終わりと始まりの足音 13
誤字修正しました。
『野菊、野菊』
暗闇と、慈しむような男性の声に目を覚ました。
私は瞬きをして、ぼやけている視界を覚まさせる。
「きよみず、兄ィさま?」
「ああ、良かった」
木と線香に包まれた部屋の縁側。目の前には、今にも泣きそうな顔をして綺麗な顔を歪める男の姿がある。
私は清水兄ィさまの腕の中で、背を支えられながら横になっていた。
「目を覚ましてくれて、本当に良かった」
背を支えている腕を掴むように、両腕で抱きしめられる。
その間にも、彼は私が倒れてからのことを教えてくれた。
あれから吉原では火事が起きて、皆が避難したということ。近くの寺、今いる場所でしばらくは過ごすことになりそうだということ。私の身体は仮死状態だったものの、含んだ毒が少なかったからなのか、奇跡的に持ち直したのだということ。
また、火事が彼女の仕業だということを、兄ィさまが口に出すことはなかった。
それに愛理ちゃんが火事の中どうなったのかは知らないようで、倒れた私をここまで連れてくるのに精いっぱいだったらしい。凪風が捕まえていたようだけれど、いつの間にかにいなくなっていたのだとも話してくれた。
そういえば他の皆の姿が見当たらないのでどうしたのかと聞けば、今はまだ炎が消えていない吉原へ、逃げ遅れた人間がいないかどうか手分けして探しているのだという。
「兄ィさま」
私は暫く話を聞いたあと、腕を動かしてその頬に片手を添える。
この人は絶対に何かを知っていた。
凪風のように、いつも先を見据えていた。
「きよみず、さん?」
私がもう一度会いたいと願った人は、その言葉に目を見開く。私はもう片方の手を、反対側の頬にそっと寄せた。肌が冷たい。
今は夜だから、少し冷えてしまったのかもしれない。
周りには誰もいなかった。
一人分のかけ布団だけが私と彼の膝にかかっているだけで、他には何もない。
「聞いても良いですか? 貴方は……」
「君がまさか、五歳で妓楼に来るとは思わなかったから」
私の質問が分かっていたように、それを遮って手を重ねられた。ああ、やはり。と、兄ィさまの言葉に目を閉じる。
この人は最初から知っていたのだ。
私がここに来た時から、私達の今までを忘れることなく、ずっとこの妓楼で。
「やっぱり知っていたのですね」
その私の返事に、兄ィさまは首を僅かに頷けた。
「好き勝手に願った結果がこれだから。後悔はしていないけれど、ただ少し強欲になってしまったから、こんな状態になってしまった」
兄ィさまは手を夜空にかざした。いつか見た夜空のようにそれは綺麗な景色だったが、見るべきはそこではない。
彼の、手だ。
「こんな状態って……そんな、なんで」
手が空気に溶けるように、うっすらと透けている。目を擦ってよく見たが、何度見ても同じだった。どういうわけか兄ィさまの手が向こう側を移している。
「幼いころから、私は鏡に自分の姿が映らない。影もない。着物を着ればその影ができたが、私自身はまるで幽霊のようなものだ。腹の傷も生まれつきでね」
嘘だ、と思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込む。
嘘、だなんて言えない。彼の手は実際に透けている。夜空をその手に透かせて、微笑んでいる。
場違いにもその横顔を綺麗だと思ってしまったのは、私が薄情だからなのだろうか。けれどかざしている手を長く見ていたくなくて、そっとその手を握り締めて下におろした。
彼の手は大きいので、私はそれを両手で握り締める。
「ねぇ、聞いても良いかな」
後ろから抱き込まれたまま、肩に顎を乗せられて言われた。
「あの時、炎の中で……君はなんて言おうとしたのだろう」
耳の後ろに顔を埋められているのが分かる。両手で握り締められた手はそのままに、兄ィさまはもう片方の腕を私のお腹に回して、少しだけキツく身体を抱きしめてきた。
「あの、とき」
兄ィさまが言わんとしていることは、一瞬で理解した。なんのことですか、なんてしらばっくれる気もない。けれどもう言うことのない言葉だとも思っていたので、こんな風に聞かれると恥ずかしさと同時に戸惑いがある。
どうすればいいのだろう、と胸の前で握っていた彼の手を何気なく見た。
けれどそのとき、私は己の目を疑った。
「清水兄ィさま!? 手が」
「お願い。答えて欲しいんだ」
先ほど見た時より完全に見えなくなっている手に気付いた私が振り返ろうとすると、兄ィさまはそれを押さえ込むように、さらに私を抱きしめた。
骨が折れてしまうくらい痛くて、あ、と声が漏れる。
彼がどうなってしまうのか、何となく分かってしまった。
そんなことはあり得ないと笑い飛ばせたらいいのに、出来なかった。
「私を……私を、嫌いにならないでください。ずっとずっと、……っ、ふ、一緒に、いてもいいですか」
あの時彼に言おうとした言葉を、脳裏に思い出す。
炎の中、私を抱いて最後まで一緒にいてくれたこの人に、どうしても伝えたかったこと。
今みたいに腕に抱いてくれて、でもそれは前世だけでの感情じゃない。ちゃんと今の私にも芽生えている、確かな気持ち。
「私、貴方がね、好きなんです」
いつまでも色あせることなく。
「愛しくって、しか、しかたがなくて」
「私も愛しているよ」
何千年も前から、ずっと。
耳元でささやかれた言葉に振り向く私を、彼は止めなかった。止めるどころか、先ほど私を抑えつけていた腕をほどいて、身体を向かい合わせにする。
「野菊」
自分から向いたものの彼の顔を直視できず胸元辺りを見ていたら、顎の下を支えられて上を向かされた。口を真一文字に結ぶ私を見た彼は、ふ、と声を漏らして笑う。笑わないで、と恥ずかしいので言おうとしたが、笑みの溢れる甘ったるい瞳が視界に入りあえなく撃沈した。
「少し、目を閉じて」
その言葉と共に、私は目元を彼の手で覆われた。視界が真っ暗になる。
そんなことをしなくても、一人で目は閉じられるのに。
なんてことを思っていたのもつかの間。
唇に、湿り気のある柔らかくて温かいものが触れた。
それは直ぐに離れることなく、目元にある手も目を覆ったままで、微かな相手の吐息も口元に感じる。
『君がため、おしからざりし、いのちさえ、ながくもかなと、おもいけるかな』
そう彼が呟いたあと、一陣の風が私の髪を揺らした。
同時に目元から手はなくなり、私を包み込んでいた温もりも消えていた。
そしてそっと目を開けて見えたのは、愛しい香りを纏った羽織が一枚と、誰もいない廊下でただ一人俯く女の影だけだった。




