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十年後と三日

 儚い背中は、私の背中より何倍も広い。


 今宵も月を見上げる彼を、私は廊下の隅っこから見守る。







 兄ィさまがこの池野屋に来て三日ほどになるが、ここにつれてくる前――あのあと、つまり再会した直後に彼は物凄い熱で倒れてしまった。


『兄ィさま? 兄ィさま!!』


 なので今現在は、この池野屋の屋敷で養生という形で部屋で休んでもらっている。


 再会そうそう浮かれていられる暇もなく、ちょうどその神宮にいた神主様に頼み込み、私は木の荷車で彼を池野屋の店まで運びこんだ。

 今まで溜めてきた何かを吐き出すように、私は死に物狂いで荷車をひいた。


『女将さぁーん!』

『野菊はん! あんさんいったいどこにっ……?』


 私が海苔屋への使いを放り何処かへ行ってしまったことを叱ろうとした女将さんは、私が汗を垂らして荷車を引いていることに目を見開いたあと、その荷車に乗せられて運ばれた兄ィさまを見て腰を抜かし、さらに「きょえええ!」という奇声を上げた。

 あの光景は忘れられない。というか一生忘れない。


『誰や?!』


 この綺麗で高貴な御方は何処の誰ぞ、お前さんもしや人さらいを? なんておどろおどろしく聞かれたが、そんな事実は一切ないので否定した。

 兄ィさまの身なりが簡易なわりに、布地がたいそう立派だったせいでもある。それに加えてあのなりなのだ。勘違いもするだろう。

 当然私を除いて元遊男で彼を兄ィさんと呼んでいた三人は、彼が兄ィさまだと一目でわかったので私のあらぬ疑いは直ぐに晴れた。


 けれど彼が突然現れた理由は私も詳しくは分からずじまいで、どう説明したほうがいいのか非常に困った。

 凪風には浅護や渚佐のことを話せるが、正直それもそれで詳しく話せる自信もない。

 ……けれどいつかは話さなくてはいけないと思っている。

 妓楼にいた宇治野兄ィさまや羅紋兄ィさまにも、いつか手紙で彼の生存を知らせたい。


『兄ィ、さん? 兄ィさんなのか?』


 あの日。玄関先で私の肩に担がれた兄ィさまを見た秋水は、険しい顔からだんだん頬と鼻の先が真っ赤になるのが見え、つまりは感極まって泣いてしまっていた。


『はぁ!?』


 蘭菊は蘭菊で「あんた今までどこにいたんだ!!」と至極真っ当な疑問を叫んでいたのを覚えている。あの時は彼自身状況をわかりかねていたものの(寧ろ私も分かっていない)、蘭菊なりに今は熱で倒れている兄ィさまを心配している。(布団で横になっている兄ィさまの部屋の周りをウロウロしていたのを見た)


 そして凪風の場合は清水兄ィさまを抱えて店に入ってきた私を見て、ホッとしたような、そんな顔をしていた。けれどそのあと「で、海苔は?」とこれまた使いを忘れて放った私に、至極至極真っ当な質問をして笑った。

 ごめんなさい忘れていましたと呆けた声で言えば、彼はまた、ただ笑って「知ってる」と答えた。



 不思議と彼らは、私に質問攻めをすることはなかった。

 






 清水兄ィさまの風貌は、どこかの若君っぽい。


 今、黙って縁側に腰をかけて月を見上げるその姿は、どこぞの君主のようで、屋敷の人達は彼に声をかける度にそれはそれはかしこまって、まるでお殿様が来たような口調と態度だった。


『お待たせいたしました清水様!』

『様づけは、いりませんので、どうか普通に』

『申し訳ございませぬ清水殿!』


 本人は顔には出さないが、少し引き気味だろうと思う。


 妓楼という場所を抜きで彼を初めて見ることになったけれど、確かによくわからない威厳がそこかしこに漂っている。花魁のときにそれを感じなかったのは、その威厳は花魁ゆえだからと認識していたからで、その面を取り払ってしまえば造作もない。


『お茶、落としてもうた』

『何しとんの!』


 お茶を持っていっただけで骨抜きにされたお手伝いさんの数はいざ知れず。


 考えてみれば、彼は将軍様の御子だ。秋水もそうだが、あの生まれながらに持った気品は切り捨てようとも捨てられないものがある。育ちが違えば生まれも何も関係ないのだろうが、同じ妓楼で働いて居なければ声をかけることすらできなかったかもしれないくらい、改めて見てみれば遠い人だった。

 

『清水はんには五日のうちで決めてもらいまひょ。あてがないなら野菊ちゃんが昔助けてくれたようにうちで仕事手伝うてくれてもええし、まぁまずは風邪治さんと始まらんしなぁ』


 来て三日が経ち、あと二日でこれからどうするかを兄ィさま自身が決めることになっている。

 うちで働いて居てくれてもいいと女将さんは言っていたし、凪風も秋水も蘭菊も、兄ィさま用の着物を用意したりとずいぶん張り切っている。 


『兄ィさま』


 彼と口付けをかわしたものの、同じく早三日。

 あの事を清水兄ィさまが覚えているのか覚えていないのか、実は定かではない。というか養生している人間にそんなことを聞けるわけもなく、ただ日が過ぎている。それに口も聞けていない。


 体調はどうなのか。

 今は病が移ってはいけないからと『入らんでね』『近づいてはあきまへん』『ほら、待ちいな』と女将さんから接触禁止令を出されているのだが、そんな病ごとき何のこれしき。集団生活には慣れているから今さらだ。


 そう思いながら、今日も私は廊下の隅から彼を見守る。



「兄ィさま……」


 ここのところ(とは言っても三日)体調が悪いにもかかわらず縁側で月を見上げている清水兄ィさま。

 私がいる場所からは暗くて遠くて、後ろ姿しか見えない。


「せっかく、会えたのになぁ」


 仕方なく私は目を瞑って、今日お手伝いさん達が話していた彼についての話を思い出す。


『ひゃあ! ありがとうて言われてしもうたわ』

『私なんか手拭い絞って額にのせたら、あの若さん優しくわろうてくれて』

『殿方に尽くすのって案外良いものよねぇ~』

『次私行く!』

『私や!』


 ……ぶっちゃけ、悔しい。

 どれくらい悔しいかっていうと、お財布を落として失くしてやっと見つけたと思ったら律儀に百円だけ残して他の有り金全部取られてたときみたいな、どうせなら全部持ってけよみたいな、今日一日晴れたら明日は良いことがあるとか願掛けしたその日の終わりぐらいに急にポツポツ雨が降りだして、願掛けは結局失敗して、どうせなら朝から降れよなんて膝を抱えて項垂れたときみたいな、……いいやどの例えも微妙だし、それにどれの比にもならないくらい今私は最高に物凄くお手伝いさん達が羨ましいし悔しい。

 

「他の女の人は兄ィさまに近づけるのに、しかも笑いかけてもらってるし、心狭いこと言いたかないけどそれもそれで納得いかないっていうか」

「嫌だったの?」

「そりゃもう嫌ですよ。だって…………?」


 ブツブツ独り言を呟いていた私は誰かの声につい返してしまった。

 思わず瞑っていた目を開いてみると、廊下の隅でしゃがんでいた私の目の前には、片膝をついて私と目線を合わせて屈みこむ清水兄ィさまがいる。


「あ、に、に、え……」


 白い単衣を着た姿を十数年ぶりに真っ正面から見た。

 肩に垂れる黒髪は、相も変わらず艶やかである。


 びっくりした、心臓が止まるかと思った。


「お、おおお熱は、いかがで」

「ここの方達のおかげで、大事ないよ」


 私は後ろにのけ反ってペタンと尻餅をつく。心臓に悪い。音もなかった。やっぱりこの人は忍者になれるかもしれない。なんて昔思っていたことを思い出した。


 息を吸って吐いて胸を押さえる。

 もしかして……もしかしなくとも、今の愚痴紛いの嫉妬心丸出しの独り言を聞かれてしまったのだろうか。

 腕に括り付けていた赤茶色と緑色の小さな鈴がチリンと鳴った。


「いつもそこから見ているから、どうしたのかと」


 びっくりして声の出ない私をよそに、薄い唇はゆっくりと弧を描いて、長めの前髪から覗いた黒く涼やかな瞳が揺れる。

 心地よい低く静かな声が私の耳を撫でて、生え揃う睫毛は瞬きの度に影を作った。


 私のストーカー紛いの行動は、とっくの昔にバレていたらしい。

 なんて恥ずかしい。


「座敷わらしにしては随分大人で、愛らしくて」


 そしてストーカーから座敷わらしになった私。

 あいつ何してんだとここ数日思われていたのかもしれない。


 野菊、と名前を呼ばれてふんわりと頬笑みかけられる。

 しなやかで骨張った厚く広い手が、私の頭にそっと触れた。

 包み込むように撫でるそれは次第に頬へと降りてきて、フニ、と唇に置かれる。


 兄ィさまが、笑った。

 私の、今、前で。


 そのことが今、本当に、三日ぶりに、心にすんなりと落ちてきて手が震える。

 兄ィさまが口を開いて何か言おうとするが、私はそれどころではなかった。


「う、う……」

「うん?」


 また、ふんわりと笑った。

 自惚れではない、慈しみに溢れた目で私を見て。



「――――うわぁぁああん」


 二十六歳、秋。


 私はこの日、彼を失って見つけたとき以上に、人生で初めて不細工な男泣きを大好きな人の前で晒したのだった。

 そして夜中に近所迷惑なほど泣いた私の声を聞き付けて、女将さんが私の後ろ襟を掴みズルズルと自室に戻したのもまたご愛嬌である。

十年後のお話の際は、タイトルに何日と書いていきます(そのお話の時系列です)。

よろしくお願いします。

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