終わりと始まりの足音 8
「愛理ちゃん?」
「ノギちゃん……?」
暗闇の中、泣いている彼女に恐る恐る声をかける。明かりも無いのに、愛理ちゃんの姿はハッキリと目に見えていた。着物はお姫様のような、豪華なものを着ていた。桃の節句で着たような引き振袖ではなく、品のある佇まいの着物だ。
私の声に気がついた彼女は、うつむいていた顔を上げてこちらを見た。
目を真っ赤にして、前髪は涙で濡れたせいか束になっている。
私はまた彼女に一歩近づいた。すると近づくたびに、愛理ちゃんの表情が強張っていく。「来ないで、来ないで」とうわごとのように呟いているが、けれどそこから動くことは無かった。
私は戸惑いながらも歩みを進めるが、すると、ジャラと金属音のような音を耳に拾った。鉄の鎖が地面を引きずるような、そんな音。よく見てみると、彼女の足首には銀色の足かせが付いていた。
一歩一歩と慎重に近づいていた私は、それを目に確かめると駆け足になっていた。
「愛理ちゃん!? どうしたの!?」
「駄目! 来ないで! ノギちゃんはここに居ちゃいけないのよ」
「この鎖は何? ここってどこ?」
怯える彼女をあやすように、私は丸く俯いている背中をそっと撫でた。触れておいてなんだが、普通に触れたことに些か安堵する。もしかしたら透けてしまって、物に触れることすらできなくなってしまったのかと思っていたから。
愛理ちゃんの背に置いた手を上下させる。何度も擦るが、けれど、その背中に温度を感じなかった。とても冷えている。
そういえば今の私にも体温はあるのだろうか、とふと疑問に思う。自分の頬に片手を添えてみた。でも正直分からない。愛理ちゃんの冷たさは感じるのに、自分の体温はまるで感じなかった。さっきは体中を熱が走り回っていたのに。
そうしていると、愛理ちゃんが顔からそっと手を離して私の方を向く。下ろした手は胸の前に構えて、なんとも言えない悲しいような寂しいような、苦しそうな表情で私を見ていた。
「ノギちゃんやめて、ずっとここに居ちゃいけないわ」
「おいてけないよ」
「行けないから、いいの」
ずっと居てはいけないという彼女の言葉の意味が分からないが、あっちへ行けと言われても到底愛理ちゃんをこのままにして歩いていくことは出来なかった。それに、彼女は私を「ノギちゃん」と呼んだ。以前の呼び方で私を呼んだのだ。私はあれから考えたが、今のあの愛理ちゃんはきっと私と同じような知らない誰かで、前の愛理ちゃんは……。と、その以前の彼女の存在はなあなあになっていたのだが。
「本当の、愛理ちゃんなの?」
「……分からない」
首を振る。
「分からない?」
「自分が本当の自分なのかも、もう分からないくらいよ」
愛理ちゃんは前髪をグシャ、と片手で掴んでまた首を振った。
私は横に垂らしている自分の髪の毛に触れる。耳の下には羅紋兄ィさまから貰った髪飾りがあった。身体はここに無いはずなのに、固くて丈夫なそれは髪に刺さっていた。
この髪飾りには簪のように鋭い部分がある。少し考えて、私は髪からそれを抜き取った。留め具を失った髪の毛は、肩へ背中へと流れ落ちていく。
「待っててね」
愛理ちゃんの足についている鎖を、見えない地面に片手で押さえつけて、髪飾りの鋭利な部分を下にし、思い切り腕を振り上げた。
彼女は私の行動の意味が分かったのか、足をわずかに引っ込めようとするも、私も引けないので無理やりにでも鎖を自分の方へと引っ張る。
――カキン、ガキン。
一点に集中して叩きつける。
疲れも感じないまま、ただそれを壊すために腕を振った。
「ノギちゃん、駄目だよ。やめてよ」
「大丈夫だよ。今外してあげるから」
この鎖はどこに繋がっているのだろう。黒い地面に繋がっていて、どこから直接出ているのかが分からない。
「なんで、なんで、見捨ててくれないの」
「愛理ちゃん……」
「あんな最低な女、なんで見捨てないの!?」
彼女はまた俯いてしまう。休まずに鎖を壊すために腕を動かしていた私は、髪飾りを一度止めた。
「別に、あの人を見捨てなかったワケじゃない」
そう言ったあと、私はまた腕を動かす。
「あの女の中にまだいるかもしれない貴女を、見捨てたくなかったから」
裏庭で聞いた『ノギちゃん』の声が、唯一の希望だった。
「でも結局、諦めちゃったけど。私も、死んでしまったようなものだし」
最後の方は、周りの声と自分の中で、もうダメかもしれないと思ってしまった。だから見捨てなかった、というのは違う。 結局は諦めた。諦めてしまった。
「ノギちゃんは……死んでなんかいないわ」
俯いていた顔を上げて、愛理ちゃんは私を見た。困ったように眉を下げて、でも口元は優しく笑っている。
「え?」
「まだここにいるもの」
「それってどういう……」
――ガキンッ、
そうしているうちに、鎖を叩く音に変化が見えてきた。
渾身の力を込めて、髪飾りを振り上げる。衝撃でガキンと髪飾りの先は折れてしまったが、しかし、彼女の鎖も同時に壊せた。足に枷は付いたままだけれど、鎖が壊れたので歩き回れる。少なくとも、彼女を一人ここに置いて行くことにはならなそうだった。
「ほら行こう」
私は立ち上がって、愛理ちゃんに手を差し出す。
けれど手を取るのに迷いがあるのか、愛理ちゃんは手を上げたり引っ込めたりと動作をたどたどしく繰り返していた。
「愛理ちゃん」
「……」
「私はきっと、何か思い出さなくちゃいけないんだと思う。でも一人じゃ怖くて、この先も歩いていけない。でも誰かが隣にいてくれたら」
「私……」
「一緒に行こう」
愛理ちゃんは私の差し出した手の小指を、そっと握って笑った。




