表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/123

始まる 物語4

 ある神は、かの女に問う。


 『いつまで続けるの』


 そう問われた向かいの女は答える。


 「ずっとよ」


 そして女は笑った。






 神は問う。


 『シアワセですか』


 女は言う。


 「幸せよ」


 そして女は笑う。






 神は、また、問う。


 『いつまで続けるの』


 女は静かに答える。


 「あの人が、私に振り向くまでよ」


 『まだ足りないのですか』

 「足りないわ」


 そう答えた女の顔に、笑は無い。






 『ああ…時空トキを変えてしまった私がいけなかった。情けなど…。誰か、誰か願っておくれ―――』



 『トキを進めたいと』






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 静まり返った大広間。

 あちらこちらに酔いつぶれた男たちの姿がある。


チュン、チュン




 遠い所から雀の鳴き声が聞こえる。

 もう朝か。


 そんなことをボーッと頭の隅で思いながらも、いつの間にか寝ていた野菊は目を覚ます。


「……」


 どんちゃん騒ぎの中、凪風を膝に乗せたままの所までしか記憶が無い為、どうやらそのまま眠ってしまったようだ。

 というか…


「は、はーなーせぇ…」

 

 何かに締め付けられるこの感覚。

 起き上がりたいのに、あいにく誰かの抱き枕になっているらしい様で動けない。寝っ転がっている為、凪風が膝にいる気配も感触もないし。

 誰だこれ。


 相手の胸板が顔に当たっているので、上を向かないと誰だか確認できない。ので、そそくさと覗き見ることにした。


 誰ですかー誰ですかー。

 おたくは誰で…………あ、なんだ。


「羅紋にぃーさまー」

「……」


 羅紋兄ィさまだった。

 声を掛けても全然起きない。

 相当深く寝ているのか、私がチョイチョイと体を動かしてもビクともしない。耳に当たっている胸からは、トク、トク、トクと非常に穏やかな心臓の音がする。

 うーむ。


「にーさまー」

「ぅー……」


 夏だったらアレだが、冬の寒い朝なので人肌がとても温かい。

 無理に起こすのもな…。

 今のところ兄ィさまが起きる気配は全く無いし、他の誰かが起きだしたらその時に声を掛ければいいのかもしれない。

 とか気にかけてそうに言いながらも、実はぬくぬくで温かい事に気づいた私の脳みそと身体が、このままゆっくりしていたいとダラダラ警報を鳴らした為であるが故なのだが。


 まぁそもそも自分もちゃっかり兄ィさまの背中に腕を回していた為、人のことは言えやしませんよ。はい。


━━きゅ、


「?」


 ジーッとしていると、左手の違和感に気づく。


 羅紋兄ィさまの背中に回している左手が、温度のある物体に包まれている感じ。物体っていうか、手?

 え、誰の。


 右側を下にして横になっていたので、右腕が羅紋兄ィさまと自分の胸の前にある。

 気になるので、その腕を畳につかせ顔をちょこっと上げて兄ィさまの後ろ側を見ることにした。

 そうして見えたのは、


「あ。ふふ、兄ィさま…」


 目を閉じ寝ていながらも、握られている手の先にいたのは清水兄ィさま。スヤスヤと寝ているが若干不機嫌顔だ。しかも口が少~し開いていて、ちょこっと可愛らしい。いつも大人な兄ィさまだからこんな姿を見ると変な母性が生まれてしまう。あ、でも綺麗でありますよ。

 しかし何がどーなってこんな状況になったのか不明である。てかホント凪風どこ行った。


「野菊…」

「!え、はっはい」


 寝ながら清水兄ィさまが喋り出した。


「駄目」


 何が。


「………」

「にーさま」

「スー…」


 とりあえず何が駄目でどんな夢を見ているのかが気になるが、兄ィさまの寝言なんて初めて聞いたからすごく新鮮なのと、人の寝言を聞いてしまったという謎のドキドキ感でいっぱいだ。


 しかし手がポカポカと温かい。

 安心する温度だ。宇治野兄ィさまがお母さんだとするなら、清水兄ィさまはお父さんだろうか。

 ・・・いやでも年齢的にお父さんは無いか。清水兄ィさま26歳だし私と10歳しか違わないし。それをいえば宇治野兄ィさまだってあまり歳に違いは無いけれども。


 まぁとにかく、


「大好きですよ」

「・・・ん・・」



◆◇◆◇◆◇◆◇




 小さな彼の世界には、母がいた。


 村の人も隣のお爺さんやお婆さんだっていたけれども、彼の世界の中心には常に母がいた。

 優しくも強い、世界の光が。


「晩飯は焼き魚だからね。残さず食べるのよ?」

「うん!」

「あはは、良い返事」


 香ばしい匂いが漂よう小さな木造の平屋の中。

 夕方に交わされる母子のそんな会話は、平和そのもの。

 

 「いただきます」

 「はい、召し上がれ」



 だがそこに父はいない。


 今は仕事に行っているから、という意味では無く、文字通り彼には生まれた時から父がいないのだ。

 母に聞いてもうまい具合にはぐらかすので、正確には分かってはいないのだが、


『んんーとね。金持ちのボンボンだった』


 と、ある日彼が父についてしつこく聞いていたらポロッとそんな言葉を零したので、金持ちだという事だけは分かっていた。


 それともう一つ。


『しっかし・・・母さんには全っ然似なかったのねぇ。顔とか恐ろしく綺麗であの人にそっくりだわ』

『あの人って、だれ?』

『んー』

『だぁれ?』

『しいて言うなら・・』

『なら?』

『バカで馬鹿でなのに腹黒でそれはもう内臓の色は隅から隅まで真っ黒で閻魔大王か!ってくらい怖くて憎たらしくて身体の半分・・いや全部が嫌味で出来ているような男』



『私の大好きな人よ』



 気のせいでなければ、最初から最後までほぼ悪口しか言っていなかった様に思う。


『好きなの?』

『まぁね』


 だけれど急に笑顔になったと思ったら「大好きな人」と言い出したので彼には訳が分からなくなった。


 とりあえず何故そんな人が好きなのだろうとは思ったが、母の言うその人が自分の「父」なのだと、言われなくとも何となく彼には分かった。



「おれ、その大きいさかながいい」

「俺、じゃないでしょ?私、って言うの」

「・・・わたしは、大きいさかながいい」

「その調子その調子」


 それにやたらと一人称を「私」にさせたがる母。

 彼にしてみれば「おれ」の方が言いやすく、また自分が住んでいる村の男衆も自身の事を「俺」と言っているので、それが当たり前だと認識している。


「おれ、じゃダメなの?」

「あの最低閻魔野郎に更に似ちゃうから駄目よ。せめて喋り方は自分に似せたいじゃない?」

「・・・」


 小さな彼の世界は、とても平和に満ちていた。


 優しくて元気な母がいて、住んでいる村の人との仲も良好。

 争いなんかは無いし、食べ物だって自然が豊かなその土地では溢れるほど・・と言う訳ではないけれど沢山ある。


「おれでも良いとおもうんだけど」

「駄目駄目ダメだめ。いやぁ、ここだけの話ね?母さん、男の人の『私』って萌えるのよ~」

「もえ?」

「そう。萌えです」


「でもかあさん、とうさんのこと好きだったんでしょ?とうさんに似ているならいいんじゃないの?」

「うぅ~。それは・・・」

「それは?」

「だって会いたくなっちゃうじゃないの」


 だが自分は今平和で幸せだけれども、果たして母にとっての今が幸せなのかはまだ小さな彼には分からなかった。

 小さくなくとも理解するにはあまりに難しい事柄である。


「会えないの?」

「んー。まぁねぇ・・・」


 溜め息をするように言葉を吐く母。

 しかし次には、


「夢で会えれば十分よ」


 と、人差し指と中指だけを立てると笑顔でこちらを向いた。


「・・・」

「な、何よその顔は」


 父さんが好きなら一緒にいれば良いのにと思うし、なら何故一緒にいないのかとも不思議に思う。



「ねぇねぇ。ずーっと母さんと一緒にいてくれる?」

「うん、いるよ」

「馬鹿ちん。さっさと嫁作って巣立ておバカ」


 父さんの穴を埋める事は出来ないが、これからは自分が母を今より幸せにしていければ良い。


 彼はそう思っていた。

 



・・・・・・・・・・







「きよ、きよ」

「・・・?」


 それは満月の夜だった。

 

 母と共に眠りについて数刻ほどした頃。体を揺すられ起きれば、黒い布と何かの文様が入った小刀を手に持ち、まるでかくれんぼをする時のように腰をかがめた母が隣にいた。

 

「いい?これを被って静かに裏手から出なさい。音は絶対に立てないで。見つかっちゃ駄目よ」

「?」

「これは貴方の父さんの刀。肌身離さず持ちなさいね」

「どうしたの?」


 黒い布に包まれた刀を母から手に持たせられ、押し付けられた。

 いきなりの事に疑問の言葉が口をつく。


「母さんが一緒だと見つかっちゃうかもしれないから、小さい貴方だけで行きなさい。できる?」

「できる・・・って?」

「村の外に出て、遠く遠くへ行くのよ」

「なんで?」


「きよの父さんのおうちの人がね、きよの事を探しているみたいなの。だから、逃げて」

「なんで?」


 ーーーガサっ


 途端、家の近くの草が風ではない何かに揺すられた音がする。

 同時に母の顔色が変わった。

 険しくも悲しそうな、そんな形容し難い表情だった。


「きよ早くっ」

「な、」

「母さんの一生のお願いよ」

「でも」

「行きなさい清水!早く!」


 その母の必死な形相に、頭よりも先に体が反応して動き出す。

母の声はそこまで大きくも無い筈なのに、彼の鼓膜に妙に響いたのは何故だろう。


『行きなさい』ではなく、

『生きなさい』と聞こえたのは何故だろう。






「あぁでも、本当はずっと一緒にいたかったかも」


 裏手からひっそりと出た彼、もとい清水の耳に、気のせいかもしれないが誰かがそう呟いた声が聞こえた気がした。


・・・・・・・・・



 

 薄暗い夜更け。


「上様には悪いが、争いの火種になる。それで…子どもは始末したか?」

「それなんですが」


 小さな平屋の周りに、複数の男たちが集まり何かを話している。

 見た感じ男達は百姓の身なりではなく、どこか整っていた。どちらかといえばお武家様のような格好とも言える。

 大柄の男が物騒な言葉を吐いた。 


(…かあさん)


 今、清水の姿は先ほど向かっていた方向にはない。

 母がやはり心配になった彼は、家の近くに戻ってきていたのだ。心配、というか自分が不安になった為でもある。


 そこはまだまだ子ども。

 当然といえば当然な事であろう。


 だがそんな子どもでも、母が必死になりながら言っていた『見つかっちゃ駄目よ』という約束は、無意識に守っていた。

 清水の体を覆うほどの草木が彼を上手に隠している。

 そしてその草木の間から覗く彼の瞳は、男達の姿を真っ直ぐに捉えていた。



「…女がいつまでも口を割らないので」

「万が一言いふらされても困りますし」


 と髷を結った男が言うと、大きい何かずっしりとしたような物を担いでいる者が一人、袋のような大きめの巾着を持った者が一人家から出てきた。

 

 清水は夜空を見る。

 今はちょうど月に雲がかかっているため、男たちの姿が暗く、何を持っているのかそれが何なのかがよく見えない。

  

 何だろう。

 と清水は目を凝らしよく見る。


「だから、どうしたんだと聞いてるんだ」


 イライラしながら再び男は聞く。

 すると相手は袋のような物を地面に放り投げた。

 それと同時に雲が月から離れ、男の顔を照らし出す。


「殺しました」


 頬に血を付けながらも、誇らしげに言うその姿は、異様で不気味で、


「首です」


 その言葉に、問いかけていたほうの男は、信じられないというような顔をした。


「何をしてくれたのだ貴様は!!」

「は、何を…とは」

「子どものほうだけだ!女をるなど上様に知れたら只じゃ済まんぞ!!」

「だっだから埋めるんですよ」

「土に」


 その言葉を聞いて、いそいそと男たちは動き出す。


「━━━…」


 だが、それとは反対に清水の脳は動くのを止めていた。

 考える頭など、思考など、今の彼には欲しくはなかった。


 目を閉じるのも止めていた。

 …止めていた?

 いや、違う。


 目を閉じたいのに閉じれない。 

 見たくは無いのに見てしまう。

 もう二度とは会えない母を。


 母の最期の姿を。


「しかし上様は何故こんな女と子など」

「そうだ、子のほうはどうする。始末してないだろう」

「聞いた話じゃ、子は上様と同じ黒髪らしい。面も似てるんだろうさ。きっと」

「なら簡単に見つかるか。…あ、待てよ。村の連中に匿ってもらってるんじゃないのか?」

「もういい手を動かせ。村の連中に気づかれるだろう」

 

 

 ドスっ

 パラパラ…

 

 亡骸を入れた地面の穴が塞がれていく。

 塞がった地面の所は少し盛り上がっているため、男達は草や枝をかぶせて不自然な場所を隠した。


「よし、今日はもう引き上げる。村の連中も眠ってはいるが気づかれても迷惑なだけだ。さっきも村の入り口で男が水を汲んで運んでいたしな」

「こんな夜更けにご苦労なこった」

「それに喜八。村人が子を匿う事は絶対に無い。女も子どもに誰かに匿ってもらえ等と言ってはいないだろう」


 大柄の男に喜八と呼ばれた男は首をかしげる。


「何故分かるんだ」

「そういう女だ。子を匿えばその匿った奴も我々は殺さなければならん。どこまでも…馬鹿な女だ」

「は、はぁ…」


 女を知っているかのようなその口ぶりに、喜八は少し戸惑った。

 そんな様子に、話していた男は鼻で笑うと村の外のほうを見ながら口を開く。


「とにかく。子どもの足じゃそう遠くに行ってはいないだろう。明日にでも見つかる」

「行くぞ」


 そう会話を終わらせると、もう用は無いとばかりに男たちは家から離れていった。




 その数刻後。


「か、あ…さ」


 小さな呟きは、空気に消え。

 体力も精神力も尽きた清水は、満月の光に照らされながらその場で気を失った。




・・・・・・・・・・




「おい起きろ清水」


 誰かに名前を呼ばれる。

 それに温かな無機質な物が、自身を包んでいる感覚にも違和感を覚える。


「…?」


 なんだろう?

 と思い目を覚ませば、そこはあの母が埋められた家の外ではなく立派な部屋で、ボロボロではない立派な布団と白い単衣が自分を包んでいた。朝陽が部屋の窓から漏れている。

 ここは何処だ、と上半身を素早く起こして辺りを見回した。

 そして目の前には、


「気分はどうだ」


 灰色混じりの髪をした、強面の男が笑顔で座っていた。


「お前なかなか村から出てこないから焦ったぞ」

「…」

 

 灰色混じりの髪の男が眉根を寄せながらそう言う。


 

 清水は気安く自分の名前を呼んだ男に、少しの恐怖を感じた。

 この男は何者なのか。

 自分をどうしようと言うのか。

 母は、


「清水。聞いてるか?」


 この男も自分を殺そうとするのだろうか。

 だが、どうせ生きていたところで、もうこの世には生きる意味が無い。

 母がいないのだから。

 生きていても死んでいるのと同じだろう。

 

 男は聞いても答えない清水に悲しそうな顔をすると、胡座をかいていた足を動かし正座になった。

 

「今は辛いと思うが聞いてくれ」

「…なに」


 何もかもが鬱陶しいとでも言うような顔を男に向ける。 

 だが男はそんな態度をさして気にするわけでもなく話を続けた。


「俺は昔、お前の母さんと城下で知り合ってな。…理由は言えんが、お前は今日付けで俺に買われる事になった」

「なに?」

 

 母と知り合い?

 買われる?


「金は随分前から貸していたんだが、とうとう約束の時期なってな。ここは妓楼だ。男が女を抱く遊郭。遊男として働いてもらう事になったんだ、清水。正式にはまだ禿だが」


 そう言い切ると男は目を閉じながら息をついた。対して清水の目はパチリと開いており、瞬きを繰り返している。信じられないという様に。


 この男は凄く可笑しなことを言っている。

 遊郭?

 それはお金に困った人間が人間を売りつける、最低最悪な場所だ。そして売られた人間は否応無く浅ましく女を抱く。抱き続ける。そういう所だ。だからそんな所で自分が働くなど可笑しい。

 だって…誰とこの男が約束をして、誰に売られたんだというんだ。

 自分はもう独りである。お金に困れはすれど、自身を売りつけた覚えは無い。

 母に…母に売られたというのか、自分は。


「…」 


 ふと、布団の横に母から預かった刀が置いてあるのが目に入る。


「清水…」

「そんな…ことを、するっ、くらいなら!」


 清水は刀を手に取る。

 

「!!やめろっ」


 ぐっ

 男が止めようと手を伸ばしたが一足遅かったのか。

 次の瞬間、清水が着ている白い単衣が真っ赤な血にまみれ、彼の刀を持つ手にも血が被っていた。血は腹から出ており、刀もまた腹に刺さっている。

 切腹だった。

 

「かあ、さんに、あえるんだ」

「……」

「し、んで、しまえば、いいんだ」


 血は傷口から少しずつ出ている。

 だが止めようとした男の手は、ゆっくりと下がっていった。けして間に合わなかったわけではない。

その手の動き、その表情、清水が自分自身を刺す瞬間に男は分かってしまったのだ。

 男は静かに、優しく笑う。


「お前、生きたいんだろう」

「な…んで」


 確かに血は清水から出ているものだ。自分の腹を刺したのだから。それに刺したからといってすぐに死ねるものでもない。時間は多少かかる。

 だが清水のそれは死んでしまうほどの出血量ではなかった。刺した場所も急所は外れている。到底死に至ることは出来ない。

 浅かったのだ。傷が。


 刀を持つ手も小刻みに震えているのがわかる。


「生きたいんだろう?」


 違う、違う、違う。

 彼は頭の中で連呼する。

 

「おれはっ」


 ぐぐっ


 また刀を腹に刺す。


 その清水の行動に目を瞑りながら、男は彼の頭へと手を伸ばす。今度は止めにも入らなかった。

 小さな頭を撫で付ける手は顔に似合わずゆったりとしている。


「お前の心は、生きたいんだよ」

 

 ぐぐぐっ


 だがそんな言葉など聞こえないとでも言うように腹から刀を離し、再び命を絶とうと、これが最後だとばかりに三回目の切腹をする。 

 しかし、


「だからお前のその小っせぇ手は、それ以上進まない」

「ちがうっ」


 刀を握り締めたままの清水の瞳から、涙の粒が溢れだす。頬を濡らす雫は血まみれの手に落ち、手の赤をそっと洗い流していく。

 同時に男の手が、刀を握り震える彼の手を包んだ。 


「いいか。それを『自分が弱いから』『覚悟が無いから』『勇気が無いから』とか言う思考で片付けるのは止めろよ」

「ちが…っぅ」

「死ぬ事にな、勇気を持つな。覚悟を持つな。ましてや自分で自分を殺ることにはな」



「俺はお前の母さんに頼まれたんだ。生かせて守って欲しいと。どんな形であろうともだ。…お前の母さんは、最期に何て言ってた」


 母さん──

 母さんは、


『見つかっちゃ駄目よ』

『生きなさい』

『清水』


「母さんは…」

「まぁ、とりあえず刀を置け。傷も塞がなきゃならんから大人しくしとけよ。──おーい!羅紋!治療箱持ってきてくれ!」


 そう言うと大きな声で誰かを呼びつける。

 そしてすぐにバタバタと足音がし、その誰かが部屋へとやって来た。


「はーい持って…ってウワ!なんすかその血!」


 現れたのは、緑髪の綺麗な少年だった。


「…お馬だ」

「おっお馬!?いやいや馬鹿にしてるんですか!?嘘だろ絶対!」

「もううるせーから朝飯に戻れ」

「呼びつけといて何様だこのオヤジ」


 そうして文句を言いながらも、羅紋と呼ばれた少年は部屋から数刻も経たないうちに出て行った。


 男は完全に少年が出て行ったのを確認すると、清水の単衣を脱がし治療を始める。


「そういやぁ、まだ俺名乗ってなかったな」

「べつに」

「この妓楼の楼主、龍沂だ。よろしくな」

 

あとがき。


『いいか?お前がこの先生きていくには、この妓楼内にいたほうがいい。安全だ』

『?』


『なぁ清水。『上様』が誰なのか何なのか分かるか?』

『…』

『とにかくな、偉い奴なんだよ。そいつは』


『そいつがお前の父親だ』


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ