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終わりと始まりの足音 9

 どこまでも闇が続いていた。

 先は一向に見えない。


「愛理ちゃんは、ここがどこだか分かるの?」


 隣で歩く彼女に、前を見据えたまま声をかける。


「……ううん。曖昧にしか分からない」

「曖昧?」

「ここは極楽浄土でもないし、地獄でもない。……だって私、あの「私」が死ぬ時だけは、意識が戻るの」

「どういうこと?」


 思わず足を止める。

 あの「私」とは、今ここにいる彼女のことではない。階段から落ちてから別人のように変わってしまった、いや、恐らく本当に別人なのであろうあの愛理のことだ。


「入れ替わるように、あの身体が死を迎える瞬間だけ、一時だけ私は私に戻れる。次に生まれ変わる準備でもされるように」

「生まれ変わる、準備……?」


 訝し気な顔で、私は彼女を見た。

 彼女はそんな私を見てそっと目を閉じると、さっきの私のように前を見据えて口を開く。


「十七歳までは普通だった。でも十八になると、意識は違う誰かに取られてしまう。そうしていつもここで、寝ることもなく、誰と話すことも、疲れることもなく、自分の死ぬ時だけを待つの」


 愛理ちゃんでも、その身体を取られている人物については知らないらしい。


「一人の男を醜くも求めて、貴女を陥れて、そんな姿を晒すあの女を、私はどうにもできなかった。あれが本当の私じゃないのかとさえ思えてしまった。貴女だけはせめて、心から好きな人と結ばれて欲しかった」


 ぽつり、ぽつり、と呟くように、彼女は胸の内を吐露する。


「凪風君は、本当の私を、好きになっていたワケじゃないもの」


 愛理ちゃんは前を向いていた顔を横に逸らして、目元を腕で拭っていた。反対側を向いてしまったので定かではないけれど、泣いているようにも見えた。


「私は今までのことを全部、は覚えてるわ。だからノギちゃん、貴女は貴女の大切なことを思い出して」

「大切なこと?」


 今の愛理ちゃんは、この世界がずっと廻り続けていることを分かっている。それはあの違う誰かにも言えることだ。

 けれど、私が以前いたのは違う世界だ。この世界ではない。自分に関しては、母が居たのか父がいたのか、兄弟がいたのかさえも分からないのだが。


「貴女は貴女よ」

「愛理ちゃん?」


 私が強引に握っていた手を、今度は彼女が握り返してくれる。



―――ポゥ……


「? 愛理ちゃん、上から何か」

「え? あれは……光……?」


 すると空も何も見えないところから、一つの光が目の前に落ちてきた。ポカポカと暖かそうな、優しい光。

 その光は私と愛理ちゃんの方へゆっくりと近づいてくる。


「なんだろう」


 私は愛理ちゃんから手を離して、その光を包み込むように両手を出した。無意識だった。闇の中でやっと見つけた光を、もしかしたら失いたくなかったのかもしれない。


 その光は手の中で少し止まったのち、また動き始めた。

 そして手の中からスッと出ると、光は真っ直ぐに私の胸へと向かって移動していく。思わず足を一歩引いたものの、それ以上下がることなく一歩引いただけに留まった。何故ならその光が、直接私の胸の中に入っていったからだった。


 私は驚いて胸を手のひらで触るも、なんの変化もない。さっきの光は何だったのか、と隣にいる愛理ちゃんに言おうとする。

 が、急に胸が熱くなって前かがみになった。


「ノギちゃん? もしかして――」

「熱い、なんで」


 毒を飲んだ時のような苦しさはない。

 けれど焼けるように、胸の奥が熱くなっていた。私は着物の合わせを掴んで膝を折る。そして胸が熱くなったと思えば今度は耳鳴りがして、脳が何かを訴えるように記憶の映像をグルグルとまわし始めた。

 波……なんてそんなものではなく、嵐で海が渦を巻き、海底にあるものが全てひっくり返されるような、そんな勢いで。


 私が見ようとしていた、これは――走馬燈だ。



 自分が花魁になった日、

 新造になった日、

 禿になった日、

 川原で目覚めた日、


「熱いっ」


 そして前世の、自分の姿。



◆◇◆




 梅木は冬と和泉を連れて、野菊の予想通り楼主部屋へと行った。

 そして引戸をなんの言葉もなく梅木が開けると、中には目的の人物である楼主の龍沂が驚いたように肩を跳ねさせていた。普段でもそんな無礼な真似をする輩がいないので当然の反応である。禿のやんちゃな子供達の中には悪戯半分でするのもいるだろうが、今は皆座敷の際中なので、そんなことをする者は誰一人としていない。手には筆を持ち、文をしたためていた途中だったのが伺えた。


 しかし梅木はその姿を捉えると、泣きそうな顔をしながらも、震える唇から必死に言葉を吐き出した。


「おやじ様、野菊兄ィさんが」

「どうした?」

「兄ィさんが、毒を含みました」


 梅木の足は僅かながらに震えている。言葉もどこかたどたどしく、顔面は蒼白と言っても過言ではない。真っ青だった。けれどどうにか、自分の役割を真っ当しなければと踏ん張り、彼は拳をきつく握り絞めながら龍沂を見下ろす。


 一方の龍沂は、自分を見下ろす梅木を見つめたまま固まった。いいや、数秒動かなかった。動けなかった。龍沂は今梅木が放った言葉を、短い時間の中で正確に処理していく。

 梅木の後ろにいる禿の和泉と、野菊の上客である冬を見た。

 有事の際は、客を避難させるようにと教えてはいた。逃げられるならば逃げさせ、危ないと判断したならば座敷から出すのだと。

 野菊の客がここに、禿と新造と共にいる。野菊がいない理由。それは彼女がつまり危険な状態であるからであり、梅木はそれを伝えようと楼主部屋へとやって来た。


 野菊が、毒を含んだ。

 龍沂は雷が己に落ちてきたような衝撃が走った。


「お願いですお願いですっ急いで二階へ来てください!! おやじ様!!」


 梅木は震えた上ずった声で、泣きそうな声で口早に叫ぶ。


「――梅木、番頭一人と十義を呼んで二階に来い! 俺は先に部屋へ行く!」


 龍沂は立ち上り、梅木の背を押して部屋から出した。梅木もそれに抵抗することなく、再び廊下をかけていった。そして傍にいた和泉と冬には、この部屋で待機をしているようにと指示をする。和泉は、はい、と答えたものの、冬はどこか虚ろ気で、ずっと涙を流していた。

 この調子では、いつ糸が切れて泣きわめいてしまうかも分からない。


「お前は冬様を頼んだぞ」

「のぎく兄ィさまにも、お願いされました。だいじょうぶです」


 まだ幼い和泉に龍沂がその肩に手を置いて頼むと、そう返事が返ってくる。頼もしさを感じると共に、野菊が毒に侵された状況でそのような判断をしたことに、また肝が冷えた。毒を含んだ状態で客を逃がすということは、その姿、苦しむ姿を見せられないという為か、はたまた客の前で精神的衝撃を与えないために、息が尽きる瞬間を見せたくはないと思ったためなのか。


 龍沂は先に部屋を出て行った梅木を追うように廊下を走った。老いた身体に鞭を打って階段を駆け上がる。


「ん? おやじ様どうしたんで?」

「そんなに走っちゃあ転びまっせー!?」


 龍沂を見かけた遊男や男衆が、その姿を見て首を傾げる。


 着物が崩れようが、荒い登り方のせいで階段が壊れようが、龍沂はそんなことを気にも止めなかった。廊下を走るなといつもは遊男達にしかりつけている龍沂だが、今は馬鹿らしい小言だと思える。バカバカしい。


 龍沂は頭の中で何度も梅木の言葉を繰り返していた。


『野菊兄ィさんが、毒を含みました』

『野菊兄ィさんが、毒を含みました』

『野菊兄ィさんが、毒を……』


 何故そのような状況になったのか。

 嘘であってほしいが、梅木がそんな質の悪い嘘を吐くとは到底考えられない。彼の震える唇は、顔色と同じく真っ青になりかけていて、とてもじゃないが普通の状態ではなかったと、龍沂は先ほどの梅木を思い起こした。




◆◇◆





 前の前の、私。


 私は炎の中で死んだとき、願ったことが二つあった。でもそれは焼けるような溶けてしまうような炎の中ではなく、温かくて淡い光の中でのことだった。


 一つはこの世ではなく、別の世界で生きたいということ。散々な目にしか合わない人生。それを延々と繰り返すこの世に、いたくなんてなかった。二度と戻りたくはない。


 そしてもう一つは、またあの人に会いたいということだった。


 戻りたくないくせに矛盾しているとは思うけれど、せめてもう一度だけ、あの人に会いたかった。大切なことを伝えられていない。何一つ伝えられなかった。だってその前に私は死んでしまったから。


 だから神様、と私は願った。


 叶うならば私はそれと引き換えに、好きな人を想うこの一等大事な気持ちを、忘れてしまっても構わない。

 この先何度生まれ変わろうと誰も好きにならない、誰を受け入れることもない、この世で最も愛すべきしんぞうをえぐり抜いて。

 伝えられなかったあの言葉を、もう一度会えたとしても伝えられなくたっていい。どうせ何度廻っても実らない恋だった。ならば無くしてしまっても同じというもの。


 この世の条理が覆らないというなら、この廻りを終わりにしてくれないというのなら、どうか私を――。



「愛理、ちゃん。私、待って、ねぇ愛理ちゃん」



 熱い胸を押さえて、彼女にもたれ掛かる。

 グチャグチャになっている頭の中を落ち着かせたくて額を押さえるけれど、それもあまり意味は無かった。


 私はこの世界に来て、私は一体誰なのだろうと、ずっと疑問に思っていた。四六時中考えていたわけではなく、たまにふと思い起こすくらいだったが、一片足りとて思い出せない自分のことを、ずっと。



「ノギちゃん、大丈夫よ。大丈夫だから」


「だって、だって私」



 最初から、私は違う誰でもなかった。 


 


 ――だって私は最初から、野菊その人だったのだから。


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