始まりは 7年目の物語 4
天月へ戻った次の日の今日。
今、私と凪風は愛理ちゃんの部屋の前にいる。
時間帯は多分朝の9時くらい。当たり前だが昨日の約束を忘れていなかった凪風は、昼間という約束だったのに何故かそれよりも早くに私と蘭菊の部屋へと来て、私を叩き起こした。いや、叩き起こしたと言うか何と言うか…。蘭菊の足元に転がって寝ていた私を、蘭菊に気づかれないようになのか無言で廊下まで引き摺ったらしく、凪風に声を掛けられ私が目覚めた場所は部屋の前の廊下だった。何かビックリして声は出なかった。
…そんなに早く愛理ちゃんに会いたかったのか…。恋の協力は惜しまないけれども、お願いだからあと1時間は寝かせて欲しい。だって遊男の皆が起きるのは普通10~11時くらいの時間帯。9時はまぁ早い時間と言う事になる。寝ぼけ眼の私の首根っこを掴み引き摺りながら廊下を歩いていた彼は、もう完全に恋の病に掛かっているとみた。
「愛理、おはよう。起きてる?」
「はーい?」
凪風が声を部屋の主に掛けると、鈴のような可憐な声が部屋の中から聞こえる。
な、なんて可愛い声なの!
そして声の後に、スッーと戸がゆっくりと開いた。
それと同時に部屋の主も現れる。
「わぁ…すんごく、可愛い…」
桜色の髪をした女の子が目の前にいた。
ウェーブがかった背中までの御髪は艶々していて、碧眼の瞳は猫目でパッチリ。…十義兄ィさまが『仔猫みたい』と言っていた理由が何となく分かった。うん、確かに仔猫ちゃんだよ。
肌は透き通るような白さで、頬はほのかに桃色を帯びている。唇はあれ多分サーモンピンクかな、綺麗な血色をしている。
仕事柄、着ているのは黒の作務衣だけれど全然男っぽくは無くて、袖から見える細い手首や衿から覗くか細い首元は寧ろ女の子の魅力を最大限に引き立てている。それに戸を開けて、きょとん?としている彼女の表情はとても愛くるしい。
やだぁ!どうしよう、めちゃんこ可愛いよ!
ベリーベリースウィートハニー!!
「愛理、朝からゴメンね」
開け放した戸口からそっと彼女に優しく声を掛ける凪風。声を掛けられた愛理ちゃんもそれに対し優しく可愛い笑顔を向けている。
これは…うん凪風、分かる。分かるよ。
こんなにくそ可愛い子が近くにいたらそりゃ惚れます。私なんか見ただけでちょっと持って行かれそうになりました。凄いッス。
と言うかこんな子が男の巣窟にいても良いの?下手したら食べられちゃうよ本気で!一人しかいない事からするに、男の人と相部屋で無い事は確かだと思うけれども、それでも超危険だと思う。寝起きする場所だけは絶対隔離するべきだっておやじさま。
「凪風君?と、」
「私、あの、初めまして。のっ野菊と言います!」
「…ああ!遊男の皆が言ってた、女の子だけど花魁目指してる子よね!!」
「いや、男芸者です!」
すかさず可愛い勘違いを訂正させて頂く。
「で、どうしたの?朝から…」
「いきなりでゴメンね愛理ちゃん。ええと、私がちょっと聞きたい事があって…血がね、」
そう言うと愛理ちゃんの耳に口を寄せて、ヒソヒソ声で話を切り出す私。チラリと奴が気になり横目で凪風を見れば、眉間にシワを寄せて物凄く怪しげな視線を寄越してくる。別に悪い事をしてるワケでは無いのに、何故そんな目で見てくるのか不思議でならない。
…あ。もしかして、何だ、私に嫉妬かコイツめ。同性の私にまで嫉妬するとは凪風、相当好きなんだなこの子が。
「…で、教えて貰えないかなって思って…」
「なるほどね。そっかぁ…」
まぁ取り敢えず予定通り、ピューっと聞いてピューっと帰る事にしよう。
「あのね、出来ない人はしょうがないんだけど、お尻の穴を意識して締めるの」
「ど、どんな感じに?」
「小を我慢するときみたいに腹の下部分に力を入れてみるといいわ。血を中に溜めてといて、厠へ行く時に出す感じよ」
「なんか凄いねぇ」
そんなんで良いんだ。ちょっとビックリ。
「普通よ?でもどーしても駄目だったら褌に似たお馬を穿くと良いわ。野菊ちゃん、頑張って!」
「あっありがとう愛理ちゃん!会えて本当に良かった」
「また何かあったら来てね。相談に乗るから」
お互いに両手を出し、固い握手をする私達。
あぁ、私今女の子に触れてるのね…幸せです。柔肌が、手に優しくて癒される。しかもこんなプリチーな仔猫ちゃんの笑顔を直に向けられて…今なら天国に行っても良いかも…。生理の処理の仕方も分かった事だし、安心感で満たされていて凄く気分が良い。
いつまでもこうしていたい、けれども。離れるのは名残惜しいが凪風の為に此処は早く撤退するに限る。友人の恋路を邪魔するわけにはいかないのだ。
チリン
「ニャーン」
「え、護!?いつのまに…」
「わぁ、可愛い猫ね。ほら、おいでー?」
「ヴニャア!!」
突然鈴の音と共に猫の鳴き声が聞こえたと思ったら、足元に護の姿が見えた。いつのまに?鈴の音なんかさっきまで聞こえていなかったのに。いつから着いてきて来てたのお前。
普通なら護が歩く度に鈴が鳴り、少し離れていても音が聞こえて分かる筈なんだけどな。
それに確か私の布団の上で丸まってチャッピーと寝てた筈なんだけど…まさか起きたら私がいなくて探していたのかな。
「ヴゥー」
「こら!護」
てか何威嚇してんの護。
照れ隠しなの、ツンデレなの?愛理ちゃんが可愛すぎてどーしたら良いか分かんなくなっちゃった感じか。
って、いつまでも此処に留まっている場合ではない。早く撤退しなければ。
「あの、朝から本当にゴメンね!じゃあ用事があるから私は退散致します!!またねー」
「ニャン」
「え、野菊」
凪風には余計なお節介だと思われるのも嫌なので、一言も断らずに急ぎ足でその場から離れる。護は結局愛理ちゃんの近くには行かずに駆け出した私の後ろを着いてきている様子。チリンチリン…と音が後ろから聞こえてくるし、見なくても分かった。
な、なんかお散歩みたいで楽しいから、このまま部屋まで抱っこしないで行ってみようかな。ふふふ。
「護ー!かけっこだ~」
「ミャー!」
取り敢えず、後は上手くやれよ坊主!
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「客がお膳に箸をつけるまで、私達も箸をつけてはいけないんだよ。あとは」
午後からは早速花魁の兄ィさまによる、客への接待、遊男の手練手練についての指導になる。
新造は一人の花魁に付く筈なのに、私は見事にたらい回しらしい。禿の頃となんら変わりが無いではないか。そりゃ色んな兄ィさまから学ぶのは良いと思うけれども。素直に理由を教えてくれないおやじさまに苛々がつのっていく今日この頃。でも大好きな気持ちは別だけどね。
「良い?客に接吻をせがまれても、簡単にしてはいけないよ。言葉巧みに躱して頬や口の横にするかでまぎらわしてね」
「どうしてですか?」
1日目の今日は清水兄ィさま。清水兄ィさまには秋水が付いていたのだが、彼が15歳を迎えるにあたり花魁付きは卒業するので、指導を受けているのは私一人になる。蘭菊は宇治野兄ィさまに付いているので、また別だ。
「どうしてだと思う?」
この人の場合、其処にいるだけで女は堕ちるだろうし、客に囁くだけで一晩100両は飛ぶ程だと思う。正直、そのようなお人の教えを実践しても、本人程効果的じゃ無いんじゃね…とか思っている人には思わせておく。兄ィさまが外見だけで花魁やってられてると思うなよ!?
「接吻はね、本当に心を貴女に捧げても良いと言う証なんだよ。遊男のね。まぁ手管の最後の手段とでも言うかな」
久しぶりに入った清水兄ィさまの部屋は、相変わらず殺風景で。何か色物を少し足した方が良いと思うのだが…男の人ってそういう部屋が好きなんだろうか。
羅紋兄ィさまの部屋は逆に派手だから一概には言えないけれど、鏡ならまだしも箪笥や化粧台にまで白い布を掛けているのが不思議でならない。もしかして極度の潔癖症とか?
「じゃあ、ここぞと言う場面で使うのですね」
しかし、ほうほう。
なら清水兄ィさまは雪野様に心を捧げていると言う事だろうか。
禿の頃、押し入れの戸ごしからだが雪野様の『接吻してくださいませ』と言う声が聞こえてたし、最終的には『幸せです』とか言って雪野様は満足そうだったからきっと違いない。
このことはなるべく忘れたい出来事の一つなのだが、こう言うのに限って中々忘れられない物なのである。
「まぁ、そう言う事かな。それでね、芸者も退いて客と二人になった時、どれだけ相手の心を惹かせられるのかが勝負になるんだけど」
「どう惹かせるのですか?」
いや、ちょっと待たんかい。
私芸者になるんだよね。
私その途中で座敷を退く芸者の位置にいる人だよね。
あれ?
「恋の駆け引きかな」
「駆け引きですか」
とか毎回思っている私だが、薄々おやじさまが何を考えているのかは勘づいている。今日まで惚けたフリをしていた私だが、本当は引っ込みになった時点で色々怪しいとは思っていたのだ。あまり受け入れたい事実では無いので『私は男芸者になる。私は男芸者になるんだよ』と自己暗示を掛けていたが、こんな指導を受ける事になると、とうとうそんな暗示も役に立たなくなってくる。
そろそろ現実を見なければいけないようだ。
だからおやじさまも、いつまでも本当の事を隠していないで素直に私に言って欲しい。言われたら言われたで、そりゃちょっと文句が出るかもしれないけれど。
だがこんな事を考えていても事態が変わるワケではない。取り敢えず今は兄ィさまの話に集中しよう。私の今後を助ける武器を身に付けなければ。
「例えば…初歩的な駆け引きだと、最初は相手がしなだれ掛かってきても怒らせない程度に避けて、なるべく優しく…少し距離を取るんだ。そして相手がその態度に痺れを切らして来た頃に、やっと甘くするとかかな」
「甘く?ですか」
今の手管をまとめて言っちゃえば、ようは『ツンデレ』になれと言う事だろうか。凄く蘭菊が得意そうな技だなぁ…天性の才能だものアレ。
「甘くだよ。…野菊、私の隣に来てみて」
そう言われたので今いる清水兄ィさまの前から、指定された右隣のスペースへと畳に手をついて立て膝で移動する。これも此処での座敷の作法になる。近い場所への移動なら、わざわざ立つ事はせずに、手と膝を使い畳を這うのだ。何か変な感じ。
「まずね…こうやって片手を相手の首の後ろに回して」
「あの…」
「少し肩を押して後ろへ倒すんだよ」
「に、兄ィさま」
グググ…と兄ィさまの手に肩を押されて後ろに倒される。
私はどうやら甘くする時の客の役をやらされているらしい。『甘く?』の私の言葉に何の解釈をしたのか、いきなりの体験指導にビックリするも既に遅し。
確かにこうすれば身に染みると思うがちょっと心臓に悪いぞこれ。誰か助けてくれ。
「客の空いた手はそっと握りしめて…」
そう言うと私の右手にすかさず兄ィさまの左手の指が絡みつく。
指導しながらも、それが普段お客に向けている瞳なのか目がスッと細くなっており、若干本気で相手をされているのか危うく黒い瞳の中にある渦に呑み込まれそうになる。
狙った獲物は逃がさないと言わんばかりの瞳で、狼の捕食対象にでもなった気分だ。
「耳元にそっと唇を寄せてね、声は低く囁くように、」
「に、ふ…あはっはは、くっくすぐったいです兄ィさま」
だが兄ィさまのサラサラな黒い髪が私の頬や肩に滑り落ちてくるせいか。それとも耳元で話されているからか、色々くすぐったい。思わず顔を兄ィさまがいない反対側にそらして体を捻り笑ってしまった。
「ふふ、笑ってる君も可愛い」
「ははっ……はぁ」
兄ィさまも私につられたのか、笑い声が顔の横から聞こえて来た。それと同時に更に体が近づいて来たので笑いの震動が直に伝わってくる。
兄ィさまに握られている手は妙に汗ばんでいて、一度離そうとするも細く長い指が私の指に絡んでおり、簡単には解けない。そして解こうと指を動かすほど拘束が強くなっているのは果たして私の気のせいなのだろうか。
「清水兄ィさま、少し手を」
「叶うなら…君と千夜の夢に溺れてみたい」
此処でタラシが発動。
先程の教えの通り低く囁くようにそう耳元で言われる。
なるほど、此れが限界まで相手を焦らした後に『甘く』するって言う事なのか。
「ねぇ野菊、私と意識の果ての極楽浄土を見たくはない?」
ご、極楽浄土って天国の事だよね。
すなわち天国に行きたいと言う事だろうか。
「え、と」
私と無理心中をしようと…?
と言う事は…え…死にたい?もしかして死にたいと思っているの兄ィさま!この仕事に嫌気が差したとか、雪野様と一向に一緒になれないからいっそ死んでしまおうとかお考えなの!?まだ兄ィさまは22なんだよ、生きてれば良いことあるっておやじさまも言っていたし、早い、早すぎる。しかもこんな指導中にいきなりそんな台詞をブッ込んで来るほどなんだから、これはそうとう追い詰められていると言う事なのだろうか。
これはいかん!
「兄ィさま、まだ早いです!お気を確かに!!」
「まだってことは、いつかは良いの?」
「えーと…。い、良いと言いますか、自然にその時が来たら極楽浄土を見ませんか」
ヨボヨボのおじいさんになるまで生きて、寿命が自然と尽きるその時まで生きて欲しいです。




