最終話
京の町は、江戸の町とは少し趣が違う。
私がいる町は島原という花街の隣にあるところで、時折芸者の男の人が道を歩くのを見かけた。つい見てしまうが、その姿を横目で追うことは昔ほどなくなった。それに古くからある神社仏閣が多く、僧侶に、狩衣や袴を着た宮司も見かけることがある。
また江戸ほどやんややんやと騒ぐ輩はおらず、どこか全体がおっとりとしている。けれどそれは京特有の方言のせいかもしれない。
あともう少しで海苔屋に着く。
走らずとも十軒先なんてのはあっという間なので、佇まいを一度しゃんと直してから再び歩み出した。
――ニャーン
「……?」
後ろから猫の声がする。
私は思わず足を止めた。
……だって、何故だか懐かしい。
今では見ることも珍しくない、野良猫の姿。鳴き声も一日に一回くらいは聞いているし、聞き慣れてもいる。
けれど。
「護?」
あの火事があった日から、見ることのなかった二匹の姿。
逃げ出せたのか、そうではないのか。
姿を現さない彼らに何度枕を涙で濡らしたことだろう。
凪風には、二匹とも寺に清水兄ィさまが連れて行ったはずだと言われたが、その姿を確認することはなかった。
清水兄ィさまと愛理ちゃんのみならず、彼らも私から離れて行くのかとやりきれない思いが溢れた。
しかし。
「ゲコ」
「チャッピー?」
後ろを振り向けば、あの頃と変わらない姿の二匹が私の目の前にいる。
何故、どうして、なんて言葉は出なかった。
ただただ私を見つめる二匹の黒いその瞳に、視界がだんだん歪んでいった。
「ニャア(こっちに来て)」
「えっ、護?」
しかし感動の再会の時間はどこへやら、護は踵を返して反対方向へと走っていく。
チャッピーは護の背中に乗っているので、二匹一緒に私から一目散に離れて行った。
「どこに行くの!」
やっと会えたのに。
十年経っても変わらないその姿を不思議に思うことなく、私は彼らを追いかける。
猫を追う私を変な物でも見るような視線が周りから刺さるが、気にしてはいられなかった。海苔屋への使いを放ってしまったことが途中脳裏をよぎったが、頭を振って今は彼らに意識を集中させる。
「護!」
護がどこへ連れて行こうとしているのかは知らないが、もう町の名前も違うところまでやって来た。
しかし二股の道で川沿いへ進んで行った護達に、目的地がどこなのか分かって来た気がする。
確かこの方角の先には、大きな神宮があった。
道はその神宮が行き止まりで、その後ろは山しかない。旅をしていたころ、通ったことがある。
護は大きな赤い鳥居の前で止まった。
私もそれに従い止まる。
ここに何かあるのだろうかと不思議に思っていると、護が尻尾を揺らして私を振り返った。
「あんた。今度こそ、幸せになりさいよ」
しかし耳を疑う声が聞こえたかと思えば、護の姿はなくなり、一人の男の姿となっていた。
「俺達の願いは、それだけだからな」
チャッピーの姿もどこにもない。
けれどその代わり、見知った姿が私の前に現れる。
こんなことが、本当にあるのだろうか。
だって彼らはこの世界にいなかったのに、いや、いたはずなのにいなかった。
でも本当はちゃんと存在していて、その生き物としての形が変わっていたのなら話は別になる。
けれどあまりにも信じがたい。
ならば彼らはずっと、私と一緒にいたというのか。
あの妓楼でずっと、私の傍にいてくれたというのか。
「浅、護さん? 渚佐さん?」
「泣くんじゃないの。私達はもう傍にいてあげられないわ、だから」
「アイツの隣で、元気に笑ってくれよ」
傍にいられないと言った二人の足元は透けている。
いつかの清水兄ィさまのような状態に、また目の前から大切な存在が消えてしまうのかと涙が零れそうになるが、渚佐さんがアイツ、と鳥居の方へ向けた視線の先に見たものに、目を見開いた。
「野菊の死を、自分の死にした男よ」
「それってどういう」
「馬鹿な男だけど、あんたといれば少しはマシになるんじゃないかしら。……頼んだわね」
その言葉を最後に、二人は私の視界から消え去った。周りを見てもどこにも居ない。
けれど二人がいた場所の地面に、茶色と緑色の綺麗な鈴が落ちているのが目に入った。
私はしゃがんでそれを手に取り頬に寄せる。
『ありがとう』
手の中にある鈴をギュッと握り絞めて、私は曲げていた足を伸ばして立った。
そして意を決して、鳥居の先へと一歩一歩進んで行く。
神宮の赤い鳥居は、吉原にあった神社の鳥居よりもはるかに大きく、人間の私なんて本当にちっぽけなのだと感じた。
太い柱の横を通り過ぎ、二匹の狛犬の像の前までやってくる。
参道の先には本殿があり、立派で大きな木造のそれには我知らず畏敬の念を抱く。
そんな本殿の賽銭箱の奥にある階段を上がった先。
木の柱を枕に、座りながら眠る男が一人ぽつんといた。
黒い髪は肩につくかつかないかくらいの長さ。
その眠る顔は女性のように美しく、一本の線が通っているような鼻筋に、雪のように白い肌。
深緑の長着の上には、赤い羽織を羽織っている。
記憶にある彼の姿より少しだけ違う所はあるが、あれはそうなのだとはっきり分かる。
私はそっと階段を上り、男に近づいた。
起こさないように隣にちょこんと座り、深呼吸をする。
なんて言ったら良いのだろう。
もし起きたら、どんな言葉をかけたらいい?
今まで何をしていたのか、どこにいたのか、浅護たちと一緒にいたのか、など頭の中は酷く混乱している。
でも。
「やっと、やっと会えましたね」
彼の顔を横から覗いて、震える唇を押さえながら息を吐く。
溜めていた涙がとうとう限界にきて頬を伝った。
溢れる気持ちを言葉にすることが出来ない。未だ手に握る鈴がチリンと鳴って、私のその心を優しく撫でるように寄り添ってくれる。
目を閉じるとよりいっそう涙が零れ、胸元が濡れていくのが分かった。
「……?」
ふと、後頭部に違和感を感じる。
手を当てられているような、支えられているような。涙で腫れているだろう瞼を徐々に開ける。
視界がぼやけてしまっていたので、瞬きを繰り返した。
「ここは天国だろうか」
夜空に瞬く小さな星を秘めた黒い瞳が、長い睫毛に覆われた瞼の下から現れる。
「兄、さま」
「君がいるこの世の空は、とても青い」
近づいた唇に、引き寄せられるようにそれを重ねる。
今度はどんな人生を選ぼうか。
愛しい人がいる世界なら、どれを選択してもきっとその先に笑顔があるだろう。誰かを好きになって、その相手が同じく自分を想ってくれるのは、この世で一番の奇跡なのだから。
次項はあとがきです。




