帰郷
「野菊!」
十年ぶりに再会した天月妓楼の皆は、びっくりするくらい変わっている人もいれば、びっくりするくらい変わっていない人もいた。
十年以上経つのにも関わらず、この人誰だっけとならなく、全く変わらない容姿の男達に恐ろしさを感じた。
深い緑の、真夏を感じさせる色味を毛先に宿らせた男は忘れもしない、羅紋兄さまだ。皺なんてどこにも見えなくいつまでも若々しい肌で、変わったところがあると言えば肌が焼けているところくらいである。
薄紫の藤の花のような淡い髪色をした男性は、目尻に赤い線をひいて芸者さんの姿を彷彿とさせる。ただそれは見た目だけであり、彼は芸者ではない。梅木の手紙にあったように、やはり宇治野兄さまは別格のモノを持っていた。
「う、うじ、うじっぐぇっ」
「兄さん俺は!?」
店の前に姿を見せると、いの一番に宇治野兄さまの腕の中へおさめられた。
蘭菊が後ろで騒いでいる。
清水兄ィさま、否、清水兄さまが帰って来て半年。
池野屋にも随分と慣れてきた兄さまが、私に聞いてきた一言で、今私達五人はこの江戸に舞い戻ってきていた。
◆◇◆
『皆は今ごろ、何をしているんだろうね』
正月の終わり。縁日も過ぎてゆっくりと居間でご飯にでもしようかという時だった。
囲炉裏のある部屋で雑炊を手ずから作ったのは久しぶりで、兄さまの口に合うかな大丈夫かな、それだけしか考えずに一心不乱に米を見つめていた。
そばでは寝転がりながら、自分の店はどうしたというのか、のれん分けをして池野屋を出たはずの蘭菊がだらしなくみかんをひと房ひと房くっちゃくっちゃと頬張っている。
秋水は邪魔だ蜜柑小僧、と蘭菊の腰を蹴って正月の飾りをしまいに部屋を出た。小僧という年齢でもないが、傍目から見れば小僧に見えなくもないと感心していると「今小僧に見えるなとか思ったんじゃねーよな」とその小生意気な顔をこちらに向けて舌を出してくる。
あたってる。
そんなことは当然口に出せば面倒なことになるので言わない。
「小僧」
「なんだと! 言ったな米粒女!」
「ふーんだ、べろべろばー」
いい歳した大人二人で子供じみた言い合いをしていると、秋水が閉じていった部屋の戸が再び開く。
「新しい蜜柑持ってきたよ。二人とも相変わらずだね」
「に、兄さまっ」
たくさんの蜜柑をかごにのせた清水兄さまが、私たちを見て笑いながら部屋へと入ってきた。隣の安兵衛さんちで育った蜜柑が大量に余っているというので、女将さんが貰い受けて来たのだと言う。小さく丸々艶々とした黄色いそれはとても美味しそうで、また何より兄さまがそれを手ずから持ってきてくれているというこの状況にお腹がなってしまう。
「うるせぇ変態野郎! 年齢不詳の兄さんには言われたくねぇぞ!」
「こら!!」
「良いんだよ野菊」
「ほらな認めたぞ! 自分が変態だとな! はっはっは」
なんて大人げない奴なんだ。
対して兄さまは楽しそうに蘭菊を見ていて、嫌なそぶりひとつ見せない。肩まで伸びている黒く艶のある髪を耳にふわりとかけては、切れ長の瞳を優しげに緩ませて、形のよい唇を引き結び笑っている。本当に楽しそうに見ている。
私が見られているわけではないのだけど、その表情に胸がドキドキと高鳴った。好きだという贔屓目から差し引いても、あの表情は心臓に悪い。見られている蘭菊もどぎまぎしているのが分かる。「な、なんだよ、蜜柑兄さんには分けてやらないっすからね」と変な敬語まじりの文句をぶつぶつ言っている。
「兄さま、今ご飯できますからね」
「野菊」
器を出そうと立ち上がろうとした私を、兄さまは手をそっと上げて止めた。
「私は明日から江戸近くまで原料の目利きをしてくるから、ひと月はここを留守にすることになった」
「新しい生地に使うものですか?」
「そう」
「ひと月ですか……」
長い。
「江戸と言えば……皆は今ごろ、何をしているんだろうね」
こんな時代とは言えひと月は長いなと寂しく思っていると、いつのまにか戸棚から器を出してきてくれた兄さまが、江戸と言えば吉原だと言って笑った。
「食っちゃ寝でもしてんじゃないっすかね」
「蘭ちゃん…」
くっちゃくっちゃと蜜柑の房をつまんでは食べながら、気だるげに蘭菊が呟く。
兄さまがここへ来てからは、その後の吉原のことや妓楼の仲間達との今までの文のやり取りを見せたりと、今でも交流があることを伝えてはいたけれど……兄さまが今こうしてここにいることを知る人は私達四人だけで、皆は知らない。長い間苦楽を共にした彼の仲間達は、清水兄さまが最悪――…いいや、嘘でもそんなことは心の中でも言わない方が良い。もう失ってしまうのは嫌だから。
「あ……」
「野菊?」
「会いましょう!」
生きている内に出来る事は限られている。
だから今日明日、そうなってしまっても構わないように後悔なく生きていってほしい。
私は兄さまが大好きだから。
「会いに行きますよ兄さま!」
*
翌日、地面にめり込む勢いで女将さんに土下座した。
すると一ヶ月空けることになるが多少はなんとかなると、たまには息抜きもしてきなさいと苦笑ぎみに言われる。
それでも考えてみれば一ヶ月。
馬車で行くにしてもけっこうな時間を空けてしまうことになる。
「人が足らんときは休めばええ話やよ。ま、じゅうぶん足りとるんやけどなぁ」
ということで私達は女将さんのご厚意のもと、江戸へと舞い戻ってきたのだった。
宇治野兄さま、羅紋兄さま、おやじ様、十義兄さま、阿倉兄さま、沢山の人が現在営んでいる店の前で出迎えをしてくれた。
清水兄さまは私達の後ろから顔を出すと、羅紋兄さまは涙を流して抱き着いていった。馬鹿野郎、どこ行ってたんだよと、肩を震わせる。
手紙を事前に出していたせいで腰が引けるほど驚く人はいなかったけれど、それでも皆信じられないような視線で兄さまを囲んでいた。
「――野菊兄さんっ」
青年の域を出ない声が私の名前を呼ぶ。
振り向くと、輝く金色の髪を揺らしてこちらへ走ってくる青年が見えた。
両腕を広げて、胸に飛び込んできたその人を受け止める。
私は腕を閉じてギュッと離さないように、ゆりかごを揺らすように揺れた。
こんなに大きくなって、と母親のようにこぼすと、子供扱いはよしてくださいと抱きしめ返されながら言われた。
「ただいま。梅木」
「はい」
そうして長い年月を経て、私達はやっとこの吉原へ足を踏み入れる。
次話は来週木曜日更新予定です。




