始まりは 日々4
羅紋兄ィさまの攻撃から解放された私は夕飯を摂りに行く。
小さい子どもの禿である私は座敷には座れない。その為兄ィさま達がお座敷に上がったら禿の仕事は1度休憩となる。
そして座敷がお開きとなったら、その日支度を手伝った禿や直垂新造が兄ィさまを迎えに行き、着物を脱がせたり装飾品を箱に閉まったりするのだ。
それを終えてから湯に入り就寝する。
しかし兄ィさま達が客と一夜を共にする場合は違ってくる。
朝まで起きて待つわけにはいかないのだ。
そう言う時は事前に兄ィさまから教えられるので、間違っても朝まで待つことや、お楽しみ中にお邪魔してしまう事もない。
ただ客と兄ィさまが閨に入る前に、それ用の布団を別室に敷かなくてはいけない仕事があるので、そのタイミングに注意しなくてはならない。
早すぎても遅すぎてもいけない。
布団はフカフカの状態でセットしなくてはいけないので、早めに敷いてしまうとぺしゃんこになってしまう。
それが後にグシャクシャになってしまう運命だったとしても、気をつけなければいけないのだ。
遅すぎると丁度別室へと床入りする兄ィさまとお客と鉢合わせしてしまう事がある為、絶対に遅すぎてはいけない。
早めに敷くより厄介な事になる。
しかし良いタイミングで布団をしこうとしても、その別室もまた直前まで使用している時がある為、中々敷けないこともある。
私は一度それを体験した。
あれは2ヶ月程前。
清水花魁の下に付いた日だった。
『今日は閨の日だから、椿の間に布団を敷いておいてくれるかな?多分今日はギリギリ迄空かないだろうから、空いたら直ぐに敷けるように準備しとくんだよ?野菊』
『はい!きよみず兄ィさま』
この布団敷きの仕事も週に一度のペースでやっていた為、4ヶ月目に入ったその日はもう馴れたものだった。
今日もいつも通り素早くやろう。
そう意気込んでいた私は3時間後地獄を見ることになる。
<『あ、…清水さま…』>
<『なんだい?』>
<『接吻を…してくださいませ…っ、』>
<『ゆきの…』>
「…………」
私は今、清水兄ィさまとお客が文字通り『あはん~うふん』している椿の間の押し入れにいた。
息を殺して耳を塞いでいる。
一体何故こんな状況になったのか。
時間はほんの5分前に遡る。
座敷に行く前に清水兄ィさまが言っていた通りギリギリ迄椿の間は空かなくて、あと約5分で予定の時刻になろうとしていた。
椿の間に客はいないのだが中々片付けが終わらないのだ。
やややややばいよ!どーすんのこれ!?
5分?5分でやれってか!!
いやいや、実質5分も無いんですけど!!?
脳内は5と言う数字ばかりになり、部屋の前で私がパニックになっていると戸が開く。
『野菊、片付けが終わったぞ!』
『!』
『ごめんな、上客だったから中々早く切り上げられなかったみたいでな。急いでやったがこんな時間になっちまった。手伝ってやりてぇけど俺達まだ仕事が残ってるから手伝えねぇんだ、本当に悪い』
『いいえ!では急いでじゅんびします!!』
申し訳ない顔で言われてしまったが、兄ィさま達が悪い訳ではないのだ。
その心遣いに寧ろ感謝したい位である。
だが、あともう約3分。
布団を椿の間に急いで運ぶ。
布団は下にローラー的な部品が付いている籠ごと持ってきて廊下に用意しておいたので、5歳児の身体でも特に無理なく運べた。
しかし敷き布団は合計で三枚重ねて敷かなければいけない。
高級遊男の花魁が使うのは三つ布団と言って三枚重ねの敷き布団になるのだ。
一枚の厚さが約30センチ程なので、三枚で約90センチ程になる。
私の身長は大体110センチ。
『とぉりゃぁああ!』
気合いだ。
火事場の馬鹿力を出して挑んだ三枚重は1分位で完成し終了。自己最高記録である。
そして押し入れから出した掛け布団と枕を定位置に置き、布団は敷き終わる。
あと約1分。
廊下にスタンバっといた有明行灯と言う足元を照らす程の照明具を布団の横斜め上にセット。
よしこれで準備は大丈夫。
と思って見渡したら、ローラー付きの籠が勝手に転がり開けていた押し入れの中へと入ってしまっていた。
ああ、もう!
建てつけが悪いよおやじさま!!
ちょっとイライラしながら急いで押し入れに入り、籠を転がして出ようとした時だった。
<『今日はここだよ。…あれ?戸が、』>
<『椿の間ね?早く入りましょ清水さま』>
清水兄ィさまとお客の声が、開け放した戸の近くから響いてくる。
…どうやら私は間に合わなかったらしい。
スーっと静かに自分が入っている押し入れの戸を閉める。
兎に角此処にいるしかない。
今出ていく勇気など私は持ち合わせていない。
そしてあの場面に戻るわけだ。
押し入れの中に入って戸一枚の壁を隔てても、聞こえてくる生々しい声や音。
手で耳を塞ぐが
<『清水さま…』>
と私の耳栓を糸も簡単に破り、まるで意味が無い。
中身は大人だが正直これは辛い。
なんの羞恥拷問だろうか。
しかも押し入れの中はヒヤリとしていて、手足も冷たくなってきた。
押し入れの一番奥へと転がり体を丸める。
<『あぁ…、しあわせですっ』>
私は地獄です。
…お願いだから早く朝になって。
一夜明け。
『どこだー!野菊ー!!』
『いたら返事してくれー!』
その声で私は目を覚ました。
どうやらいつの間にかに眠っていたようだ。チビッコの身体は本能に正直で助かる。
でもやはり寝不足であることには違いない。鏡を見てみなければ分からないが、隈が出来ている感じがする。
しかし今は何時頃だろう。
こんなに大声を上げて探している事からして、今は昼頃だろうか。
昼はお客もいない為遊男達の自由時間。
稽古をしたり食事を摂ったり寝ていたりと、比較的好きに過ごせる。
『野菊ー!』
これは秋水の声だ。
いけない、早く此処から出なくては。
きっともうこの部屋に清水兄ィさまと客はいないのだから。
と出ようとしたと同時に押し入れの戸が開く。
『のぎー…っ野菊!』
『…あ』
開けたのは清水兄ィさまだった。
その後ろには他の兄ィさま達の姿もある。
『いたのか!?』
『おやじさまー!野菊いました!』
『椿の間みたいですー!!』
兄ィさま達が次々と声を上げる。
『もしかしてずっと此処にいたのかい?』
『……は、ぃ』
清水兄ィさまに手を引かれて押し入れから出た途端、ぎゅっと抱き締められるとそう聞かれた。
昨日の夜を思い出してしまうと少しビクッとしてしまう。
そんな私のビビリ具合に気づいた兄ィさまは苦笑する。
『こんなに手足も冷えて…野菊、なんで此処に?』
『…えっと、』
取り合えず事の詳細をたどたどしいながらも話す。
時折抱き締めながらも私の背中を擦って温めてくれたが、その間の清水兄ィさまは苦愚しい表情で、眉も下がっていた。
『…で、はいったままで…いよー、と』
『…ごめん、ごめんよ野菊』
別に兄さまが悪いワケでは無いのに何故か謝られる。
どちらかと言えば、悪いのはきちんと布団を敷く任務を完全に遂行出来なかった私で。
戸も開けっぱなしでいたから、仕上がりで言えば全然ダメダメで。
『あの、わたしがわるいのです。きよみず兄ィさまはあやまらないでください』
『あぁもう!本当にすまなかった野菊。怖かったろう?あんな…あぁ…』
全く聞いていないらしい。
暫く後にやって来たおやじさまに拳骨を受けたが『椿の間に直前までいた客への対応も考えなきゃな、』と呟いた後、頭を優しく撫でてくれた。
ちなみに昼になっても布団を片付けに現れないのを不審がった清水兄ィさまと、部屋に全く戻らなかった私を秋水が皆に聞いて回っていた事で、私がいない事に気づいたらしい。
あぁ、本当に騒ぎを引き起こして申し訳ない。
それから一週間程清水兄ィさまはベロンベロンに私に甘かった。
やましいことをした後みたいな態度で。
『ほら、羊羮だよ。あーんして』
『可愛いね野菊。あ、お饅頭あるよ?お口開けてごらん』
『今日は野菊と一緒に寝ようか』
『野菊、野菊…』
『兄ィさま』
『なんだい?』
『兄ィさまのことそんけいしています。なのでだいじょうぶです』
『……』
一週間の甘々期間に、強制的に終止符を打った瞬間だった。
まぁ、あんなことは二度と御免だと言うことです。
「みそ汁のおかわりいるか?」
「なぎかぜみたいにイッパイ入らないから、いいよ」
羅紋兄ィさまの座敷が終わるまでの間、丁度食事処にいた凪風と今は食事を摂っている最中。
お互いの兄ィさまの時間が被っていたようだ。
「夜は囲碁盤を僕が部屋に持ってくから、石は用意しといてね」
「らんちゃんはおそいかな?」
「うーん蘭菊か。どうだろう?まあ、待ってれば来るさ」
凪風の歳は8歳。
私より三つ上の禿である。
髪の色はキラキラの銀色で、瞳は灰色。少し垂れ目の健康的な肌色をした囲碁好きな美少年だ。秋水と同じ歳だが、身長は凪風のほうが高い。
この天月妓楼に入って来たのは秋水より数日後だったらしい。
二人は『同期』ってやつである。
凪風はご飯を凄く沢山食べるのが印象的だ。でも太っている訳では無いので正直羨ましい。
食べた分が身長に反映されているって感じだ。
「まだ時間があるなぁ。野菊は何する?」
座敷がお開きになるまであと二時間ちょっと。
食べ終わった凪風が聞いてきた。
空いた時間は自由に過ごせるので、寝たりだとかお茶をしたりだとか遊んだりだとかでも良いのだが、私は基本芸を磨く時間に使っている。
だって私は立派な男芸者を目指すのだから。
「なぎかぜがよかったら、いごやりたい」
「囲碁?良いよ。じゃあ僕の部屋に行こう」
また夜にはやるのだが、これも修得しなければならない芸の一つ。
凪風の教え方はとても上手なので、たまにこうやって相手をしてもらいながら教わっている。
我ながら時間を無駄にすることなく過ごせているかもしれない。
網模様の盤をじっと見つめて、目の前の少年に向き直る。
「でね、同一局面の反復は禁止なんだ」
「なんで?」
「これを繰り返しちゃうと永遠に対局が終わらないんだよ。勝負にならないでしょ?だから、」
「ふむふむ」
やはり凪風の教え方は理解しやすい。
この二時間、勝負をしながら囲碁でのタブーを教わっていた所なのだが、とてもわかりやすく頭に入ってきた。
勝負と言っても最近始めたばかりの私が相手じゃ凪風の相手にはならないが、それでも好きな物を教えるのが楽しいのか、喜んで教えてくれる。
ありがたや~ありがたや~。
「そういえば、もう時間になるね」
「あ、そうだね。なぎかぜありがとう」
「どういたしまして。じゃあまた後でねー!」
部屋で別れた私達はそれぞれの場所へと向かって行った。