裾を少し開いて持ち上げる準備をしだす。
それに習い下働きの男達も気合いを入れて腕捲りをした。
「宇治野花魁、俺達は六曲のほうを二枚重ねで持つんで、四曲のほうをお願いします」
「分かりました。そうしましたら蘭菊は二曲の方をお願いしますね。鈴と鷹と時雨、泉も一緒に運んでください」
「申し訳ねぇです花魁。下働きが立ち入り禁止じゃなきゃあ俺達男衆だけで運んだんですけどねぇ」
鈴と鷹、時雨と泉とは禿ちゃんのそれぞれの名前。
呼ばれた当人達は待ってました!とばかりに蘭菊の元へ駆け寄りお手伝いを始め出す。意外にも蘭菊は下の子の扱いが上手なので楽しく作業をやっている様子が見てとれる。扱いが、というより奴がガキんちょと同じレベルだと思ったほうが納得いく。
「私はどちらを持ちましょうか?」
「なら此方をお願いします」
屏風の持ち主である私が手持ち無沙汰なのもどうかと思うので、仕切る宇治野兄ィさまに聞いてみれば指で示されたのは四曲の屏風のほう。ワォ、と脳内で外人のようなアクションをしながら宇治野兄ィさまの近くへと歩いて行く。
「そんなに俺の事が嫌いですか」
「え?」と間抜けな声を出した瞬間自分の体が宙に浮いたかと思えば、背中と膝裏に手が回り宇治野兄ィさまにお姫様抱っこをされた。そして結構な早さでおやじ様の部屋から持ち出される。顔に似合わず逞しい兄ィさまの、舌を噛みそうな程に揺れる腕の中で思いきり戸惑いながら私は手を胸の上で握り締める。
なになにこれどーしたって言うの。私なんで担がれてんの。
口を真一文字に結び下から宇治野兄ィさまの顔を伺い見れば、その視線は真っ直ぐに前を向いていて私の視線には気づいて無いようだった。
階段を前に一度足を止めたかと思えば、次には見えない糸に引っ張られるように階段を上がっていく。
放たれた矢のように駆け上がる様子は、本当に私を担いでいるのかと突っ込みたくなる程だった。
********
久しぶりに入った宇治野兄ィさまの部屋は相変わらず綺麗に整理整頓されており、清潔さに溢れていた。しかもお仕事前なのでそれ仕様になっている。
新しく取り入れた宇治の花の屏風をバックに赤い六畳程の敷物を畳の上に敷き、箏や三味線は屏風の斜め後ろに置いて、暖をとる為の火鉢は部屋の中央へ鉄箱に入った木炭と一緒に置かれていた。
この火鉢に木炭を入れる役目は新造にあるので、基本冬場は火鉢に一番近い所に鎮座するのが決まり。まぁ雑用係のようなものだろう。しかし逆に言えば兄ィさまと客を差し置いてヌクヌクと暖まれる非常に良い特等席とも。
そんな新造でも兄ィさまに指示された芸を披露する時の為に自分の道具は予め部屋の襖前横に置くこととなっている。なので今この部屋の襖近くには、宇治野兄ィさまに付いている新造の物らしき三味線や扇子が慎ましやかに置かれていた。
私の体は未だ兄ィさまの腕にあり、そのまま畳の上に座られる。胡座を掻いた兄ィさまの足の間に座る形になったが、今から一体どうすれば良いのか誰でも良いので私にお教え願いたい。
丸い格子窓からからは紅い夕陽を背にカラスが羽ばたいている姿が見える。可愛い七つの子があるからよ~なんて確かカラスの歌にあったけど、あのカラスも子沢山で今から家族が待っているお山の巣に帰るのかな、ご苦労さん、とか特に取り留めの無いエールを心の中で送る。
一方の私は今日一日逃げ追われ隠れ連れられ、抱え拉致され。
今はこうして宇治野兄ィさまの足の間にいるわけだが、未だ相手方は何も話してくれない。お腹の前に手を回され、前後に兄ィさまの体ごとユラユラ揺らされているこの状態は何なのか。揺りかごの如く眠気を誘う。
キメの細かい長い指が時折気づいたかのように私の脇腹の肉をぷよんと摘まむ。大変失礼な行為をされている気がしなくも無いのだが、それを指摘できる空気でも無い為ひたすら擽ったさに耐える。
「ぷ…く…っ…」
声を出したら負けだと思う。
しかし漏れた声がいけなかったのか、ユラユラ揺れていた体がピタリと止まった。
「俺は元来、欲に対しては従順です」
やば。と、引き結んだ口から声を出さないよう耐えていれば、思い出したように兄ィさまが話し出した。
「そう言う意味では女性を抱くと言うことに昔から抵抗は無かったですし」
チクリと蠏に刺されたような視線を感じて斜め後ろに顔を向ければ兄ィさまの瞳と見事にかち合う。視線と視線の間で小さな星が弾け飛んだ気がした。
黒だ黒だと思っていた兄ィさまの瞳は近くでよく見たら少し紫がかっていて、あぁなんだ髪の毛の色とお揃いだったんだなと意識の隅で考える。
「したい事は我慢せずにしているつもりです。遊男の時以外は」
腹を撫で摘まんでいた手は私の肩にまで上がりそのまま掴まれる。右肩は兄ィさまの方へ顔を向かせるように後ろへ押されたので、足の間でクルリと回り真正面で向かい合った。
「だからですね」
それでも少し下を見る私に、首を傾げて覗き込むように瞳を合わせられる。
向けられる甘え強請るような目つきは、物乞いのように哀願的に感じる。すがり誘う声で続けられる言葉は今まで見てきた宇治野兄ィさまとはどこか違って新鮮、というより戸惑いに近い不安を私に与えた。
「好きな物に触れられないのは、己の欲に反する事で、」
撫でるように頬には手が添えられ、
「それはそれは実に悩ましい衝動で」
長い時間をかけて口の中の飴玉を溶かすようにゆっくりゆっくり、それは耳元に落ちてくる。
「溜めてしまえばもう、手がつけられないんですよね」
サラリと絹糸のような紫髪が私の首もとをくすぐる。
吐息が首に掛かる程の距離感に、閨に入る前の兄ィさまはこんな感じなのだろうか、と思わず一人想像してしまう。
不躾な後輩でごめんなさい。
何だか声が妙に色っぽいのでつい。
「分かってもらえますか」
「それは、何と無く…分かるような?」
問い質す調子にひどく差し迫った雰囲気がある。
つまり、兄ィさまは案外我が儘な性格だという事だろうか。したい事はする、と言い切っている事からして言葉だけ受けとれば傍若無人っぷりが半端無いと見える。だけど普段の兄ィさまから見るにそんな事は無いような…。いつも皆を見守っていて、笑顔で、時折厳しくて、飴ちゃんくれて、
「でしたら野菊」
「はい?」
「俺と一日一回は話してくださいね?」
「は、え?」
「そうしなければ」
「し、しなければ?」
ニコリと笑う。
「泣きます。もの凄く」
その言葉と同時に兄ィさまの瞳がきらきら…いや、ウルウルと輝きだし、次の瞬間には涙がこぼれ出した。
「え!?ウソウソ嘘やめてください兄ィさま冗談で、」
「な、きます、からね」
「やめてぇ!兄ィさまともあろうお方がそんな手段使わないでぇー!」
まさかの泣き落としをされました。
あとがき。
『野菊の様子がおかしいのは分かるんだが、如何せん宇治野があぁだからな。いやしかし、皆お膳立て協力ありがとよ!』
『おやじ様、俺はそんな話聞いてないんすけど。…無性に腹立つ』
『あんなんでも機会与えてやらねぇと宇治野がな』
『あの…宇治野兄ィさんてそんなに…やっぱ、』
『アイツの鬱憤が溜まると面倒なんだよ。そりゃもうお前が知っての通り、物を壊しちまうほど融通が利かなくなる』
『そんな兄ィさんを野菊に会わせて大丈夫なんですか』
『あ………。すまん野菊』
『ゴラァっおやじ!』




