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始まる 受難の日々 4

 最近はこんなことばかり。

 一体何度倒れれば気が済むのだろう。

 

「ん、」


 この前とのデジャブを感じながら目が覚める。

 一番最初に目に入ったのは木造の天井。仰向けで寝ている私の場所から見える陽の光の位置を確認し、窓のありかを計算すれば、ここは私の部屋だ。そしてこの覚めるような太陽光は夕日では無く朝陽。真冬の陽が静かに部屋の中へ降り注いでいる。

 …朝か。


 仰向け状態、寝っ転がったまま額を右手で抑えこみ冷えた肌を温める。

「はぁ~」とため息を吐けばいつものように白い息は出ず。え?と思えば若干部屋が温かい事に気がついた。

 耳を澄ませばパチ…パチ…と音が何やら聞こえて来たので、目をそちらに向けて見ると火鉢が私の寝ている布団の右隣に置いてあるではないか。

 なるほど、温かい原因はこれだったのね。

 誰が置いてくれたのかな。

 というか誰が寝かせてくれたのかな。

 

 ──ズキッ


 痛ったい!!

 頭がズキズキとして痛い!

 頭の痛みに眉毛がぴくぴくと動くのと同時に、脈がドクドクとうっているのが耳の奥に聞こえる。


 そういえば私頭を打ったんだっけ?

 打ちどころが悪いとかないよね。

 血管切れたとかないよね。

 頭に包帯みたいな物が巻きついている感覚がするけれど、こんなものを巻かなきゃならん程の傷でも作ったのか、おい。

 冗談じゃないぞ。

 このまま仕事なんて出来るかって。


 と、危惧の念が伴わざるを得ない。


「大丈夫か?」

「?」

「気がついたな。良かった」


 痛みと不安感に目を瞑り唸っていると、左横から声がした。心配するような声が。

 私以外の人間がこの部屋にいたのかと驚きビクリとし、そのお陰で瞑っていた目を再び開く羽目になった。

 誰だろう…と眉間にシワを寄せながら恐る恐る顔を反対側へグルリと倒して視線を向ければ、


「心配したんだ」

「…秋水?どうしたの」

 

 秋水が単衣の上に袢纏(はんてん)を羽織った姿で、横にちょこんと鎮座していた。

 首には手拭いを巻いている。


「どうしたって…聞いたんだよ蘭菊に。お前が頭に怪我したって。相変わらずしょうがないやつだな、本当。いい加減お転婆も程々にしてくれ。安心して仕事も出来ないぞこっちは」

「蘭ちゃんが…」


 蘭菊はすぐに人に喋るからな。

 生理の時もそうだったけど。


『この馬鹿!』


 そういえば私が気失う直前、私のこと「馬鹿」って言っていた奴がいたな。

 気のせいでなければ蘭菊の声だったような気がしなくもない。ハラワタがちぎれるほどに悔しくて腹立たしい。あの野郎。

 …ま、まぁ心配してくれていたのかもしれないけど。


「髪の毛、濡れてる」

「さっき風呂に入ったばかりだからだ」


 あぁそうか。

 昨日秋水は閨だったのね。

 どうりでちょっと気怠い雰囲気をしていると思った。


 黒に近い青い綺麗な髪が水気でしっとりとしている。

 あ、水に濡れているから黒く見えるのか。じゃあ、風呂に入って出たばかりということは今の時間は大体朝5、6時位。…?蘭菊お前いつ教えたの。5時に客が帰るのに、お前5時にわざわざ起きて話したのか。


「はは…」


 どんだけ話したかったのだ、と少々苦笑いで乾いた声を出してしまうのは仕方がない。


「チャッピーと護は?」

「チャッピーならそこで寝てる。護は分からない。猫は基本自由だからな」


 指で指された方を見れば、火鉢の裏側にある座布団の上に布を被さりながら温々としている蛙の姿があった。

 もはやアイツは人間だと思う。


 しかし護はやっぱり何処かへお出かけしていたか。

 大体予想はついていたけど、多分他の花魁のところに入り浸っているのだと思う。


「お前、昨日の約束覚えているか?」

「昨日は……あ、今日簪屋に行く約束、」

「今日は行かなくても良い。また今度行こう。急ぎじゃないからな」

「今度…か」


 包帯に巻かれた頭を撫でながら安心させるような笑顔で言われる。ちょっと申し訳ない。


 秋水との約束は今も昔もほぼ守れていた事が少ない。大抵私が悪いのだけどね。

 寝坊したり、具合が悪かったり、出かけている場合ではない急用ができてしまったり、他…etc。

 今回はこんなワケだけれど、一緒に買い物か…。


『花魁の人と距離を───』


 私は心に気の滅入る魔物か虫かを飼っているような気分になる。

 このまま皆と変わらずにいてよろしいものか…なんて。


 私はあの時、風呂で愛理ちゃんの手を取った。あのままではゲームの展開通りになるかも分からないし、何よりもう一度確かめたかった。状況が似ているからと言って必ずしもその展開通りになるなんて、そんなこと、ないと思ったから。


 でも違った。


 あともう少し自分の判断が甘かったらゲーム通りになっていたかもしれない。

 愛理ちゃんが湯船へ倒れそうになったとき、私は頭が真っ白になりそうだった。

 反射神経良くて助かったよ私。


 だがこれである程度分かった事がある。

 このまま愛理ちゃんに関わっていれば、ほぼ80%か90%の確率で私が意図せずして彼女を傷つけてしまう可能性がある。それは精神面だったり身体面だったり。

 何より花魁の皆と関わることで愛理ちゃんの不況を買うことになるのなら、その反動がどこかしらで出てくるかもしれない。


 …そもそも一日の間に色々あり過ぎだと思う。


 こういう事態は『あれから一週間~』みたいなナレーションで始まり事が起きるのが常で、起承転結もクソもない。

 痼に触れられたように、楽しむことの決してない沈んだ気分がグルグルと腹の中で回る感じがする。


「でも秋水、今日行ってきちゃいなよ。私のお金も渡すから、私からの分の簪…いや、それは自分で行くことにする。あ、ほら、行ける時に行かないとさ」

「だから今度にしようって言ってるんだ。お前が行ける時に」


 渋い顔をされる。

 なんだか聞き分けのないお子様みたいに思われている感が否めない。


「だって」

「そんなに俺と行くのが嫌なのか?」


 ワントーン低く沈んだ声で言いながら首を傾げてきた。

 くぅぅ、そんな顔をしないで欲しい。

 そんな今にも捨てられそうな、目の端を垂らして、秋水にしては珍しい請うようなそんな、そんな。


「いっ嫌じゃない!嫌じゃない!全然嫌じゃない!何馬鹿言ってんの馬っ鹿だなぁハハハハ」


 寝ていた上半身を素早く起こして、秋水へ向かい大げさに両手をブンブンと振るう。

 冬なのにヒヤリ汗が顔にふいてしまった。


「ハハハ、」


 いや本当、今更そう簡単には皆からすぐに離れられない。

 こうして遠ざけようにも、遠ざけられた本人が嫌な思いをしてしまう。

 た、多分。


 こうさりげなく、さりげな~く遠ざけることは出来ないものか。それかこの際交友関係を広げてみるとか。

 普段は花魁の皆とか兄ィさま達といることが多いから、飯炊きの皆や新造の子達、花魁ではない遊男たちと沢山話したり過ごしてみるのも良いのかもしれない。それが多ければ多いほど花魁の皆との時間はきっと減るし、約束事も他の皆との予定が入ればすることは少ないだろう。


 ため息をもう一度吐く。

 晴れぬ気持ちが息と共に出て行ってくれれば幸いだが、残念なことに変化は一ミリも無い。


「なら」

「うん、行くよ。傷が良くなったら行こう。こんな包帯巻いて街の中なんぞ歩きたくないしね」

「あぁ。約束だ」

「うわ!でもどうしよう、今日私このまま座敷に出なくちゃいけないよね?お客に失礼じゃない?変でしょ包帯頭に巻いた花魁なんて。取れないかな」

「大丈夫だ。そんなもん巻いていても様になってるから、客もいつもと違うお前が見られて嬉しいだろ」

「えーなにそれ。分かんない」


 これで約束は最後にしよう。




◆◇◆◇◆◇◆◇





「頭はどうだ。やっぱり痛いか?まぁ痛いよな」

「たまにズキリとするくらいで、なんとも。傷はどんな感じですか?」

「浅く切ったみてぇだから針で縫うほどじゃねぇぞ。でも出血が多かったな。切ったところが悪かった。それに強く頭打ったのか、髪の毛で見えねぇだろうが地肌見ると痣が酷い」


 秋水が部屋から去った後。

 一時間程でおやじ様が私の様子を見に部屋へとやってきた。


「おやじ様、すいませんでした。いくら不注意とは言えこんな傷を作って…。仕事に支障が出るようなことを」

「まぁなぁ…基本休みは取れねぇ仕事だ。お前が作りたくて作った傷じゃねぇ事は分かってる。昔っから危なっかしいからな」

「あ、アハハ」


 おやじ様は今私の傷の具合を見てくれている。

 聞けば傷は幸いそれ程でもなかった様で安心した。不幸中の幸い、悪運強し、だな。

 それなら包帯を取って仕事をしても良さそうだ。そこの部分が瘡蓋になってくれるのであれば、あとは自分の治癒力に任せるしかない。


「いいか、本当に頭が痛くて無理そうだったら直ぐに座敷の新造に言え。下がらせてやる。馴染みではない客が来たら相手はしなくてもいい。花魁はそうしても良い権利があるからな。馴染みの場合はそうはいかんが」

「おやじ様ありがとうございます。でも良いんです。私は皆より我が儘を聞いてもらっていますから。仕事を休めない他の遊男達に顔向け出来ません」


 ただでさえも、閨が出来ないポンコツな遊男の私。しかもそんな奴が花魁。

 いくら芸事が出来、何十の手管を取得していようとも埋められないものがある。そんな私を花魁にしたおやじ様もどうかとは思うが、それを受け入れた私も私だ。


「でもなぁ」


 おやじ様は困ったような顔をする。

 引き結ぶ口の横のシワが少し増えた。


「凪風です。入ります」

「清水です。おやじ様、野菊失礼します」


 おやじ様との会話がちょうど途切れた瞬間、空間を裂くように戸を開けて二人が現れる。


 あらま、世にも珍しい組み合わせだ。

 この二人が並ぶなんてあまりなかったような気がする。

 どっちかと言うとやっぱり秋水・清水兄ィさま、凪風・羅紋兄ィさまのコンビかな。見かける率としては。

 しかし二人して一体どうしたというのか。

 …あ、お見舞いか。


 清水兄ィさまは火鉢の隣に、凪風はおやじ様側に座り込む。

 途中眠るチャッピーに気づいた兄ィさまがクスリと笑う姿が見えた。


「なんか珍しい組み合わせですね」

「ちょうど廊下で出くわしたんだよ。向かう場所は同じだったみたいだから一緒に、ね」


「あのさぁ野菊、何で転んだの?」


 単刀直入に聞くけど的な感じで凪風に質問をされる。

 聞いてどうするんだそれを。

 おやじ様の隣に座ったそんな彼はジーッと私を見てくる。

 労わる気は無いのかちょっとは。


「?愛理ちゃんの手を取って…ほら、足がまだ不安定だったみたいでさ。手を貸してたんだけど、やっぱり倒れ込んできちゃって」

「で?」


 いや、で?って。目が据わっているよ怖い。見舞いする人って普通病人労わるよね。職質?職質何ですか?

 見舞いでは無いということですか。


「めいっぱいそれを押し返したら、今度は自分が転んじゃったよ。あっはっは」

「全く馬鹿だ──あ…ん?」

「そう…」


 何かを納得した凪風の隣で話を聞いていたおやじ様が首をかしげる。


「───おやじ様。生意気を言うようで悪いですが」

「ん?どうした清水」

「愛理をあまり遊男に近づけさせないでください。ただでさえ裏方がこの階に来る事や遊男との馴れ合いには危ないものがあります。それにあの子は女です」

「あの兄ィさま。ちなみに私は、」

「何かを勘違いされて困るのは誰でしょうか」


 ちなみに私は一応女です。

 なんて言う冗談も隙もなくそう言い切る。


 彼女を遊男に近づけさせるな?

 まさか兄ィさまがこんな事を言うなんて予想外だ。愛理ちゃんとの関係は少なからず悪いものでは無かったと記憶しているが、違ったのか。

 言いたいことはうっすらと理解出来るけれども、一体兄ィさまの中で何があったのだろう。


 今の話の中で愛理ちゃんが私や皆に何かをしたなんて特に何も言ってはいないのに。


「では、これで私は失礼します。…野菊」

「はい」

「座敷ではしっかりね。また来るよ」


 え、また来るのですか。


 固まる私に手を小さく振りながら退室していく。

 この部屋に来てまだ10分も経っていない。

 もしやそれを言うためだけにわざわざここまで来たというのか。


 部屋に残っているおやじ様はそんな兄ィさまを見て小さくため息を吐いた。


「あぁ言われてもなぁ」

「僕もそうした方が良いと考えています」

「えぇぇ!!?」


 ギュンと首を思い切り彼の方に向けて大口を開けてしまった。


 今日一番の吃驚だよ。

 愛理ちゃんの事好きじゃなかったのかよお前。

 それか他の遊男達に取られるのが嫌だから来て欲しくないとか?それならまぁわからなくも無い気はするけど。


「もともと女が働いてはいけないと言う理由はありませんが、ほとんどの妓楼が女を雇わない理由は分かっていますよね、おやじ様も」

「そりゃな」

「彼女も年頃です。少し気をつけた方が良いかと」


 事の成り行きをオロオロと見守る私の手は、意味も無く宙をさ迷う。

 そもそも愛理ちゃんが皆との関わりを断つということが出来るのか。


 もう彼女は誰かに恋をしてしまっているし、どんな形にせよ皆と関わってしまうだろう。

 私が体感したゲームの強制力的な無理やりな何かが起きると考えてもおかしくはない。


 この小さな妓楼という世界の中にいる限り。


『あはは、ノギちゃんは──』


 きっと昔の、記憶を無くす前の彼女だったならこんな事を言われてしまう事にはならなかったかもしれない。なんて思うのは、昔の彼女が恋しくなったせいだからなのだろうか。





◇◆◇◆◇◆◇◆





「まぁ野菊様!その頭はどうしたのですか!?」

「ちょっと…転んでしまって」


 今日のお客様は松代様。

 部屋へ案内された彼女は私を見て開口一番にそう叫ぶ。


「そんな、ちょっと、まぁ!」

「あはは…ごめんね」

「横に!横になってくださいまし!」

「え」


 膝の上をポンポンとされながら言われる。

 いや『ポンポン』ではちょっと表現は甘い。

 ベッシベッシ!と手のひらが赤くなりそうな勢いで自分の膝を叩いている。

 鬼気迫るような。


「それはえっと…」

「膝枕、ですわ」


ベッシベッシ!


 はい。大体予想はついておりました。

 未だ真剣にバシバシと膝を叩いている松代様。


「そ、それはできないよ松代」

「好きなお方に膝枕をするのは、女子の夢なのです。たまには私に貴方様の身を預けて欲しいですわ。我が儘を聞いてくださいまし」


 地味に焦る私が首を振り断れば、我が儘とは言えない我が儘を言われる。


 この人ホントに欲があまり無い人だなぁと常々思う。

 最初の頃は『閨をさせてみせる!』と息をまいていたというのに、…いやそれは今も変わらないが。

 要求が至ってシンプルなのだ。

 え、これで良いの?みたいなやつばかり。

   


「松代は、それでいいの?…俺が言える事ではないのだけれど」

「うふふ。以前は他の妓楼に通っていたのですが、何故かあまり私の気性には合わなくて。やりすぎというくらい私に愛を囁いたり尽くしてはくれるのですがどうも…嬉しいのには変わりないのですが」


「野菊様は、何と言うかあまり、好意を全面的に出すことは無いでしょう?閨こそはありませんが、ふとした瞬間に心に一歩入って一粒の愛を伝えてくださる。芸も見事で、義務では無く私との時間を楽しんでくださっていることが少し分かります。吉原に来る女は大抵の者がこれは恋のごっこ遊びだと自覚しています。しかしながら…ごっこ遊びだとは分かっているのですが、この野菊様との微妙な線のやりとりが楽しくて仕方ないのです」


 綺麗な笑顔が咲く。


 そんな言葉は私にはもったいなくて、眩しかった。

 恋のごっこ遊びだと彼女に言わせてしまった自分が不甲斐なくて。





◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆







 そんな自分に意気消沈した日の夜。


「わぁっ、たったかい高いぃ!!」


 お願いです神様。

 こんな場面愛理ちゃんに見られませんように。

 だって見られたらお終いな気がするのです。

 お願いだから私なんかに構わないでください本当。

 …後生ですから。


「背は伸びても相変わらず軽いね。ちゃんと食べている?」


 あははー軽いなーと笑いながら腕の上に私を乗せて部屋の中を歩く清水兄ィさま。力持ちだ。


 仕事を終えた私の部屋へと訪れた彼は、昼にした『また来るよ』という宣言どうり、早速いらっしゃった。

 明日とか明後日とかだと思っていたのに。


『夜遅くに失礼。座敷は大丈夫だった?』

『え』


 そんなナチュラルな感じで戸を開けた兄ィさま。


 吃驚して座布団から座ったまま動かない私の近くに来たと思えば、やすやすと体を両手で持ち上げられ何かペットのように連れられた。

 猫の扱いに近い。

 もっと言えば私の護の扱いに似ている。

 よーし、ほらほらおいで~…よいしょっと。みたいな。


「廊下に出るのですか?寒いですよ!?私、」

「くっついていれば暖かいよ。ほら星が綺麗だ」


 持ち上げられたまま部屋を出てニ階廊下にある濡れ縁まで来る。

 濡れ縁とはベランダのようなバルコニーのような場所で、まぁ胸下くらいまである柵が有り、床が半分外に出ている感じの場所だ。

 雨ざらしになっているからこのような名前になっている。


 もう夜見世が終わった吉原の街は明るくなく、そんな場所で空を見上げれば満天の星空が瞬いていてキレ…いやそんな説明がしたいのでは無く、


「ん、…と」

「お、落ちてしまいますって兄ィさま!怖!あぶっ危なっ」


 油断していれば予告なしにその柵の縁の上に乗せられた。柵は揺れていないのに、船に乗っているようにユラユラと体が揺れる。

 それに木がミシッといった音が聞こえたような気がするんだけど。

 全然軽くないよ私。

 ていうか、いい眺めかもしれないがここはニ階。

 手すりもないのに何故こんなところに座らせるんだ。

 不安定でしょうがないじゃないか。


 安定のために掴める物と言ったら目の前の兄ィさまか、自分が腰をかけている木の板にしがみつくしか出来ない。

 そもそも手はガッチリと掴んでくれているから心配は無いのだけれど。


 私と兄ィさまの身長差は、多分十五センチ位。

 柵に座れば丁度兄ィさまの顔が私の顔と同じ高さになる。


 下を向けば自分の腕が目に入った。

 いつかのように手は握られたまま、離してはくれない。

 というか離された寧ろ終わるぞ。

 腰に回された左手は、私が落ちないように支えてくれている。


「ええと」

「大丈夫。離さないから」


 あ、の。そうじゃなくて…。

 なんか気恥づかしいのですが。


 そう俯いていると頬に兄ィさまの手が添えられて、クィと前を向かされる。

 促されるように仕方無く前を見れば、近い距離には相手の顔があり覗き込むように瞳を見つめられていた。


「う、わ…」


 間の悪いような心持ちと、体中にこみ上げてくるくすぐったい思いに首が竦む。

 いっいかん、いかん。と私も気を取り直し負けずに見つめれば、星の光が兄ィさまの瞳の丸い夜空に映っているのが見えた。光瞬く黒の輝きは、誰にも汚されない雄々しさが見え隠れしている。

 するとそれに引き寄せられるように、もっと近くにと無意識に顔が前に出てしまう。

 そうすれば視界の上にチラついたお互いの黒い前髪がサラリと当たりそうで当たらなくて、その感触にくすぐったくなった。


 肩を揺らした私に目を細めた兄ィさまは、視線を左に反らすと、新月のような淡くもの静かな笑みを見せる。


「このまま一緒に足抜けでもしてしまおうか」

「は、えぇ!?」


 そしてそっと顔を横にずらし、耳元で内緒話でもするようにそう言われた。

 一瞬何を言っているのかわからなかったが、その意味を理解した途端、私は素っ頓狂な声を上げ金魚のように口をパクパクと動かしていた。


「それは、じょ、冗談ですよね」

「ちょっとは怖く無くなった?」


 やや?怖がらせないためのホラを吹いただと?

 この花魁様は全く…。

 冗談にしてはタチの悪い。足抜けとは遊男がこの遊郭、吉原から脱走するということ。


 なんともない事のように言うから恐ろしい。

 仕返しとばかりに兄ィさまの肩をバンバンと叩く。


「もう兄ィさま!」

「まぁまぁ。本気でこんな事言わないから安心して。逃げ続けるだけの人生なんて野菊には似合わない」


 そう言って頬から手を離し、私の両脇の下に手を当てると、


「だっから高いですってぇぇ!!」

「ふふ、高いたかーい」


 なんか笑顔で高い高いをされた。





◆◇◆◇◆◇◆◇





ギシ…




 歩く足に踏まれた木の軋む音が廊下に響く。



「貴方は何か知っているんですか」


 清水の部屋の前で立っていた凪風は、今しがたこの夜更けに部屋へ帰ってきたその男を見て怪しむような視線を向けた。


 対する清水は凪風が何の事を言っているのか分からない様で目をパチクリとしている。


「吃驚したな。何か知りたいことでもあるのかい?」

「じゃあ質問を変えます。愛理を近づけないようにおやじ様に言った理由はなんですか」

「それは…昼間に言った通りの理由だけど。けれど別に愛理が嫌いなわけではないからね。気をつけた方が良いんじゃないのかと思っただけだよ」




「あぁでも、野菊が怪我をして、浴槽の隣でただ立っていた彼女を一瞬見て初めてこう思ったんだ」


『      』


 そう心の奥で。

 自分だけれど、自分ではないような声が。


「なんてね」


 それだけ言うと清水は自分の部屋へ入っていく。

 部屋へ入る瞬間、横目で凪風を見て何かを思案し少し彼が気にかかるようだったが、もう夜も遅いため茶に誘う事はしなかった。


 そして廊下に一人残された凪風は、もう古くなった木の床を見つめて静かに佇んでいた。

 表情は穏やかなのに彼の右の握り拳には力がこもり、只々力が入るばかりだった。




「だから前世むかし来世いまも、僕は貴方に敵わないんだ」

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