蘭菊
旅に出てからすぐの頃のお話。
短めです。
俺はつまるところ、野菊という女が大嫌いだ。
「着物のまま川に入んなって何回言えば分かんだてめー!」
「だって魚逃がすわけにはいかないでしょうが!」
まず、頑固で言うことを聞かない。
着物を濡らし原っぱに尻を付ける男のようななりをした女を、仁王立ちで見下ろす。普段から基本こけにされることが多い自分は、こういう時にほら見ろとばかりに大声で説教をする。
冗談ではない、俺よりコイツの方が数倍あほうだ。
昔からそうだ。
初めにコイツが妓楼に来た時は、冗談ではないと思った。
女が禿、遊男? 何を言っているのだと。
おやじ様の頭がついにイカれたのかと、幼いながら本気で心配をした。周りも周りで当然のようにその状況を受け入れていたのが、俺は心底怖かった。
仲が良くなったというのも、人間、そいつが嫌な奴でない限りは、ずっと一緒にいれば情も移るし、慣れも来る。ましてや幼い子供なら、息が合えばたちまちそいつと親友にもなれる。それが十年以上も傍にいるのなら、なおさら慣れるというものだ。
「また腕ひっかいてる。傷になっちゃうよ」
「いやもともとそんなもんだろコレ」
イライラしたときに生まれつきの傷を擦るのは俺の癖だ。
右腕にはもともと、火傷のような傷跡がある。
初見で会う奴は大概それを見て火事にあったのか、虐待されたのか、いじめられたのか、など真相を探ってくることが多かった。もちろんそんな事実は一切ない。何故なら、母親はとてもやさしい人だったからだ。
怪我をさせるようなことも、いじめられるような環境に俺を置くことも、火事に巻き込まれたとしても身をもって子供を助けようとするような、周囲に胸を張って自慢できる立派な母親だった。
そんな色々な憶測を呼ぶ傷跡だが、野菊という人間に至っては、全くそんなことを聞くそぶりは見せなかった。ただその傷を見て一言「ウサギみたいだね」と形の感想を言われたぐらいだ。
何がウサギだ。そんなフワフワしたものが腕についていてたまるか。
そう苛立ちながらも、どこか話していて面白かったのを覚えている。観点が違うというのだろうが、自分には到底理解の出来ない言動が、正直楽しかった。自分と似ている感性を持つ人間の方がもちろん好ましいが、そのような全く違う人間と触れ合うというのは、あの吉原で生きていた俺にとって、青い空を飛ぶ鳥になれたような、そんな気分だった。
「蘭ちゃんほらほら、大きいの取れた!」
飽きもせず懲りもせず、手に大きな魚を持ち駆け寄ってくる野菊。
髪の毛は俺より短くサッパリとしている。あれだけ頑なに切らなかった長い髪を何故切ったのか。ただ切ってほしいと俺に頼んできた野菊の目は、誰かを見据えつつ、俺を見ていた。
何故切るのかは聞かなかった。邪魔だから切ろうかなって、と話す彼女にそれ以上聞くこともない。邪魔だから切る。それが理由だ。
俺は野菊という女が大嫌いだ。
俺は野菊という男も大嫌いだ。
もうけして、昔のように心奪われることはない。
燃えるような想いは、とうの昔に燃え尽きたのだ。
ただ俺は、野菊、という一人の人間を心から愛しく思っている。
次話、来週木曜更新。
 




