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羽ばたかせてほしい

 《彼》が県大会への出場権を得たというのを聞いて、僕は本来、妬むはずなのだった。しかし、僕は違うことに嫉妬の矛先を向けることになった。

 それは、ナノハ。

 僕は前方の席に座っているナノハを見ていた。ナノハは彼のニュースを聞いて特段驚いている様子もなく、淡々とファイル整理をしていた。たぶん、一時間目の準備をしているのだ。


「そういえば――君、県大会に出場するんだってね」

 僕とナノハは幕張駅に向かっていた。僕は美術部、ナノハは吹奏楽部があったために、帰る時間は六時半を回ってしまっていた。空は黒に染まり、空気も冷え込んでいた。

「僕もそれくらいすごいことをしたいな」一応、本音だった。

「その話なんだけどさ」ナノハは間をおいて、「――君が今日、私に告ってきたの」

 僕はなんて反応をすればよいのか見当がつかなかった。普通の人ならば、自分の彼女が寝取られてしまうと怒るのだろうか。

 しかし、僕の場合は、怒りはナノハに向けられてしまった。

 ナノハは続けた。

「だけど、もちろん断った。もう付き合ってるって」

 本当は好きじゃないのに。

「誰って聞かれて、教えない、って拒否してたの」

 どうしてもっていくんだ。何もかも。

「でも、凄まれたから、言っちゃった。スグル君と付き合ってるって」

 僕は深呼吸をした。ナノハは何も悪くはないのだ。それは、僕の理性が理解していた。なのに、僕の胸の中では黒い物体が絶えずうごめいていた。不快だった。

 

 翌日。木曜日。

 朝から、関東地方は数十年に一度の大雪に見舞われていた。ナノハと僕は、ほぼ文字通り手を取り合いながら学校へ向かったのだった。

 教室に着いた。大雪で電車が遅れているからか、教室の人はまばらだった。しかし、いつもとは違って《彼》は既に座っていた。

 僕とナノハが一緒に教室に入るのを、彼はちらと一瞥した。

 僕は彼の席の左隣にある、自分の席に座った。いつもであれば、僕と彼は目を合わせて、おはよう、と言うはずだった。

 しかし、おはようという言葉も、視線も交されることはなかった。

 胸に穴が開いたような気持ちだった。


 放課後、美術部。

 まだしつこく降り続ける雪が美術室の窓の外から見えた。外が真っ暗なだけあって雪の舞うのがよくわかった。

「松野、先に帰っちゃっていいよ、宮野が待ってるだろうから」ヒロトは美術室を掃きながら言った。

 僕は、ここ数日、ヒロトにカミングアウトする機会をうかがっていた。最も理想的なのは京成幕張駅前だった。ヒロトととりとめのない話をして、しかるべき時に切り出す。そういうふうに。

 ところが、既にタイミングは失われていた。帰りはいつもナノハがいたから。

「そうだね……。ありがとう。じゃあ、また明日」そう言って僕はヒロトを残して美術室を出た。

 下駄箱のあたりで僕はナノハと合流した。

「まだ雪が降ってるね」

「そうだね」

 こんな会話に意味などないことを僕はわかっていた。


 降雪の勢力があまりにも強すぎて、傘を差していても白色の精は傘の中に潜り込んできていた。僕とナノハはほとんど身体を寄せあった状態だった。わざとなのかわからなかったが、ナノハは僕の身体にやたらと胸をあてがった。僕の被害妄想だったかもしれない。

 それでも、僕は特に興奮することもなかった。身を寄せたまま、京成線の踏切を越えて、総武線幕張駅の駅舎までたどり着いた。

 ところが、

「ちょっと来て」

 ナノハは僕を引っ張って、駅舎の裏側の駐輪場に連れて行く。

「どうしたの?」ほとんど見当はついているくせに、僕は訊ねた。

 ナノハは何も言わずに、手袋を外した両手で僕の顔を包んだ。ナノハの指は温かった。

「寒いね」「うん」

 ナノハの手に、僕の冷たい手を重ねた。

「幸せ?」「うん」

 ナノハの顔は、輝かしく微笑んでいた。

「もっと顔を近づけてよ」ナノハはものほしそうな目で見つめていた。

 僕は見回した。ここは駅舎の壁の死角で、タクシー広場の人通りも見えなかった。僕とナノハは二人きりだった。僕はナノハの手にしたがって、顔を近づけた。

 ナノハは目を閉じた。

 僕は顔をかたむけた。

 二人の唇が重なった

 ――重なることは、なかった。

 僕は顔を離した。最後の良心だった。

「ごめん」僕はつぶやいた。

「どうして?」ナノハは僕の顔から手を離した。「私のこと、好きじゃないの?」

「ごめん」僕は繰り返した。

「私のこと、好きなんでしょ?」

「……」僕は目をそらした。

 ナノハは、わずかに泣いていた。

 その瞬間、僕は恐怖に襲われた。

 僕はナノハをおいて、逃げた。

 間もなく来る電車に乗ろうと階段を駆け上がった。


**    **    **


 僕は総武・中央線の千葉行きを降りた。僕以外には、水道橋駅で降りる人は、ひとりとしていなかった。ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んだまま、僕はホームの階段を下って改札口を出た。

 あのあと、僕は電車の中で寝てしまった。何が原因かはわからない。とにかく、とてつもない眠気に押しつぶされた。その結果、何度も何度も寝過ごして、いつまで経っても水道橋駅に着けなかった。何度目かの千葉行きで、やっと着いたのだった。

 水道橋駅の東口側は、改札口正面の六、七メートルのところで外に大きく口を開くような構造になっており、駅の上にはちょうど線路が架かっていた。線路が雪を防ぐと思いきや、二十年に一度と言われる東京の大雪は、一切の、遠慮らしい遠慮もなく、駅の中に踊りこんできていた。幾度もの寝過ごしのせいで、時刻は既に十一時を回っていた。

 ここから都営三田線に乗り換えなければならなかった。

 僕は傘を差して、水道橋駅を左に出た。人の姿も車の形もうかがえない横断歩道を渡り、左手には雪の粉の隙間から東京ドームホテルが見えた。五十階、六十階、それくらいの高さのホテルは、ひときわ雪の中で巨人らしい風貌をしていた。

 僕は、賭けをすることにした。

 携帯電話を開き、メール送信画面を開いた。ナノハからの着信と数十件のメールは無視した。送信先は、《彼》。おそらく、彼への最初で最後のメールだった。


「以前のチョコ、僕が入れました」


 文面はこれだけだった。

 僕は水道橋駅から歩いて帰ることにした。そうすれば、歩いている間に返信があるだろう、と。

 ここ水道橋駅から僕の家まで、徒歩でだいたい三十分、こなせない距離ではなかった。僕の心の中は、いまのところ、空っぽだった。傘の中に滑り入ってくる雪に、不思議な愛着を覚えた。

 白山通りをずっと、歩いていけばいい話だった。それだけ。いたってシンプルで、たとえ電車がなくとも帰れないというわけではなかった。だから、何も不安はなかった。唯一の不安としては、母親がドアのチェーンをかけてしまうことくらいだった。そして、その不安は、直感的に、無用なものだと思った。

 ずっと雪の中を歩き続けた。

 他に歩いている人はいなかった。店もほとんどが閉まっており、通りは光を失っていた。

 僕を愛してくれる人も、僕が愛せる人も、この世にはいない。いや、もしかすれば一人だけいるかもしれない。僕は雪の中を進みながら、携帯電話の画面をしきりに確認していた。返信はない。

 このまま雪の中で凍死してしまってもいいかもしれない。寒い中での死体は、腐らないらしいし、醜い死にざまではないと思った。

 それでも、生への惰性のようなものをもって前進し続けた。そして、家に着いた。家といっても、社宅なので、自分の号室に上がらなければならなかった。十階。

 家の扉にはチェーンはかけられていなかった。僕は鍵を開けて家に入った。もう、誰も起きていなかった。家の中は暗闇だった。

 そこで、携帯電話がふるえた。

 送り主は、《彼》だった。

 僕は、そっと携帯電話を開けた。

 彼のメールを開封した。

「俺、そういうの興味ないから」

 僕にとっては十分だった。

「わかりました。ごめんなさい」


 十階のベランダは、強風にあおられた雪で視界が悪かった。

 僕はその手すりに座っていた。

 僕はイヤホンをつけていた。

 ベン・フォールズのブリック。

 羽ばたくには、あまりふさわしい曲ではなかった。

 でも、いかんせん、僕は羽ばたかなければならなかった。

 自分が同性愛者なのも、自分が何の役にも立たないのも、自分が誰からも愛されない存在なのも、自分が何の実績もあげられないのも、もはや関係なかった。

 僕は羽ばたくことにした。


 **    **    **


 僕はアンモニアくさい小部屋にいた。小便器が墓碑のようにいくつも並んだ、四メートル四方の小部屋だった。

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