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始まる 受難の日々3

 一方。

 野菊が気絶という名の眠りに入っている中、周りの男たちは気が気ではなく狼狽の色を隠せなかった。


「今の音なんだ!?すっげー音したぞ!」


 元あった脱衣所とは別に、野菊の風呂に入る時間が少しでも早くなるようにと仕切りを新たに作り、浴場の戸が無い反対側の脱衣所で湯上り後着替えながらもゆっくりとしていた天月の遊男たち。

 ある者は褌のまま床に寝転び、ある者は隠し持って来た酒を飲んで一服していたりと、早く部屋へ上がれば良いものの各々ダラダラとしていた。

 いくら屋内とはいえ空気が冷え冷えと身に染みる頃だというのに褌一丁で誰もが平然と歩けるのは、体温36度前後の生き物たちが密集して熱気がモワモワと空気中を支配しているせいであろう。

 …これを客が見たら百年の恋も覚める。


 だが途中、浴場から『ゴン!』『バッシャーン!!』という普通では鳴りそうに無い音が脱衣場にまで響き聞こえてきたではないか。

 其々好き勝手をしていた者たちはそのでかく響いた音に気をとられ動きが一時停止をする。

 瞬きをパチパチと繰り返す朱禾が持っていたお猪口からは酒が少し零れていた。


『お、おい、何だ今の音』

『…見てみるか?』

『野菊入ってるんだぞ馬鹿か!』


 居てもたってもいられないもどかしさを感じながらも、男たちはその場から動けない。

 何故なら今、野菊が入っている浴場の戸を開けるのには皆少し抵抗がある。最近…というかここ二年近く彼女とは一緒に入っていない為、今更だが『裸を見る』という事に戸惑いがあったのだ。

 散々年頃になる手前まで見ていたというのに、ことさら見慣れなくなるとどうしたら良いのか分からなくなるのである。


 本当に今更であるが。


『でもなぁ…』


 だがやはり心配だ…と仕切りの反対側へ行き、気詰まりを覚えながらも羅紋達がガラリと戸を開けて声をかけてみれば。


『…なんだありゃ』


 空間に違和感がある。

 彼らが目にしたのは長方形の木の浴槽に張ってある湯から『足だけ』を出し上半身が沈んでいる誰かと、何故か手拭いを胸の前で握り締めた裸の愛理だった。


 ?何故愛理が?

 と戸に手をかけていた羅紋の脳内が疑問で一瞬埋まる。

 確か吉原の外の銭湯を使っていたはず。こんな所で何をしているのだ?と不思議に思うのは仕方がない。


 しかし今はそんな事に気をとられている場合では無い。


 この浴場に入っていたのは、今の状況を見れば愛理を除けばあと一人だけ。野菊だったはず。ということはつまり、あの足だけ出た奇怪なアレは…アレという事になる。


「…っ」

「痛っつ!えっ、おい清水!」


 戸を開けている羅紋の後ろから顔を覗かせていた清水が、目を見開きその血相を変える。途端、目の前にいる羅紋の肩を掴み後ろへ押しのけ浴槽へかけ寄っていった。


「野菊っ」


 誰よりも早く、速く、それはもう激しい嵐のように空気を揺れさせて。


 まだ状況が良く飲み込めていない他の者からしたら何事だと思う。

 またその速さに斜め横にいた凪風は驚き、それよりも少し手前にいた蘭菊はビクリとした。


「兄ィさん…?」


 清水は風呂上りに着ていた上質な紺の単衣が濡れるのも構わず、ザブザブと湯船の中まで入って行き、溺れ沈んでいる彼女を横抱きにして湯から引き上げるべく腕を突っ込む。

 横には未だ裸の愛理が恥ずかしそうに立っていたが、気になど留めてはいなかった。


「――っほら野菊、しっかりするんだ」


 ザバァッと水音を勢いよく立てる。

 しかしその勢いとは裏腹に、壊れやすい硝子細工を持ち上げるよう大切にそっとその両腕に抱けば、必然的に腕の中にいる彼女、野菊の顔が清水の目に入った。


「目を、開けてごらん?野菊」


 まるで抱いた赤子を揺するように体を動かす。

 呟きのような囁くような曖昧な独り言とも捉えられるその声には、驚愕と当惑の調子がこもり、尚且つ、凪いだ海のような静けさが纏っていた。

 長く豊かな睫毛のある瞼は閉じ、陶器のような白い頬は当然、いつもは一つに纏めている黒髪は濡れ水は滴り、流れるように頬へ張り付いていた。

 だがその黒髪とは別に頬に流れる色。

 それを捉えた瞬間大きく見開かれた瞳は、スっと彼女の額へと向けられる。


 赤い液体が、縦に一筋。


 ぞくりと心に慄然とするものを感じ、軽く鋭い戦きが足の先まで伝うのが清水には分かった。

 温かい者を抱いているはずなのに彼の体はヒヤリとする。美しい花が手折られるかの様に彼女の手足はダランと重力に従い下がり、薄く開いた紅の唇からは唾液ではない水が流れ落ちていた。微かに息を認めるが、それでも野菊が無事であるという確かなものは無い。


 清水は濡れた白い肢体を更にぎゅっと確かめるように抱き締めた。



「凪風、大量の手拭い持って来い!」

「はいっ」


 後を追いかけて来た羅紋が清水の肩越しからそれを見て唖然とし、悲鳴にも似た声で叫ぶ。

 野菊の頭から血が流れ落ちていたのだ。ポツリポツリとそれは浴場の床、清水の腕に滴っていき止まることを知らない。

 これはうかうかしていられない。


 その声に急ぎ洗濯場まで走る凪風に続いて、清水は足早に皆がいる脱衣所へと野菊を運び、木の床へとそっと横たわらせた。

 屋内とはいえまだ冷える。

 誰かがクシャミをするのが聞こえた。


「清水兄ィさん、とりあえず冷えるし体を拭い………ってお前ら見るな!散れぃ!」


 野菊が着るはずだった単衣と手拭いをカゴから取り出し持ってきた朱禾が近くに座り、ハタと気づいて声を出す。

 今更だが野菊は真っ裸。いつもはサラシをして胸あたりを潰しているが、そんなものが今付いているわけも無く。野次馬のよう…とは心配している皆には失礼だが周りには男たちが群がっている。裸の娘の周りに、だ。

 非・常識的なこの光景。

 良からぬ事を考える輩がこんな時に限っていないとは思いたいが、彼女のこの姿を見ている限りちょっと無理そうである。大人になっ…


「フゴっ」

「良からぬ事を考えたらどうなるか…分かるよね」


 向かい合っている清水に何かを察知され顔面を拳で殴られる朱禾。飛び上がる程に痛かったが、野菊の体感した痛さには到底及ばないかと半ば冷静に拳を受けた鼻をさすさすと擦る。幸い鼻血なんてものも出てはいない。

 そして殴った当人は軽く拭いた野菊の体を藍色の単衣を被せて見えなくする。頭から流れる血は一枚の手拭いで流れるのを抑えた。


「野菊大丈夫か!」


 次にここへ来たのは楼主の龍沂だった。


「この馬鹿っ何度風呂で溺れれば気が済むんだお前は!しっかりしろ馬鹿!」

「おやじ様、どうして」

「蘭菊と宇治野に呼ばれてな」

「すいませんっ、遅くなりました。大丈夫ですか」

「羅紋兄ィさん!包帯と手拭いです」


 凪風が両手にいっぱいの大量の手拭いと、懐に包帯の束を入れて帰ってくる。


「ありがとうな。うし、手当始めるぞ…清水」


 そんな凪風の頭をポンポンと撫で、彼からそれを受け取ると朱禾に場所を移動してもらう。そして空いたそこには自分が座り、向かいに手拭いで傷を抑えている清水の手を見て羅紋がそっとその上から手を置いた。


「大丈夫だ」

「…あぁ」


 友人の言葉にそう頷きながら、もう片方の手を野菊の白い頬に置く。戸惑うような曖昧な笑みを浮かべながらも、顔に暗鬱な陰影がかすめているのは隠しようがない。


「でも羅紋、怖くて堪らないんだ。またこの子を失う…か…………と………?」

「兄ィさん?どうかしたんですか?」


 まだほんのり赤みのある頬を撫でる清水の手がピタリと止まった。

 瞳は彼女の方を向いたまま、まるで彼だけの時が止まったような感じで動かない。つい先程まで感情が読み取れていたその顔には、形容の出来ない妙な表情が浮かんでいた。

 羅紋の斜め後ろにいた朱禾がその様子に不思議そうな顔をする。

 羅紋はすでに治療に入っており会話には混じっていない。



「愛理、何があったんだ?」

「おやじ様…」


 浴室の中から脱衣所の様子を覗き見ていた愛理に龍沂が気づき声をかける。


「そういえば何で愛理がこの風呂使ってたんですか」


 不思議に思っていた蘭菊が血で濡れた手拭いを桶水に浸けながら聞く。どうやら疑問に思っていたのは羅紋だけではなかったようだ。


「今日銭湯が使えねぇからこっちだったんだコイツは。設備点検?だったか?一日休みなんだとよ…。それで話を戻すが、ここで何があったんだ」

「それが…野菊さんがいきなり立ち上がったと思ったら、床の滑りに足をとられたみたいで後ろに…そのまま」

「はぁ…」


 龍沂の何年分かのため息が冷たい空気中に吐き出される。


「つーかお前早く単衣に着替えたほうがいいぞ。ここ男連中しかいねーんだから裸でいられちゃ、」

「………」


 いつまでも裸のままでいられても困るのでそう愛理に話を掛けた蘭菊だが、当の相手からは反応が帰ってこない。

 怪訝に思い彼女の顔を見れば、その視線はある一点に向けられていた。



「清水兄ィさん具合でも?」

「いや、大丈夫。でも何か…」


 未だ意識が戻らない野菊の顔を見つめて、清水は顔を横に傾ける。

 今度は不思議そうな表情をして。


「どうしました?」


 グルグルと包帯を巻く羅紋の隣で野菊の傷の具合を見ていた宇治野は、清水がいる反対側へ行き、近くに寄り彼の肩に手をかけた。


「野菊なら大丈夫ですよ。血は結構出ていましたが幸い針で縫うような傷ではありませんでした。偶然血が沢山出てしまう所に傷を付けてしまったようです。ただ頭を強く打った様なので…」

「ちょっと待て宇治野!まさか愛理みたいに記憶飛ぶとか無いよな?無いよな!?」

「落ち着いてください。俺だって心配なのですから」


 手当をしながら話を聞いていた羅紋が手を止めて宇治野に詰め寄った。




 その様子を見つめている愛理に、龍沂は彼女を見て言う。


「蘭菊の言う通りだ。男の目があるから裸でいられちゃ困る。野菊も宇治野があぁ言ってるんなら大丈夫だろう。今日はもう休め」

「……」

「愛理?」


 龍沂にそう言われた愛理は、それに返事をすることはなく手拭いで体を隠しながら向こう側にある脱衣所の方へと消えて行く。


「あれ、愛理って部屋に戻りました?」

「ん?なんだ、用事でもあったのか?」


 それと同時に遊男の一人が愛理を探して龍沂の元へやってきた。キョロキョロと辺りを見回して探している。


「いや用があるからと言うもんで、脱衣所近くで待ってたんですよ。したら野菊があんなになってしまってたんで吃驚しましたわ」

「そうか。あいつなら今、ほれ。あっちの脱衣に向かったぞ。まぁ後にしときな」

「そうですねぇ」


 その遊男が脱衣所に向かい歩く愛理の後ろ姿を見て頷く。



「……」


 またそんな彼女の姿を、銀髪の青年が遠くから見つめていた。

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