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愛の理―あいのことわり― 1

 淡い春の色、桃色若菜色の打掛けを脱ぎ捨てて、私は地下から地上へと足を着ける。



 私は今日、この城から逃げ出した。







 愛理という名で生をうけて、はや幾年。


「見つけた。愛理、君に逃げ場はないよ」


 暗闇から目覚めた私の目に、貴方の姿が映った。

 周りは暑くて暑くてどうしようもなくて、肌が焼け焦げそうなほどに熱くて、けれど私の胸もそれくらい、胸に焦がれた想いで焼けてしまいそうなほどに全身が燃やされるような感覚に酷く痛みを覚えた。


 背を向けていた私は彼の声にびくりと肩が上がり、口を手で押さえる。

 今この瞬間、私は私の想いを、初めて貴方にぶつける。



 私は走馬燈のように、今までの自分の人生を思い起こした。







 私は窮屈なお城から逃げ出した、責任感の欠片もない、自分の立場もわきまえない、周りの迷惑も考えない、駄目な姫だった。

 駄目だと他人から言われたわけではないが、城やみなのために嫁ぐのが嫌で嫌で逃げ出した一国の姫など、役立たずにもほどがある。と、父上や母上、乳母達の姿を思い出しては目を閉じた。

 姫、姫、姫はどこだ、姫はいずこへ、といつものように名前を呼ばれることなく、いつものように。



 私が嫁ぐのはもう数年先の話だった。

 まだまだ時間もあったはずで、心の準備だってしようと思えばできたはずだった。

 兄が一人いたがほとんど会ったことはなく、その兄が床に臥せってしまいどうしたものかと父上が頭を抱えていた頃に持ち上がったのがこの話だった。姉も一人いたが、幼い頃に病を患い寝たきりが多かった。父上母上はそちらに掛かりきりなことが多く、夕名木(ゆうなぎ)姫、夕名木姫、と気にかけては名前を呼んでいた。

 それまで城に唯一の健康な御子、姫として大切に育てられていた私は、なんの不自由もなく、綺麗な着物を着ては甘やかな菓子を食べ、将来はどんな殿方のもとへ嫁ぐのかと想像に耽りながら日々を過ごしていた。



 だというのに、いざそういう話を聞かされると、私の胸がチクチクと痛みだす。

 そしてその時期と同じくして、私はある夢を見るようになっていた。


『愛理、愛理』


 何度も私を呼ぶ声。


 毎夜夢に見る人。

 頭から離れなかった。


 毎夜夢に見る、けれど顔の見えないその人は、夢の中で私の名前を何度も呼ぶ。白いもやの先で呼んでいる。

 優しい男の声で、猫の顎を撫でるかのようなしっとりとした声だった。

 私は返事をしようとしたけれど、どうも声が出ない。

 名前を呼んでくれてありがとう、あなたのお名前は? と聞きたいのに、何度も見る夢なのに私が声をかけられることはなかった。


 何度もその夢を見ているうちに、その人がなんとなく、私の名前を呼びながらも、違う人を見ていることに気がついた。

 声は確かにわたしを呼んでいる。だけど声の向かう先は斜め前のほうで、私の身に響くことがなかった。

 私の名前なのに、私の名前じゃない。


 幻想、妄想、現実逃避をしたい女が見た、ただの夢物語だと人からは言われ笑われるだろう。

 それでも私はその人が誰なのかも分からないけれど、私の名前を声に出すその人に、淡く淡く、胸を焦がした。



 考えの幼い私は、ある日その人を探そうと城を飛び出した。

 声が届かないのなら、届けに行けばいい。待っているだけでは何も始まらない。この声が届くうちにあの人へ。


 ……届くうちに?

 届くうちにとは、なんだろう。


 誰かも、どこにいるのかも、本当に実在する人物なのかも分からないくせに、衝動的なその思いは、冷静を退け、理性を投げやり、ただ本能のままに足を動かす。今行かなければならないような気がした。

 あとにも先にも、こんなふざけた真似を起こすことはないだろうと自身で思いながらも、それでも衝動を止められずひたすら走る。

 ろくに地面を走ったことはおろか、大股を開けて進むなど言語道断。それなのにいつかこうして走ったことがあるような、はるか昔に外に出ていたような奇妙な感覚が、私にはあった。





 そうして必死に走り続けてたどり着いた先は、やけに女性が多い町だった。胸に手を当てて息を整え、辺りを見渡す。


 そこには近しい者たちから聞くか聞かないか程度でしか知らない吉原があった。

 そこが吉原だと気づくのは後々のことだが、私は人通りの少ない場所へ隠れると、疲労がたたりその場で精魂尽き果て倒れてしまった。



『どうした?』


 すると一人、私の目の前に、男が駆け寄った。

 その人が妓楼の楼主、のちにとてもお世話になる天月妓楼のおやじ様であった。



 建物の裏で行き倒れていた私を、おやじ様や見世の男達が中へ運んで助けてくれたのだと知ったのは、倒れた翌朝のこと。

 むくりと布団から起き上がった私の横には、目尻のしわと浅黒い肌が印象的な男。りゅうぎ、と名乗る妓楼の楼主が胡座をかいて眠っていた。


 今更ながら我に返った私は城へ戻ろうとするも、ろくに城下やその外へ出たことがないので場所も分からなく、戻ったところで父上の怒りをかい、嫁ぎ話が無くなることもない、もしかしたら今まで以上に城の中に閉じ込められたままになってしまうかもしれない。

 今、足は痛いし傷だらけになっていて、太ももはやけに震えているけれど、こんなに自由に地面を駆け回ったのは初めてのことで、飛び出した後悔よりも、飛び出して良かった、と何故か心穏やかになっている。

 今頃城ではみなが躍起になって探しているだろう光景を頭に浮かべ、顔をしかめたけれど、それでも戻る気にはなれなかった。


 起きた私に気がついたおやじ様は、あくびをしながらもどこか具合が悪いところはないかと心配をしてくれ、背中をさする。

 大丈夫だと伝えると心底安心しきった顔でそうかと一言告げて、次に私がどこから来たのかを不審がった。

 私は自分の身体を抱き締める。

 そうだ、私は城から家出した身だ。私の着ている着物を見つめるおやじ様の目からどうにか隠れようとしたけれど、隠れられるわけがない。

 だけれど正体を明かすわけにもいかない。上手に嘘をつくことも、思い付かない。



 何かあると逃げ出す。

 これは私の悪い癖なのだと、この時自覚した。


愛の理2は次週木曜日更新です。

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