終わりと始まりの足音 10
「野菊!」
二階に着き左へ続く廊下を行くと、龍沂は野菊の部屋へと鈍い足を動かして走った。走らなくとも直ぐに着く距離ではあるものの、悠長に行動できる心持ではいられない。現在二階の花魁の部屋に客を招いているのは野菊一人だけであり、他の花魁も馴染みとの約束はあるが、まだその時間帯ではなかった。
廊下は龍沂の息継ぎと、鈍い足音しか聞こえない。そしてようやく野菊の部屋の前に着いた龍沂は、一瞬手に力を入れたあと、パンと音を鳴らして襖を開けた。
「……野菊?」
大きな声ではなく静かな声で、彼女の名前を呼ぶ。部屋の中心で、腹を押さえてうつ伏せになって倒れているのは、この部屋の主である花魁だ。
目を閉じてこちら側を向いている顏は寝ているようだったが、身体の下は血だまりで、口の端から垂れている赤黒い血は、生気を全く感じさせない。
ここ十数年、こんな光景を目にしていなかったせいか、龍沂の足は先ほどの梅木同様に震えが止まらなくなっていた。
けれどそんな場合ではない。
言うことを聞かない足を折り曲げて畳に膝をつき、手で這いながら野菊の元へと寄っていく。
血は相当な量で、畳に沁み込んでいない血は行灯の明かりに照らされてテカテカと光っている。
「しっかり、しっかりしろ野菊、まだあったけえんだ、死んでねぇだろう? なぁ」
横を向いたままの野菊の体勢を崩すことなく、龍沂はピクリとも動かぬ野菊の背中に手を添えた。自分の膝は、彼女が吐いた血で赤く濡れている。
首や手首に指を置いて生死を確認しようとする龍沂だが、足と同じく手の震えも止まらず、脈も何も分からなくなっていた。止むを得ず今度は野菊の口元に手を当ててみるも、こちらも微々たるもので分からない。
龍沂はふと、目端に酒の入った徳利と、ひっくり返って遠くで転がった盃を見つけた。
梅木は毒を含んだと言っていたが、もしやこの酒を飲んで血を吐いたのかと、龍沂は徳利をそっと手に取る。近くにあった急須に中身を見ようと移し替えると、紫色の花びらの欠片が出てきた。
それは毒による相対死を何度も見てきた龍沂にとっては、見慣れていたものである。
「これは……鳥兜」
簡単に手に入り、探そうと思えば難しくもない毒花。この花の毒には、解毒の方法がない。なので自殺を考える人間には、都合の良い最も手軽な毒である。また酒に入れると毒が溶け出すので、お偉い人間の暗殺にも使われているという代物だった。
解毒方法がない。
という事実はつまり、野菊を助ける方法は万に一つもないということになる。龍沂は徳利を投げ捨てて、もう一度野菊の傍へと近寄った。
「おやじ様! 野菊は!」
すると開け放したままの襖を超えて、十義と梅木が部屋へと入ってくる。
十義は片手にしゃもじを持ったままで、調理場から慌てて走って来たことが伺えた。
「野ぎ……くは、どうした」
しかし急いで彼女の状態を確認しようと先頭を切ってやって来た十義だが、野菊と龍沂の姿を目にした瞬間徐々に膝を崩し、倒れ込むように手をついて龍沂の横に膝を落とした。
自分の見ているものが信じられないが、目を見開いて顔はその一点を見つめたまま、瞳を逸らすことなく赤く染まった彼女を見つめる。
「やっぱり、兄ィさんっ」
背けたい光景に、目は一時も逸らす時間を与えない。一方で梅木は二人に近寄ることなく、襖の前でしゃがみ込んで顔を伏せていた。
「これ、どういうことですか、おやじ様」
どういうことになっているのかなど、この場に先についた龍沂でも処理しきれておらず、十義の言葉に黙ったままだった。
そして――足音がまた響く。
この三人しかいない二階へと上がってくる男達の足音が三人の耳に聞こえてきた。バタバタと忙しなく、この部屋に向かってきているのが分かる。
数人ではない。大人数である。
「おい! どういうことだ!」
「野菊は無事なのか!」
「客が下で泣きわめいてんぞ! なぁおやじ様!」
荒々しい足取りで来たのは、なんと客の相手をしているはずの遊男達であった。彼らは座敷を抜け出してまで様子を見に来たのだ。
「お前ら、仕事はどうした」
通常ならば叱りつけなくてはいけない遊男達の行動に、野菊の前にいる龍沂は彼らに彼女の顔を見られないよう背中を向けて、俯きながらそう言葉を返す。
「いや、一階じゃ仕事どころじゃないですぜ!?」
「野菊の馴染みの冬様が廊下で泣きまくって『野菊様が死んじゃう!』って叫んでんだ。番頭が落ち着けてたが、それ聞いた他の客や遊男や男衆も騒ぎ出しちまって大慌てですよ」
そう話をしている間にも、駆けつけてきた遊男達は様子を確認しようと部屋の中へと入ってきた。彼らの目には倒れている野菊の足は見えていたが、龍沂の後ろに隠れている野菊の上半身が見えない。
隣に座り込んでいる十義の表情も思わしくない色で、遊男達はこの不可解な空間に眉根を寄せた。
「野菊!」
すると遊男達の後ろから、清水が生い茂った草をかき分けるようにして前へと出てきた。
いつものような余裕はなく、髪を乱し、息を切らしている。先ほどまで新規の客を相手にしていた清水だったが、普段ならば座敷を抜けるなどけしてやってはいけないことだ。それは他の遊男にも言えることであるが、花魁である彼は特に模範になるような振る舞いをしなくてはいけない。
しかし清水は構いもせず畳に座る龍沂を見下ろすと、ゆっくりとそこへと近づいて行く。
その間にも野菊の部屋の前には羅紋や宇治野、蘭菊と、次々と遊男が部屋に集まってきていた。
「なぁ大丈夫なのか!? おい!」
「落ち着いてください羅紋」
「野菊!」
様々な声が飛び交う中、清水は龍沂の先にある野菊の姿をその瞳に捉えた。
「……」
大きく瞼を開いたあと言葉は発さず、清水はただ腰をその場に降ろした。
清水のその様子に後ろにいた遊男や羅紋たちは、自分達も確かめようと距離を詰める。龍沂の後ろを、首を曲げて見ればすぐに分かる距離。人二人分の距離。
しかしそこに彼らの望んだ彼女の姿はあったものの、喜ばしくない色に包まれた野菊の姿は、地獄に落とされたような、そんな感覚を遊男達に植え付けてきた。
部屋は沈黙で包まれる。
口をおさえる者、目を逸らす者、足元を崩す者、泣いて理由を問う者。
「誰だよ、……なぁ、誰がやったんだよ」
羅紋はやっと野菊の姿をその目に映すと、ボウッとした顔のままそう呟いた。
「こいつは、自分から死ぬような奴じゃない。皆知ってんだぞ」
その隣では蘭菊が自分の腕を手で押さえ、涙を目の縁に溜めてそう口を開く。
「鳥兜の毒だ」
「え……?」
「その酒に混じってやがった。それにたぶん客の仕業じゃねぇ」
龍沂は、蘭菊を含めた全員にそう言った。
鳥兜と聞いた男達は、まさかそんな、と顔を青ざめる。特に飯炊きである十義などは酒の管理もしているのだ。男達の中の誰かが、野菊の酒に毒を入れたのかと身震いをする。
清水はその言葉に腰を上げると、野菊の後ろに回って再び腰を下ろした。
野菊、と前かがみになり彼女の横顔を見て口先で呟くと、その頬に手の甲を当てて唇を指先で撫で、艶やかな口端に伝う血を拭い取った。
「出逢えた時、どれだけ嬉しかったか」
凪いだ海のように静かなその瞳は、揺れることなく真っ直ぐに彼女へと向けられる。
「君がいなければ、私はどこへゆけばいい?」
嚙み殺す声は、震える身体を諫める役にもならない。
問いかける言葉は彼女に届かない。
幾千の時を刻んで彼が求めた女性は、永遠に覚めない闇に囚われてしまったのだから。
「君に触れられないのなら」
龍沂が動かそうとしなかった野菊の首を、清水はゆっくりとすくい上げて顔を近づける。
「この腕に意味はないというのに」
野菊の頬に落ちた涙は、耳につたい流れた。それはまるで野菊が泣いているようにも見えた。
着物は男物であるというのに、目を閉じ清水に抱かれている姿は、年頃の普通の娘に見える。
野菊は女性だ。そんなことは此処にいる全員が分かっている。このようなところで毒死し一生を終わらせて良い人間ではない。
ましてや毒を盛られるような存在ではない。
けれど清水は野菊の顔を引き寄せたまま、ほんの微かな違和感に気づく。
ハッと顔を上げて、清水は野菊の口元を見つめた。
「おやじ様」
「……どうした」
「温かいです」
「?」
温かいのは息をしなくなってからまだ間もないからだろう、と暗に分かっていると返した龍沂だったが、清水はそれに首を振って野菊の頭を自分の膝に乗せた。そして彼女の着物を剥いで胸元を少し開けると、野菊の胸にキツく巻かれたサラシをほどきだす。
「それに、いえ、もしかしたら。……宇治野来てくれ」
清水は蘭菊の背を撫でている宇治野を手招いて呼ぶ。鼻先をほんのり赤くさせている宇治野は、一拍置いて天井を向いたあと、首を一度だけ縦に振って清水の傍へと駆け寄った。
「どう見えるかな」
「どう、など」
宇治野は戸惑うも、促されるように野菊の首元に指を押し付ける。
「…………ん? これは――」
彼は目を見開いた。
「ねぇ主犯、連れて来たよ。清水兄ィさん」
清水と宇治野が顔を向かい合わせていると、凪風が大きな声を上げて部屋へと入ってきた。
部屋にいた者達はその声に一斉に彼へと注目を集める。
「主犯?」
「連れてきたって……なんで愛理がいるんだ?」
朱禾が首を傾げる。
凪風に手を引っ張られてきたのは、作務衣を着た愛理だった。多少暴れたのか、息が荒く目つきは鋭い。桜色の髪は、顔に散らばっていた。
凪風と清水は龍沂に頼み込み、妓楼の者や野菊に知られぬよう愛理を監視する下働きを付けてくれと頼んでいた。雪野の父に連れて行ってもらおうにも、その数日の間で何か行動を起こされてしまったら困るからだった。
「飯炊きの一人が騒動に慌てて吐いてくれたよ。愛理が一昨日頼んだらしいじゃないか、僕達の目を搔い潜り『酒が美味くなる香辛料』と言って、野菊が座敷で使う酒にそれを入れてくれと、野菊本人から頼まれたって」
「どういうことだ?」
「その酒には毒が入っていたんだ。この女の、愛理の用意した毒が」
そして騒動に便乗し逃げようとしていたところを、見張りに付けていた男が捕まえたのである。
一昨日はまだ見張りを付けていなく、目を光らせていたのは凪風と清水のみ。野菊の友である蛙と猫は、今日の座敷の時間になっても姿を見せていない。
防げるものも、物事のすれ違いで防ぐことは出来なかった。
「誰が死んだって良かったんだろう。野菊が死ななくても、彼女の客が死んでしまえば野菊の信用がなくなるとでも思ったのか」
凪風の言葉に、愛理は俯いたまま唇を噛む。力を入れ過ぎているのか、唇からは血が滲み出ていた。凪風はそれを目にしたものの、同情的な感情など砂粒程にも湧き出ることは無かった。視界に入れようとするも受け入れるのも怖い野菊のその悲惨な姿に比べれば、愛理の姿など比べるのもバカバカしい。
「お前、本当か」
龍沂が拳を握り絞め、愛理にそう問う。その場にいた男達は自分達の耳を疑ったが、なんの言葉も発さない愛理を見て徐々に険しい顔をし始めた。本当に彼女が野菊に毒を盛ったのかと、それぞれ口に出す。
「いつもそう。そうよ」
すると開き直ったように、愛理がバッと顔を上げた。清水の膝の上に頭を乗せて横たわる野菊を、憎々し気に見る。それと同時に野菊が自分の血で汚れている姿を見ると、歓喜の気持ちからか口角が上がった。しかし事態は彼女が思うような、気持ちのいい展開ではない。
「皆は好いてくれたのに、貴方だけは私に振り向いてもくれない!」
汚い物を見るような拒絶した目で自分を見る清水に、愛理は叫んだ。
「私の、私だけの世界なのに、あの子ばかりを気にしてっ、私を視界にも入れないわ!」
もはや彼女に、嘘をつく余地などなかった。




